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Axis of Tragedy and comedy(悲喜劇の同盟)/日米両首脳の「貧困な歴史意識」と「愚民化政策」
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投稿者 鷹眼乃見物 日時 2004 年 7 月 04 日 17:47:47:YqqS.BdzuYk56
 

 マルク・ブロック(Marc Block/1886-1944/仏の行動的な歴史学者/民衆の目線から歴史の意味を真摯に考え取り組みつつ第二次世界大戦のレジスタンスに身を投じナチス・ドイツにより逮捕・銃殺された)とリュシアン・フェーブル(Lician Febvre/1878-1956/パリ・国立高等研究実技学院、第6部門(社会・経済部門)の責任者となって、人間科学の革新に絶大な貢献を果たした仏の歴史学者)が、1929年に創刊した歴史学雑誌『アナール』(Annales=年報)の目的は、喩えれば「パパ、歴史は何の役に立つのか教えてよ!」という子供の声に答えることでした。「歴史的な出来事を覚えておけば、受験競争や社会生活で役に立つよ・・・」では答えになりません。「そんなことは知らなくたって、仕事ができて自立さえしていれば生きていけるじゃん!」と言われて終わりです。それまでのフランスの歴史学は、“第三共和制史学”と呼ばれ、国家体制のサイドから政治的事件に偏った標準的なフランスの編年史を記述することが仕事であるとされてきました。当然ながら、このあたりの事情はフランスに限ったことではなく、他の国々にもあてはまることでしょうが、20世紀初頭のフランスでこのような先進的な動き、つまり自国にかかわる批判的歴史認識の意識が芽生えたということ自体に重要な意味が見出せるはずです。それは、民主主義意識の成熟度の問題と考えることもできるでしょう。例えば、現在の日本における歴史意識のお粗末さと比較することもできます。日本では、未だに自国の近代史についての冷静な反省と批判意識が定着しておらず、それどころか、近年は、特に若年層を中心に過去の軍国主義的ナショナリズムへの共鳴すら見られるようになっています。これは明らかに歴史認識の重要性を真剣に取り上げる教育を放棄してきたことのツケが回った結果だと思われます。それはともかく、ブロックとフェーブルは、19世紀末ごろからフランスの歴史学会を支配していた伝統的な歴史学の中から、その答えを導くことは不可能だと感じていたのです。このため、彼らは、創刊した歴史学雑誌『アナール』によって人間の生活や文化のあらゆる事象を視野に入れた、広範で総合的な新しい歴史学の創造を目指すことにしたのです。やがて、彼らは「アナール学派」と呼ばれるようになります。彼らが採用した歴史研究の方法規準には、様々な新しいエピステーメ(episteme/理性的認識のための視点)がありますが、最も特徴的な点を一つ挙げるならば、それは“歴史は個々の事件の経過としてでなく、個々の要素に意味を与えるシステムという意味での全体として理解されなければならない”ということです。別の言い方をすると“歴史が時間の流れに沿いつつ過去の人間の生きてきた軌跡を対象とする学問である限り、それは現在生きている人間にとっては、歴史家の精神によって何らかの価値評価と方向性が与えられない限り単なる陳腐な歴史資料にとどまってしまう”ということです。そして、歴史家の役割は、そのように絶えず新しく意味づけられる歴史を学ぶことで、“多くの一般の人々が、人間や文化の多様性や、自分たちとは異なる人々(外国人、政治的・宗教的な立場の違い、貧富差など)の存在(心)を理解できるような精神環境を創ること”だというのです。このような歴史認識が一般国民の間で広がれば、自ずから国民の一人ひとりの意識の対象が周辺環境から地球全体へと広がり、多様な文化価値や宗教・政治・経済などの違いを乗り越えて世界の平和と豊かさを協働で実現しようとする、いわば世界市民意識(本物の民主主義意識)のようなものがうまれるはずです。
