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主体と権力−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義『社会を守れ』二 中山元-レヴァイアサンのモデルから解放
http://www.asyura2.com/0406/bd36/msg/192.html
投稿者 乃依 日時 2004 年 7 月 03 日 06:36:11:YTmYN2QYOSlOI
 


http://www.nakayama.org/polylogos/soc16.html


主体と権力
−1976年度のフーコーのコレージュ・ド・フランス講義
『社会を守れ』(二)
(中山 元)

★フーコーの権力分析の方法論
 フーコーが今回の戦争と人種の問題を分析する際に手掛かりとしているの
は、西洋の社会である。フーコーの権力分析は、つねに西洋の政治的な理性
批判としての性格をそなえていること注意しよう。

 ローマ帝国以来、西洋の社会の基本的な権力形態は、王を中心とするもの
だったということができるだろう。フーコーは、いかなる社会でも、権力と
法は真理のディスクールを通過する必要があることを指摘しながらも、西洋
の王を中心とする社会では、特殊な要素が存在していたと考える。この社会
では、王の主権の正統性がつねに問題となり続けたということである。

 このために伝統的な政治哲学では、王の統治の正統性はいかにして成立し、
これに伴って王に服従する臣下の法的な責務はどのようにして発生したかと
いう観点から問題を考察してきた。しかしフーコーは、中世以来のこの政治
哲学の方向性を逆転させる必要があると考えている。王の統治の正統性と服
従の責務を法的な根拠から探るのではなく、従属という行為の手続きの面か
ら、事実としての支配の問題を考察しようとするのである。
   わたしにとっての問題は、主権と、この主権に従う個人の責務という
   法にとって中心的な問題を迂回あるいは回避しながら、主権と服従の
   問題の代わりに、支配と従属の問題を登場させることである(Soc:24-
   5)。

 そのためにはフーコーは、次の五つの方法論的な規則が必要だと考えてい
る(規則の名称はわたしが勝手につけている)。
(1)周辺性の規則。伝統的な政治哲学で考察してきた権力の中枢とその中心的
な理論ではなく、もっとも末端において行使される権力の状態を考察するこ
と。準拠する政治理論がほとんど無効になるような場所で、権力がいかに自
らの根拠づけを行うかを追跡すること。個々のケースにおいて、権力がどの
ような技法と装置を使用し、ときには暴力的になるかを検証すること。フー
コーが『監視と処罰』において、当時の支配的な政治理論ではなく、現場に
おける処罰と拷問の実際を考察したのは、この規則に従ったものである。

(2)外面性の規則。権力をその意図や目的の観点から分析しないこと。すなわ
ち権力を内面から分析するのではなく、実際に行使されている場において、
その効果と手段において、外面的に分析すること。権力の主観的な意図を考
察するのではなく、権力が実際に行使され、支配と従属の関係を生み出す中
で、どのような従属の主体が形成されるかを考察すること。これも『監視と
処罰』で一貫して守られてきた規則ということができるだろう。

 フーコーはこの方法がホッブスの『レヴァイアサン』と正反対の方法だと
指摘している。ホッブスは国家とは個人を構成部品とする装置の総体のよう
なものとして考えていたが、つねにその中心に「魂」を想定していた。この
魂が主権である。ホッブスはこの主権の性質と根拠について考察を集中する
が、フーコーは国家を形成する末端の部分において、権力の効果によってど
のようにして臣下=主体が形成され、これが国家というものを作り出してい
くかを考察しようとするのである。

(3)移動性の規則。フーコーは、権利を均質でまとまりのある現象と考えるの
ではなく、たえず移動し、循環し、リンクを作り出すものとして考察する必
要がある。これは権力を経済的なモデルとして考えるのをやめようというこ
とでもある。権力はだれかが所有している財のようなものではない。権力は
機能するのであり、ネットワークにおいて働く力のようなものである。

 個人が服従する権力が、個人と別に実体的に存在するものではなく、個人
が権力を作り出すと考えるのである。個人が抱く意見、欲望、ディスクール
の総体が、権力を生み出すのであり、同時にこうしたディスクールや欲望は、
権力の効果でもある。フーコーは権力と個人の関係を循環的でネットワーク
的なものとして理解しようとしている。

