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イラクの南部に、広大な湿原がある。あった、と言ったほうが良い。10年前、フセイン政権はこれを埋め立てた。当時反政府ゲリラの温床になっていたからだ。その湿原を今、復元しようという話がある。日本政府も「環境保全」として積極的らしい。
80年代後半、3年間イラクに住む間、湿原地帯をじっくり見る機会は1回しかなかった。イランとの戦争中で、脱走兵は逃げ込むわ、反フセイン工作員がイランから入り込むわで、外国人がふらりと行けるような所ではなかったからだ。でも1度行った時は、セリーファと呼ばれる葦葺(あしぶ)きの家が、うっそうと茂った葦やぶのなかに乱立していた。
葦を束ねた柱の上に葦のゴザをかぶせた小屋で、水郷の上だから年月がたてば土台の柱に水がしみて朽ちていく。住民は屋根のゴザだけ取り外して持って移動し、別のところに新しい小屋を作る。1人でセリーファが作れれば、それは一人前の男の証明だ。
湿原だから、主要産業は農水産業しかない。水郷をすみかとする水牛の乳でできた生クリームの味は天下一品! ゲーマルと呼ばれ、ナツメヤシのシロップと一緒にパンに塗るのが、最高の朝食だ。
しかし、生活は貧しい。フセイン時代よりはるか昔、50年代の湿原地帯は大地主の収奪に苦しんでいた。食い詰めた小作人は、夜逃げ同然に村を出て、都会に職を求めていく。一人前の証であるセリーファの葦ゴザを抱えて。
その頃のバグダッドは治水管理も十分ではなく、一歩郊外に出れば洪水ですぐ浸水した。湿原から来た若者たちは、そこに故郷と同じ葦ぶき小屋を建てて、都市の底辺労働に従事した。折しもバグダッドは高度成長期。日雇いの土木工事や鉄道建設に雇われた彼らは、当時大衆的浸透を強めていた共産党の格好の支持基盤になっていく。50年代のイラクの左翼運動は、湿原出身の都市労働者が支えたといってもいいぐらいだ。
70年代に左翼運動が停滞しても、湿原出身者の反骨精神はやまない。今度はシーア派イスラム運動の担い手と化す。今はサドルシティーと呼ばれる旧スラムの住民は、フセイン政権時代繰り返し政府に反旗を翻した。湿原自体もイスラム勢力のゲリラ訓練所となり、さまざまな武装勢力が葦の茂みに身を隠して、政府軍兵士をゲリラ戦の泥沼に引きずり込んでいった。
8月にナジャフのアリ聖廟(せいびょう)に立てこもり米海兵隊と鮮烈な戦争を繰り広げたマフディ軍団は、まさにこの「湿原の子孫たち」だ。故郷の湿原にいても、首都の旧スラム地区でも生活は一向によくならない。それどころか、朝起きたら突然米軍に包囲される。
フセイン政権が倒れて新しい時代になったというのに、おれたちは相変わらず一番見捨てられている。戦後はよくなるはずなんじゃないのか? おれたちの時代がくるはずじゃないのか?
「聖地を血で汚すな」。大アヤトラの鶴の一声で、マフディ軍団の民兵たちは一応ナジャフからは撤退したものの、失うものの何もないこの若者たちの絶望は、深い。彼らは、また新たな土地で「おれたちの時代」を求めて戦いを続けるのだろうか。
http://www.be.asahi.com/20040911/W12/0025.html