 ここで思い出されるのが、2004.1.5付の当Blog「『場の情報』と関係子/日本は『コピー民主主義』の国か?」でも触れたことですが、分子生物学者・清水博氏が唱える、生命現象の中核的な概念として注目される「関係子」と「場の情報」の関係ということです。。[詳細は清水 博著『生命を捉えなおす』(中公新書)、参照]清水氏は、人間の存在を広範な生物界全体に位置づけて捉えなおし、生命の働きについては、その全体とのかかわりの中で生成的、関係的、多義的に理解すべきだと考えているようです。そのためのキーワードが「関係子」であり、関係子が発生させるリズムの「引き込み現象」に生命の秘密を発見しようとしているように思われます。例えば、サッカーの観戦などで実感されることですが、微粒子(選手)が沢山集まってできる激しい動きには一種のチーム力のような、個々の粒子の能力を超えた、次元が異なる力が発現することがあります。その時の“協働的な動き”を個々の微粒子(選手)が明確に意識しているかどうかは定かでありませんが・・・。たゆまず生成し続ける、生きた人間の活動が織り上げた結果としての歴史についても同じような見方ができるかもしれません。今、医学の最先端では人間の全遺伝子解析プロジェクトが一応終了したことで「遺伝子アルゴリズム」なる用語が生まれており、恰も人間が遺伝子の設計図から立ち上がってくるようなイメージが喧伝され始めています。しかし、果たして機械を部品から組み立てるように、理解できた遺伝子の組み合わせから人間を創ることなどできるのでしょうか? 清水氏によると、「関係子」が作用する「生命の場」ではフィード・バックだけでなくフィード・フォワードと呼ぶ循環ループが形成されています。フィード・フォワードを比喩的に表現すると、“まず個々の粒子(分子)が自律的な個々の立場を守りながら“協働”して未来の「場」を創り、その未来の「場」から現在へ向けてバック・スキャンの光が当てられる”というような循環ループの働きのことです。
 清水氏が、初めて「関係子」の着想を得たのは、筋肉(骨格筋)におけるサルコメア(筋繊維の一単位となる筋節)の立体構造がミオシン分子(繊維の単位となる蛋白質の一種)の運動に与える影響を研究している時でした。大雑把にいうと、筋肉の中にあるミオシン分子が、アクチン分子との空間関係から、それぞれ差異がある場所に置かれており、そのために却って全体として筋肉を効率よくスムーズに収縮させているということです。ミオシン分子は、それぞれが差異を認め合った上で互いに協力し合い、全体としてサルコメアの秩序の高い動きを自己組織化しているのです。このように、それぞれ自律的に働いているミオシン分子が集まり、全体の中で適切な役割を担い合っていくためには、まずその集まりであるサルコメア全体(これが「場」に相当する)の運動に関する情報が各分子に伝えられ、各分子がその情報に基づいて自らの態度(協働のための意志決定に相当する)を決めることになるのです。この全体の状態に関する情報こそが「場の情報」または「位置の情報」です。つまり、これは筋肉システムのフィード・フオワード制御に必要な「操作情報」なのです。そして、このような「場(位置)の情報」は、一般に位置と時間によって変化することが分かっています。
 次に、問題は、どのようなメカニズムで「場の情報」が創りだされるか、ということになります。一般に環境は複雑であり、その変化を事前に規定することは不可能です。このため、総ての操作情報(ここではフィード・フォワード制御に使う情報)を予め用意することはできません。そこで、状況に応じた適切な「操作情報」を「自己組織」する必要が出てくるのです。一般に「場の情報」は環境・システム・関係子の順に上から下へ流れて、環境やシステムの状態を要素である関係子へ伝え、今度は関係子群からの情報創生によって、関係子の状態が上から下へと逆行する状態で運ばれ、全体として「情報の循環ループ」が形成されることになります。これまでのシステム論では、環境はシステムに対する固定された境界条件であると仮定され、その中でシステムと要素の関係、、そして要素と要素の関係だけを論じてきたのですが、それは、環境とシステム、そして環境と要素の関係を意味的な面も含めて議論する方法を持っていなかったからです。今後は、環境の複雑さを前提として、環境・システム・要素の三者の関係を取り扱うことができる科学を創造し、環境の方から「関係子である人間」に送られてくる「場の情報」を読み取ることがますます重要になると思われます。