 ネットワークはそのターミナルが存在しなければ存在しない。しかし同時
に、ターミナルはネットワークのターミナルであり、ネットワークが存在し
なければ存在しえない。ターミナルはネットワークを作り出すものであると
同時に、ネットワーク全体と他のターミナルとの関係では、ネットワークの
効果にすぎないのである。フーコーは、個人と権力の関係を、このようなネ
ットワーク的な関係として考察する。権力があって個人を支配し、抑圧する
のではなく、個人が権力を形成し、同時に権力の支配に服従するのである。

(4)上昇性の規則。フーコーは、権力を分析する際には、上部にある権力が下
部の主体にどのように行使されるかではなく、権力の機能する末端から、ど
のようにして権力が形成されるかを分析する必要があると考える。権力から
主体へという下降の視点ではなく、末端から権力の中枢へという上昇の視点
が必要なのである。

 これは第一の周辺性の規則の論理的な帰結でもある。その実例をフーコー
は狂気の分析で説明している。伝統的な方法では、一八世紀にブルジョワが
権力を掌握したことによって、狂者の監禁にどのような効果が生じたかと分
析する。しかしフーコーは、この還元主義的な分析はつねに「容易」であり、
つねに同じような結論が導かれることを指摘する。経済的に無用な人物は監
禁されるという具合にである。

 フーコーはさらに、ライヒは小児の性欲について、同じような還元主義的
な考察をしていることを指摘している。重要なのは、基本的な見地を先に決
定しておいて分析するのではなく、具体的な事実に基づいて理論を構築する
ことである。

(5)非イデオロギー的な分析の規則
 最後にフーコーは、イデオロギー論を濫用することを戒める。政治的な現
象の分析においてイデオロギーが存在すると指摘することは容易であるが、
それは問題の解決にはならない。重要なのは大衆を支配しているイデオロギ
ーを指摘することではなく、知が累積される方法、調査や分析の方法、検証
の装置などの具体的なありかたである。

 イデオロギー的な意識が形成される機構を内的に分析する必要があるので
あり、イデオロギーを「名指す」だけでは、問題の分析は一歩も進まないの
である。フーコーは権力が行使される際には、ある種の「知の装置」を必要
とするのであり、それはイデオロギーに随伴するものではないことを指摘し
ている。

★主権理論の役割[1/14-2]
 さてフーコーは、権力理論を分析するには新しい視点が必要であると考え
て、そのための方法論を提示したのだが、フーコーはこの講義ではそれを現
実に適用するわけではない。この方法論は『監視と処罰』から生まれた方法
論であり、それが適用されるのは、『知への意志』においてであると考えた方
がいいだろう。

 この講義でまずフーコーが関心を示しているのは、権力の理論の歴史的な
分析である。西洋の政治哲学の歴史において伝統的に受け継がれてきた主権
や権力の理論を検討することで、現代の権力理論が暗黙的に想定しているも
のを取り出そうとするのである。フーコーは、新たな権力理論を構築するた
めには、なによりも近代の初頭において圧倒的な力を発揮したホッブスのレ
ヴァイアサン・モデルから解放される必要があることを強調する。
 
 レヴァイアサンのモデルは、国家を人為的なメカニズムと考えながらも、
一つの統一のある生体として考えるものだった。さまざまな部分は生きた人
間たちで構成されるが、その魂であり、頭である部分が国家の中心であると
考えていた。この魂が主権だと考えられていた。この主権の概念は、ボダン
以来の西洋の国家論の根底にあるものであり、国家の絶対的な権力そのもの
と考えられてきたものである。

 フーコーはホッブスのレヴァイアサンの主権モデルは、中世以来の君主国
家のモデルであり、これには次のような特徴があると考える。まずこのモデ
ルは、封建国家の権力メカニズムを参考にして構築されたものである。また
このモデルは、君主国家の権力構造に依拠して構築されるとともに、こうし
た権力構造を正当化するために構築されたものである。

 さらに一六、一七世紀の宗教戦争以来、この権力の理論は王の権力を強化
するために使われると同時に、王の権力を制限する理論としても使われてき
た。カトリックの君主国家論も、プロテスタントの反君主国家論も、同じ主
権論に依拠しているのである。フーコーは、リベラルなプロテスタントも、
王政否定論者も、封建国家改革論者も、だれもがこの主権論を基礎としてい
たことを指摘する。

 最後に一八世紀になると、この主権論はルソーを中心とする論者の手によ
って、権威的で絶対主義的な君主国のモデルに代わる権力モデルを構築する
ために利用された。フーコーは、ルソーの議会による代表の理論とフランス
革命の理論も、この主権モデルを基礎としていたことを指摘するが、これは
ルソーの一般意志の理論について考える上でも、興味深い視点だろう。

