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(回答先: 1964年東京オリンピックから40年(中条一雄) 投稿者 愚民党 日時 2004 年 6 月 29 日 03:39:01)
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1 2004. 03. 09
[時代の証言者]都市づくり・鈴木俊一(1)五輪“起爆剤”に首都改造
東京朝刊 解説
13頁 2683字 05段 写真
◇93歳
東京オリンピックと大阪万国博覧会。鈴木俊一は内務官僚時代に培った堅実な手腕で、戦後日本の二大イベントを成功に導いた。その後、東京都知事に転身する。「官」に身を置いた六十余年は、復興から発展への土台となった「都市づくり」の時代と重なる。(解説部 木戸健介)
一九六四年(昭和三十九年)十月十日、第十八回オリンピックの開会式が、秋晴れの東京・国立競技場に昭和天皇、皇后両陛下をお迎えして行われました。私は大会関係者の一人として、聖火台と向かい合う形で設けられたロイヤルボックスの後方にいましたが、ひどく緊張していたようです。式典が無事終わるかどうかばかり気になり、当日の記憶はほとんどありません。覚えているのは、大きなトラブルもなくこの日を迎えることができ、ほっとしたことです。
《日本での夏季五輪は万国博覧会とともに、一九四〇年に東京で開催されることが内定していたが、日中戦争で中止になった。五九年四月、日本オリンピック委員会の東(あずま)龍太郎委員長が東京都知事に当選。翌月、西独ミュンヘンで開かれた国際オリンピック委員会総会で、六四年の東京開催が決定した》
五九年当時、私は第二次岸信介内閣の官房副長官で、岸首相はオリンピックに大変熱心でした。しかし、東さんはもともと学者で、行政にはずぶの素人です。そこで、開催が決まると、自民党の川島正次郎さんから、続いて岸首相からも直接、「オリンピックの成功には君の行政経験が必要だ。副知事として東知事を助けてやってもらえないか」と話がありました。
川島さんは五五年に旧自治省の前身、自治庁の長官を務めたことがあり、次長としてお仕えしました。その後も、節目節目で貴重なアドバイスをいただくことになりました。
しかし、官房副長官から都の副知事というのは格下げで、月給も九万円から八万円に下がります。ざっくばらんな人柄の赤城宗徳官房長官などは「嫌なら断っても構わないんだから」と気遣ってくれましたが、地方自治の現場で汗を流すのも良い経験と思い、引き受けました。
仕事は、開催都市として国際的に遜色(そんしょく)ない競技場や選手の宿泊施設を用意したり、道路など社会資本を整備すること。ただし、五年後の本番には何としても間に合わせるという条件付きです。覚悟はしていましたが、事実上、私が一切合切取り仕切ることになりました。
《五輪の関連事業は、メーン会場となる国立競技場の拡張、水泳競技などが行われた国立屋内総合競技場や柔道会場の日本武道館の建設、道路や上下水道の整備から東海道新幹線や地下鉄建設まで多岐にわたり、事業費総額は九千六百億円を超えた。ちなみに、当時の年間国家予算は三兆円前後だった》
準備の段階で最も紛糾したのは、選手村をどこにつくるかという問題です。当初は、埼玉・朝霞の米軍キャンプを予定していましたが、六一年五月、米軍が返還には応じないことが分かり、白紙に戻ります。代わりに米側が提案してきたのが、駐留軍の住宅などがあった東京・代々木のワシントンハイツ(約九十二ヘクタール)でした。
とはいえ、この時点での計画変更は、「朝霞選手村」を前提にすべての準備を進めてきた私たちには青天の霹靂(へきれき)です。これでは、埼玉からの交通手段として突貫工事をしてきた環状七号線などが「不急の道路」となり、それまでの努力がむだになる。「代々木選手村」を推す国に対して、「絶対のめない」と反旗を翻すことになりました。話し合いは平行線が続きましたが、同年十月、五輪終了後に選手村跡地を都の公園にすることを国が確約したため、OKを出しました。
国有地を自治体の公園用地にする場合、当時は「無償貸与」が原則です。ところが、都心の広大な一等地とあって、国もすんなり渡してくれたわけではありません。私が「ただで」と主張すると、交渉相手の大蔵省主計局長は時価相当額の負担を要求してくる。結局、米軍住宅を東京・調布市へ移転する費用約九十億円の半分を都がもつことで、話がつきました。
この土地が、七一年四月に全面オープンした都立代々木公園(約五十五ヘクタール)です。
いまにして思えば、朝霞は国立競技場から二十キロ・メートルも離れており、代々木の方が使い勝手がいいのは明らかでした。それなのに、日本側は当初から、ワシントンハイツの返還は無理だと踏んで、勝手に青写真を描き、そのつけが大詰めで噴き出した格好です。詰めが甘かったのは否定できません。選手村一つとっても、日本側の自由にはならなかったわけです。
占領時代はとっくに終わっていたのに、オリンピックでもアメリカに振り回されたと言えるのではないかと思います。
《東京の人口は戦争中の四二年に七百三十五万人だったが、終戦直後は半分以下の三百万人台に落ち込んだ。その後、復興につれて急増し、六二年には一千万人を突破した》
選手村を巡っては、NHKへの譲渡問題も忘れられません。米軍住宅の移転問題が決着すると、今度は、「選手村の一部を放送センター建設のためNHKに分けてやれ」という話が政府からありました。後にオリンピック担当大臣を務める佐藤栄作さんの強い意向でした。
苦労して手に入れただけに、思わぬ“横やり”に、東知事は困惑し、私も違和感を覚えました。都議会も、「政府による自治の破壊だ」「官房長官を呼んで説明させろ」と猛反対です。しかし、国の方針は変わらず、NHKに渡す用地(八ヘクタール余)に見合った国有地を、政府が手当てすることで、矛を収めざるを得ませんでした。
その土地には、NHKの放送センターが建設されました。
東京の復興は目覚ましいものがありましたが、人口や企業の急激な流入に社会資本の整備が追いつかない状態でした。そのため、「国際化」という“外圧”によって、首都の改造を一気に進めようとしたのが、オリンピックです。東京はもちろん、日本が名実ともに、「戦後」と決別して新しい一歩を踏み出す起爆剤でした。(敬称略)
◇
◇鈴木俊一(すずき・しゅんいち)93歳 1910年(明治43年)東京生まれ。33年(昭和8年)、東大法学部を卒業して内務省に入り、戦後、自治庁などの次長・事務次官を8年、官房副長官を1年務める。東京都副知事、日本万博協会事務総長などを経て、79年、都知事に当選。4期16年間務める。
写真=米軍住宅を利用した代々木選手村の全景。上方には屋内総合競技場が見える(1964年10月)。大会後、米軍住宅は撤去され、代々木公園として生まれ変わる
写真=代々木選手村の開村式であいさつする鈴木(1964年9月15日)