 このように見てくると、「歴史」と「現在生きている人間」の関係も、この「環境・システム」と「関係子である人間」の間で形成される「情報の循環ループ」に喩えることが可能であるかもしれません。無論、歴史は過去の事象の総体ですから“現在、生きている環境・システム”ではあり得ませんが、仮に、歴史が生命体における過去の環境・システムを内包した遺伝子(及び潜在意識)のようなものであるとすれば、「歴史環境」は現在生きる個々の人間との間でフィード・バック&フィード・フォワードのループを形成し続けることになります。このように考えると、絶えず批判的な意識を活動させることによって新しい歴史認識を発見し続けることが如何に重要であるかということが容易に理解できるはずです。無論、この「歴史環境」は、フランスのアナール学派のように意識的に取り組まなければ、読みたくもなければ面白くもない、単なる歴史資料として眠り続けるだけです。ところで、残念なことですが、このような意味で歴史を学ぶことの意義(重要性)が、今の日本人の意識構造からスッポリと抜け落ちているようです。この点に悪乗りしているのが、2004.4.20付の当Blog「法の支配の原則、政教分離の原則、自己責任の原則」で取り上げた小泉総理大臣の「靖国神社参拝問題」と「政教分離原則の無視」です。これほど浅はかな歴史認識しか持てない総理大臣が大多数の国民にとって唯一のホープ(日本の未来への望みと期待を託す人物)とならざるを得ないというところに、現代日本の「悲劇的なほどの民主主義の危機」が象徴されています。それにしても、成熟した日本の民主主義を実現するために重要な、このような論点について、なぜ、これほど一般国民は無関心なのでしょうか? 一つの理由は、いうまでもなく商業主義へ傾斜してしまった大多数のマスコミによる世論誘導(メディア・コントロール)と主要な知識人たちの怠慢(専門的な知識や知恵を一般国民向けに分りやすい言葉で語ることを拒絶しているか、あるいは、それができないという意味で)ということがあるようです。もう一つ考えられるのは、世界でも稀な「日本人独特の民衆意識の伝統」のようなものが存在することです。
 日本人の「平等」という考え方の中には二つの異なる思想が混在しています。一つは、明治以降に西洋から入ってきた啓蒙思想の影響です。この思想を真剣に受け継ぐ国民は、残念ながら日本では少数派のようです。もう一つは、奈良時代以降の長い伝統を持つ「神仏習合思想」(syncretism)から生まれた「葬式仏教」や「お払い神道」という、日常生活レベルの伝統・習慣の中に根付いている「民衆思想」です。特に江戸時代は厳しい身分・階層の差別社会であったにもかかわらず、これらの伝統・習慣の中には独特の人間平等観が存在したのです。ここで詳細に立ち入ることはできませんが、神仏の前に立つ日本人は平等であるという一種の仲間意識のような精神風土が存在したのです。その仲立ちをするのが農作業・経済・宗教などの目的ごとに結成された「講」集団です。いってみれば「講」とは、社寺等を中心とした一般民衆の相互扶助と助け合いのネットワークです。一方で、身分的な位階構造に組み込まれていた社寺の組織が、このようなネットワークによって民衆と結びつくことで、そこから一種独特の平等観が生まれていたのです。明治以降になると、このような民衆意識の傾向は「新興宗教」の中に根強く残り、現代に至っています。この民衆思想の特徴は、有体に言えば“性善説を前提とする親方日の丸的な一家意識”です。従って、このような「日本独特の平等観」は、ひたすら神仏や霊的・迷信的な世界を前提にして導かれるという意味で、近代啓蒙思想が説くイデオロギー的な「自由・平等・博愛」の「平等」とは全く異質なのです。このため、日本の一般国民(庶民)が靖国神社成立の歴史的な経緯を意識しない(知らない)限り、何の疑いもなく小泉総理大臣の靖国参拝に共鳴するようになることは当然であり、不思議なことではないのかもしれません。