 ところが、一八世紀頃からこの主権理論とはまったく異質な権力のメカニ
ズムが登場する。フーコーはそれを一つの「発明」(Soc:32)と呼ぶが、これは
主権の理論のように、領地と領地から得られる生産物を対象とするのではな
く、人間の身体とその産物に焦点をあてる権力の理論である。

 この権力のメカニズムは、蓄積された財産と富ではなく、人間の身体、時
間、労働のもつ力に注目するメカニズムである。これは義務と忠誠の原理に
よってではなく、永続的な監視の方法によって統治するメカニズムである。
そして富や財産を奪うことではなく、「臣下=主体」の力を拡大させ、その効
率を向上させることを重視するメカニズムである。フーコーはこの新しい権
力のメカニズムは、主権理論とは正反対のものであると考える。これは死ん
だ富ではなく、労働する生きた身体に依拠する権力の理論だからである。

 フーコーはこの新しい権力メカニズムは、ブルジョワ社会の偉大な発明の
一つであり、資本主義はこの新しいメカニズムによって初めて可能となった
と考える。フーコーはこの権力を「調教権力」と呼ぶが、暗にウェーバー批
判を含むこの議論は、『監視と処罰』の結論を踏まえながらも、すでに生-権力
の理論へ向かう方向性を示すものである。

★規範化の権力
 フーコーは西洋の政治理論における主権概念の重要性を指摘した後に、主
権理論がこのように近代の政治理論として重要な意味をもった根拠について
考える。

 まずこの主権理論は、18世紀と19世紀において、君主制を批判し、「調教
社会」の形成の障碍となる要素を批判する重要な役割を果たしたことがあげ
られる。しかしさらに重要なことは、これが調教社会において行われている
調教のプロセスを覆い隠し、調教される存在に自律性の幻想をもたせる上で
役だったことである。

 国民は主権者であり、同時に支配される客体でもある。カントは法哲学に
おいてこの二重性を、フェノメノン人間とヌーメノン人間の二重性として描
いていた。フーコーは、最初は君主制の批判の手段として利用された主権の
理論が、近代社会になってからは、調教のメカニズムを効率的に動かすため
の有効な手段となったと考えているわけである。
  近代社会においては、主権の公共的な権利と調教の多形的な機構の間の
  異質性の戯れそのものにおいて、そしてこれに基づいて権力が行使され
  る(Soc:34)

 ただしこのことは、主権の理論だけが「語り」、調教のメカニズムは闇の中
で「黙して」機能するというわけではない。正統的な政治理論の背景で、調
教のメカニズムは独自のディスクールを語り、独自の知の装置を作り出す。
このディスクールは独自の知、独自の真理の体系をそなえているが、法と主
権の理論からは光を当てることのできないディスクールなのである。フーコ
ーはこのディスクールは、法ではなく、規範(la norme)を作り出す臨床的なデ
ィスクールであることを指摘している。

 フーコーは、人間科学の役割と存在理由は、法という形で明文化できない
社会の「臨床的なディスクール」である規範normeの問題を考察することに
あったと考えている。そして近代以降の社会の重要な特徴は、この社会の規
範化が次第に進展し、法と主権の理論を侵害していったことにある。ここで
フーコーが規範(ノルム)を、ヘーゲルの人倫のような形では考えていない
ことに注意しよう。これは近代以降の社会に特長的なものとして想定されて
いるのであり、時代的な刻印をおびたものなのである。

 われわれは社会において生きるためには、その社会の規範を身につけざる
を得ない。だれも真空の中に誕生することはできず、その社会のエートスの
中でしか生きることができないのである。そして法律とは、多かれ少なかれ、
この社会の規範の中から生まれてくると考えることができるだろう。しかし
フーコーがここで考えている規範とは、これとは異なるものである。

 この規範については、フーコーが正常性との関連で考えていることに注目
しよう。何が正常であるかを決定するのは、基本的には医学である。身体の
医学が、肉体にとっての正常性を定め、精神の医学が心にとっての正常性を
定める。正しい欲望とはなにか、正しい生活とはなにかは、医学的な基準に
よって決定される。フーコーは近代の社会が、医学的な正常性の基準に基づ
いて支配されている社会だと考える。規範化された社会とは、正常性の基準
によって自己統治される医学化された社会だということになる。

