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「たにしのつぶやき」、《 論調の視点を始点とする思考 2004/06/28 》
http://homepage1.nifty.com/kikugawa_koubo/tanishi.htm
情報はそれなりの事象を伝える。しかし、単に事象だけの伝達で止まるかというとそうでもない。殆どのものが伝達する側の意思を反映する論調を伴っている。
これにより、受け手は事象を知ると同時に、その論調の視点までも意識・無意識に関わらず取り込むことになる。そこで意識的に事象と論調の区別が出来れば問題はない。処がその切り分けが出来る受け手は殆どいないようだ。
なぜそのように想うかといえば、その事象に対する社会の反応(反響という形で現われる多数の声)を見ていると、伝達された事象に付加されていた論調の視点を踏襲した考えで埋め尽くされている意見が殆どであるからだ。
このようになるのは「論調の視点」を、受け手が「思考の始点」としているからに他ならない。伝達された事象だけに何らかの判断を下そうとする時は、その視野は360度ある筈だが、受け手が「思考の始点」を「論調の視点」におくと、その視点立ったとき、視野に入らないものは全て見逃してしまう。
その上に、論調の持っている視点に収まる視野は180度であったり、90度であったり、時には30度以下であったりする。確かに、視野が狭いほど思考を廻らすのに迷いはなくなる。そこで論調の視点が持つ視野が狭いものほど、反響は早く現れる。このようなものほど一般には好まれているのではないだろうか。
しかし、それでは伝達側の誘導に随って着地点に到達することになる。だが、現代人の多くは論調の持つ視点に無条件で飛び付くのが習性となってしまっている。その上にこの習性は何時も威張りくさって、「視点の視野に入らないもの」の声が湧いても、多数の力で排除してしまう。
これでは、その事象が何を齎す結果となるかを想像する範囲を狭めてしまう。同時に、その視野に入らないものは思考の対象から排除される。たとえ視点の直ぐ隣りにあってもだ。
ここに多くの物事が中途半端になり、解決策を見出せない根本的な原因があるように想う。極めて狭い視野の下で、幾ら多数の人間が議論しても、行く着く先は論調の視点なのだから、その議論の帰結は最初から判っているようなものだ。
今の社会に氾濫する意見に多様性が見られないのは「論調の視点」を「思考の始点にする」ことに慣れきっている所為だろう。やはり、事象にまつわるものの成り行きを判断するには、事象が持っている360度の視野のある位置を「思考の始点」とすべきではないだろうか。