 このような民衆思想のもう一つの特徴は、それが普通は殆ど政治的な世界と触れ合うことがない庶民の習俗的生活に基盤を持ってきたということです。例えば、江戸時代の初期に存在した「富士講」(富士山信仰を基盤とした講)の教えの根本は「天下泰平、一家繁栄、病苦退散」という、きわめて現世利益的なものであり、視野が狭いと言えばそれまでのことですが、政治に対する批判精神のようなものが全く存在しません。これに対して、日本の知識人たちは、これら民衆の世界とは遠くかけ離れた上部の精神世界に住んできました。当然ながら、彼らには政治のメカニズムなどが見えていたはずですが、これらの知識人たちは自分たちの世界と自分たちの特権的な生活を守るために、決して庶民の目を政治批判へ結びつけようとはしませんでした。従って、日本の庶民が持つ「平等意識」は、伝統的に政治批判や反体制思想に直結することがなかったのです。無論、このように庶民が日常生活を支え合った日本独自の習俗的な側面は“和を大事にする人間関係、弱者に対する思いやり、触れ合いと癒し、相互の助け合い”など、いわば日本の庶民文化の美徳として大いに評価されるべき点があったと思われます。しかし、グローバリズムと市場原理主義的な政治・経済環境が進む中で、このような意味での日本の伝統的な習俗や習慣が「構造改革」と「規制緩和」の名目で破壊されつつあり、残っているのは、きわめて現世利益的な自己中心主義(利己主義)の側面だけとなっています。このため、今や日本の国民・庶民の間では自己中心・自己本位的な意識だけが突出してきているのです。このような状況の中で、巧妙にも(姑息にも)日本政府が自衛隊派遣に伴う政府責任の論点を人質3人へ転嫁したために、単純な「自己責任論」に安易に共鳴する利己主義のマグマ(大衆心理)が爆発したのです。このようなマグマの中から、今回の“イラク人質事件”関連の人質バッシングが極端な形で現れたようです。
 また、知識人やマスコミ人の多くは、江戸時代以前の知識人たちと同じように、現代においても、未だに庶民とは異なる上部の精神世界に住み続けて下界を見下しているのです。このため、彼らにとっての民衆(一般国民・庶民)の存在はメシの種以外の何物でもないのです。このように見てくると、日本の近代民主主義が完成するまでには相当の時間を覚悟する必要があるようです。今回のイラク人質事件でも、肝心のアメリカ政府関係者や欧米のメディアからさえも日本における人質バッシングの風潮を強く批判し、戒める声が聞こえてきたのも当然なのかもしれません。また、4/25に実施された衆議院議員の補欠選挙(埼玉、広島、鹿児島)は、過去最低の投票率(約30〜50%)で連立与党が大勝しましたが、これは半年前のお粗末な衆議院議員選挙の繰り返しに過ぎなかったようです。ここに見られるのは、一般国民の危機感の欠如(命の次に大切な選挙権を安易に放棄して平然としている精神構造)、真摯な政治的批判精神の欠如、身勝手で他人任せの安易な精神です。これこそが、一般国民の「平和ボケ」と「自己責任意識の欠如」です。そして、何よりも恐ろしいことは日本の一般国民の中に「公共善」を重視し、為政者の不正を厳しく糾弾する意識が殆ど育っていないことです。それどころか長い物には巻かれろ、お上のご意向には逆らえない、錦の御旗に逆らうのは国賊だ!”のような低劣な意識が広がりつつあることです。なぜ、一般の日本人の倫理観は、このように未熟なレベルで止まっているのでしょうか?一つ考えられるのは、国家としての日本が国土の全てを失って滅亡したという歴史的経験がないことです。