 フーコーは、この規範化された社会においては、権力について「抑圧」と
いう概念を使うことは不適切だと考える。抑圧概念は、相変わらず主権の理
論をターゲットとしており、近代社会の調教のメカニズムを批判することが
できないからである。フーコーはかなりの曖昧さを残しながら、調教的な社
会でない権力を模索するためには、主権の理論を批判したり、抑圧の概念で
権力を批判したりしてはならないと指摘する。ライヒのような抑圧と解放の
モデルでは、現代社会の性と権力のありかたをうまく捉えることはできない
のである。

★主体と権力
 さてフーコーは主権の概念に基づいた権力理論の問題点をまとめてから、
さらに議論を進めようとする。主権の概念による権力理論の第一の問題点は、
それが「主体から主体へ進むサイクル」(Soc:37)を形成し、この循環から逃れ
ることができないことにある。この主体は、主権の理論において権力の主体
となると同時に、臣下として主権に服従する主体である。
  主権とは、主体から主体へと進む理論であり、主体と主体との政治的な
  関係を構築する理論である(Soc:37)。

 また、この主権の理論の第二の問題点は、権力の統一性の場を創立せずに
は、権力を行使する主体を考察することができないことにある。その統一性
が、君主国家であろうと、近代的な国民国家であろうと、ともかくその統一
性以前には、権力の場が存在しないと考える傾向がある。
  政治的な権力として考えられた権力の多数性は、主権の理論によって創
  設されるこの権力の統一性からでなければ確立されえないし、機能する
  ことができない(Soc:37-8)。

 第三に、この主権の理論は権力の正統性を確立するものであり、この正統
性は法によって基礎づけられるものではなく、逆に法を基礎づけるものとし
て考えられていることが指摘できる。この主権の理論はいわば「一般法」の
ような地位にあり、法はこの理論に基づいて機能することができると考えら
れている。

 フーコーは、主権の理論はこの主体、権力の統一性、法という三つの次元
で創設的な役割を果たしていると考える。主体は主権の理論の後で、主権に
服従する主体として形成される。権力の可能な場は、主権の理論によって確
立されるのであり、主権の理論は権力の場の可能性の条件のような位置にあ
る。そして法の正統性が保証されるのも、この主権の理論によってである。

 フーコーがこの年の講義で試みるのは、権力について歴史的および経験的
に考察することによって、この主権の理論を越えた権力の理論を構築するこ
とである。これはいわば、主権の理論が果たしている創設的な機能を逆にた
どることで、主権の理論を解体する試みと言えるだろうか。

 まず、主権によっていかにして主体が可能となるかと問うのではなく、主
体が権力の場において服従し、あるいは権力を行使するという経験から、い
かにして主体が形成されるかを考察するのである。主体は単に至高の権力に
よって臣下として形成されるだけではなく、権力の場において現実に行動す
ることで、自らを主体として形成していくはずだからである。

 また、社会契約の理論のように、主権からいかにして権力の源泉が誕生す
るかを問うのではなく、支配の場における異質な行為者が、いかにして互い
に影響しあいながら、他者や自己の権力を強化したり、あるいは弱めたりす
るかを問うのである。ここでは権力の場の統一性が前提とされるのではなく、
子供と両親、知識のある者と知識のない者、使用人と経営者などの関係にお
いて、どのようにして権力の相互的な関係が形成されるかに注目するわけで
ある。

 最後に、基本的な正統性がどのようにして主権や契約の理論から生まれる
かを考察するのではなく、正統性を保証する技術と装置がどのように作動し、
どのようにして正統性を生み出していくかを問う。権力の正統性が主権によ
って保証されると考えるのではなく、現実の生活の場において、いかにして
正統性がたえず形成され、裏付けられ、あるいは反駁されるかに注目する。

 この三つの視点においてフーコーが望んでいるのは、権力がいかにして形
成されるかではなく、権力という関係の場において、いかにして主体が形成
され、この主体が権力を強化し、裏付け、否定し、作り変えていくか、そし
てそれによって主体そのものがいかにして変わっていくかを考察することだ
といえるだろう。フーコーはこのテーマを『監視と処罰』ですでに展開した
きたのだが、この講義の特徴は、この問題を戦争についてのディスクールに
おいて考察しようとすることにある。

注:Michel Foucault, "Il faut defendre la societe", Seuil/Gallimard,1997(Socと略記し
ます)

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