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「私たちは米軍が使う兵器について、たくさんの経験を積みました」
パトリック・グラハムは米軍が金曜日にファルージャの包囲を解いたあと、市内に入った最初のジャーナリストです。この迫真的な報告の中で、米軍が残した破壊と傷について明らかにしています。
2004年5月2日日曜日
オブザーバー紙
原文:
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1208097,00.html
(訳:earthspider)
ファルージャで一番新しい五つの墓地のひとつで、細長く掘られた溝のそばに立ちながらムスタファはたずねる。「彼らは果たして同じことを、ニューヨークやカリフォルニアでやるんだろうか」
近くの看板にはこうある。「王者のなかの王者、オリンピアーズ」ファルージャのサッカーチームの標語だ。ここは彼らの試合場だった。シンダーブロック(訳注:建築用コンクリートブロックの一種)のシートの列が、ほこりにまみれたフィールドを見下ろしている。五十ヤードの長さの溝の一本の脇に、サンシャインのハイトップ・スニーカーが一足置かれている。腐った血と、蝿にまみれて。
セメントの板に赤く塗られた文字が、この街の最近の歴史を物語る。「殉教者、氏名不詳、遺骨のみ」墓標の一つにはこうある。また一つは「殉教者、氏名不詳、車種ホワイトオパール、車体番号バグダッド31297」。さらに同じ区画に「女性殉教者、頭部なし、サアド・モスクの側で見つかる」
「皆が殺されたのは、死んだ米兵四人のせいだ」フィールドの裏にある小さな空き地に続く廊下へ身をかがめながら、ムスタファは言った。そこは最初の間に合わせの墓地で、遺体がサッカーグラウンドへあふれだす前につくられたものだった。百人数えたあと、数はわからなくなった。
「狙撃兵だ」銃声を聞いてムスタファが言う。米軍の戦闘機が低空を飛び、街のどこかで爆音が轟く。「爆撃だ」と、ムスタファは言う。
金曜日、米海兵隊はファルージャの治安維持をジャッセム・モハメッド・サレー少将に委任し、包囲された街近くの各地点から部隊を引き上げた。少将はサダムの歩兵部隊を率いていた人物である。鉄条網の防衛線を取り壊し、戦車が三週間にわたり基地として使ってきた清涼飲料水工場から引き上げていった。
サレー少将は、「ファルージャ暫定旅団第1大隊」と米当局者が呼ぶ部隊の指揮官に就く見込みだ。このスンニ派勢力の砦の治安を維持するための新しい軍隊で、以前はサダムの軍の一員であったり、反乱勢力の一部であった一千人からなる部隊である。
ムスタファ・ハミッドは二十二歳の学生で、ナイトシャツのようなディッシュダーシャ(訳注:アラブの白いシャツ)を着ていた。金曜日の午後、彼はサッカー場にふらりと立ち寄ったのだった。大通りでは、イラク警察と兵士たちが組になって立っている。だが裏通りでは、抵抗戦士たちが動き回っていた。一人は徴発したパトカーに乗っていた。ムスタファが話しかけていると、一人の戦士がカラシニコフを肩にかけ、自転車に乗ってやってきた。顔にはスカーフを巻きつけて。若き戦士、ファルージャで今呼ばれるところのムジャヒディンは、外国人たちについての質問をはじめた。
こういった戦士たちが今後どうなるかはまだ不透明だ。抵抗勢力は不特定かつほぼ統制不能な戦士たちの集団で、やってきては去っていく停戦には無頓着なのだ。イラク人仲介者とイラク人兵士は彼らを統制できるかもしれないし、無理かもしれない。
ファルージャの人々が彼のような男たちをどれだけ支持しているのかを見定めるのは難しいが、三週間にわたる戦闘のあとで、多くの人々はムジャヒディンにはもううんざりだとこっそり不満をもらしている。だが、アメリカ人たちに対する憎悪は皆に共通であるように思える。
「アメリカ人たちは、四名の兵士の死に何ら無関係の人々を殺したんだ」ムスタファは再度語る、四月の始めに殺害され、手足を切断された米軍下請けの警備会社社員たちについて。彼らの死は利用され、米軍のスポークスマン、マーク・キミット准将が「まだわかっていない」と有名な言葉で評した都市に対する攻撃の口実に使われたのだ。
実際のところ、米軍はファルージャ市民に「わからせる」ことなどできたためしがなかった。軍事的にも、意識的にも。八ヶ月以上にわたりファルージャは米軍の統制下になかった。昨年の四月二十八日、抗議行動に参加した十七名のイラク人が米軍によって殺されたことにはじまる、暴力の連鎖に捕らわれたのだ。九月以降になると犠牲者数は増えつづけ、新たな米軍部隊が到着するたびにその数は劇的に上昇した。アメリカ人たちが実力を行使すると決めたときには、地元部族や宗教指導者、そしておそらくは外国からの戦士たちは、十分装備を整え待機していた。今やアメリカ人たちが残したのは、心に深い傷を負い、怒りに燃える都市なのである。
彼らはファルージャで勝利することはできなかった。海兵隊の最初の侵攻は工業地域に対して行われ、抵抗勢力は武器貯蔵庫を押さえられたが、武器はすぐに補充された。サダムの戦争の二十年間で、イラク人は戦うすべをよく学んできたのだ。多くの士官の出身地であるファルージャにおいては、なおのことだ。
ファルージャで話した人は皆、狙撃兵について語った。近所のある地域では、外出が確実な死を意味したという。住民は米軍がファルージャにそびえる光塔(ミナレット)を狙撃場所に使ったという。「モスクの街」と呼ばれる場所である。米軍は抵抗勢力が同じことをやったと非難する。
墓地と同様、病院は何が起こったかについて多くを明らかにしてくれる。はじめに、川を越えたところにある最大の病院への交通が遮断され、医師たちは三つの小さな診療所に移動を余儀なくされた。当初の戦闘で負傷した民間人の多くは、モハメッド・サマラ医師が語るところの「爆発による複数箇所の負傷」を受けていた。切断された手足、破れた腹部など、人々の多くが家のなかに閉じ込められていた際に受けた爆撃によるものである。
「その後、ほぼ全ての犠牲者は頭や胸に狙撃による傷を受けていました」サマラ医師は言う。「負傷者の九十パーセントは民間人でした。子どもに老人、女性・・・。戦士たちは薬だけ受け取ると去っていきました。傷の特徴は米軍によるものだということを示しています。私たちは昨年一年間というもの、米軍が使う兵器についてたくさんの経験を積みましたから」
金曜日には負傷者はなかった。しかしその前日には銃で撃たれた三名の民間人が運び込まれてきていた。記録によれば、この病院には219名の死者が搬送され、負傷者は471名にのぼったという。遺体の多くはまだ放置されており、庭に埋められたものもある。犠牲者数はしばしば過小に報告されており、攻撃のあと調査を行ったイラク人たちによれば報告されている死者は四十パーセントでしかないという。イスラム法が即時の埋葬を定めているからである。
病院の外で、サマラ医師は間に合わせの遺体置き場として使われている駐車場を指さした。「ときどき、私たちは一家全員をそこに横たえました」