そのため、異民族の支配を受け、あるいは異民族と混在して日常生活を営むというような歴史的経験も殆どありませんでした。異民族支配の下で暮らしたり、異民族との混在生活を長く経験したりすれば、必然的に時間的・空間的な異質性や多様性を乗り越えて普遍的な人間性を追求せざるを得なくなります。なぜならば、その普遍的人間性を基準値として一定の社会的規範を創らなければ国家としての協働生活が成り立たないからです。いずれにしても、このように未熟な日本の民主主義の実態が世界中に知られることになれば、日本は世界中の笑い者になります。しかし、端無くも政府と一部マスコミが音頭を取った今回の“イラク人質バッシング騒ぎ”によって、日本の未成熟な民主主義の実態が世界へ向けて発信されてしまいました。それにしても、このような愚民政策を甘んじて受け入れる日本の政治基盤に安住する政権与党の精神の退廃は恐るべきことです。国民年金の保険料を払っていなかった3閣僚(明るみに出ただけで!)の存在などは未だ可愛らしいものです。それよりも、天文学的な数字の保険料積立金の不正流用問題の顛末はどうなったのでしょうか? 機密費不正使用疑惑の追及はどうなったのでしょうか? 肝心のことは、かくのごとくムニャムニャで終わるのが現代の日本政治の現実です。与野党とも同病相哀れむですか? 本来は、政府自身が歴史教育重視の観点から本格的な民主主義意識の普及に真っ先に取り組むべきだ(イラク戦争のように、その民主主義の実現のためには武力など使わなくてよいのだから!)と思いますが、自らの墓穴を掘るようなことはできないのか、あるいは、歴史教育を改革すると、韓国の総選挙で「ウリ党」が勝利した結果もたらされたような事態(今までのシロ(白)がクロ(黒))になることを懸念しているのかもしれません。そして、なぜか憲法改正だけを急いでいます。これらのことが、日本の未来のための政治的な配慮だとすれば、まさに日本の民主主義政治は世にも稀な噴飯物の愚民化政策(mobacracy)だということになります。
<Appendix>
 「イラク戦争」突入直前のホワイトハウスのドキュメント風描写で下記(★)の本が、今、米国で話題になっています。この本の中で、ブッシュ大統領の拙速な開戦論を、中道派のパウエル国務長官がイラク人の立場(歴史・文化など)を十分考えて、もっと時間をかけて対応すべきだと諌める場面がありますが、このパウエルに対しブッシュは次のように答えています。・・・「(イラクの)歴史なんか関係ないよ、(時間が経てば)みんな死んでしまっているさ」[★Bob Woodward著『Plan of Attack』]
 ここにはブッシュ大統領の浅はかな歴史認識と異文化・人間性・人権軽視の姿勢が現れています。また、図らずも“両国トップ(ブッシュ&小泉)の浅薄な歴史・文化認識の共有”という点で、日米同盟の(情けない、というか低次元なパーソナリティどおしの)絆の強さが露呈しています。
 別に言えば、この日米両首脳に共通する特徴は、“自分の頭で考えられず、自分が理解できない不都合なことについては、その一切の責任を他人に押し付け、今度は、その責任を押し付けられた人たちを権力を嵩(かさ)に悪人呼ばわりするような卑怯者たちを賞賛し味方につける”典型的な愚民増長政策のように思われるのです。
(2004/04/26/News-Handler、初出)
<参考>関連内容について下記を参照
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/
http://blog.nettribe.org/btblog.php?bid=9816b255425415106544e90ea752fa1d
http://blog.goo.ne.jp/remb/
http://blog.melma.com/00117791/


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