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(回答先: 気にかかったのは「ワガママ」ではなく人質家族の「義務」という部分です。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 4 月 25 日 04:45:55)
>あっしらさん、ご意見は承りました。意見の交換は人を高めると思いますので感謝しています。それは自分に無いもしくは不足した視点に気付かせるものです。
>気にかかったのは「ワガママ」ではなく人質家族の「義務」という部分です。
は私の思い違いでした。私が切れた原因の一つでもあるので少しスペースを割いて答える必要があるかもしれません。
私は切れにくい方だと自分でも思っています。思わず感情的になったのは5年ぶりくらいです。自分への批判等ではほぼ切れません。家族が「自衛隊の即時撤退」を叫んだ時にも私は切れませんでした。
私が切れたのは人質が解放されるとの情報が入り、当初の予定の正午を大きく遅れた、夜の報道番組での事です。
「現在の心境は?」との記者の問いに家族は
「まだ、解放との情報も無いのに心配に決まっている、政府は無責任、自衛隊の撤退もしてくれなかったし、総理との会談もしてくれない。もう要求の時間まで3時間しかない、どうしたらいいか分からない」と言う意味の事を感情的に乱暴な口調で答えました。
私はそれまでは、様々な噂も気にしていませんでしたが、この時「これは非道すぎる」と思った訳です。
政府にもできる事とできない事があります。私のHPでも考察したのですが、今回の場合は、「テロリストに屈したとテロリストと各国が思い込む形での撤退」はできない事だと私は判断していました。そこを立脚点に置いていた私の考えは間違いだったかもしれませんが、ともかくその時はそう思っていました。つまりその視点は欠如していました。私の感情は「では、どうしろというのだ?そもそもこの事件の最大の原因は規制を無視してイラクで活動したお前らの家族だろう、それを止める事ができなかったお前たちの責任を完全に忘れて、解放すると言う情報を信じないのは勝手だがこの後におよんで、まだ、政府の責任を問題視し、自分らの主張を訴えるか?」でした。
手詰まりに陥っている時に言われる「実現不可能な不条理なワガママ」と「善意で行動していると思える行為に対する不条理な批判」に人は切れる事がある。と私は思っています。5年ぶりに切れたと書きましたが、前に切れたのは職場である職員が精一杯の努力の上で行動した行為を批判している職員に対してだったし、その前に切れたのは高速でトイレを要求する酔っぱらいにでした。
まあ、どのような理由があるにせよ切れるというのは愚かな行為であり、その原因が「無い物ねだりの不条理なもの」であっても「不条理な批判」であっても恥ずべきものです。ただ、今回の人質家族の態度にはその両方の場合に抵触していたと私は判断していますが、兎も角切れてしまったのです。ただ、それが正しい感情とは言いません。しかし、正論と理屈だけでは人間の感情は測れきれないのです。
>政治活動家でもありませんし、何かで多数派を形成するつもりもありませんので、少数
>派どころか私一人だけの主張であったとしてもまったく気にしていませんし、だからと
>言って主張を変えるつもりもありません
と言うのはこの掲示板の存在の意義を問う問題と捕らえて前向きに考えて下さればと思います。ここを単なる愚痴を主張する井戸端会議の無責任な場とするのか、ここで主張された内容を少しでも明日の為に役立たせる意識があるのかの問題です。私としてはこれだけの見識の高い政治に関心を持った人の集まりなので何かの形で政治の方向を変更させるに役立てたいと思っています。よって、孤立無援な観念的理想論に疑問を持つ訳ですが見解の相違でしたらそれは議論になり得ませんので仕方がありません
>国民一人一人がこうして欲しいとわがままを言うのは対案ではないのですか?
の件ですが、「ワガママ」と「対案」は別のものと私は認識しています。「ワガママ」は「自分勝手な意見」と「実現がほぼ不可能な無い物ねだり」の両側面があると言うのが私の判断です。今回の「自衛隊撤退論」については考慮する必要もありますが、前の方に書いていますし、今回の論議はあっしらさんの「権力に対する一般国民はワガママで良い」との意見についてなので直接は関係ないと判断します。
「対案」とは実現可能と思える(実際には困難でも)範囲の建設的意見です。この対比は掲示板での「誹謗中傷」と「建設的注意(アドバイス)」が混同されるのに似ていて明確な区別は難しいのですが、少なくとも私は違うと思っています。で「権力に対する一般国民はワガママで良い」は問題では無いか?とした訳です。言葉では表現しきれない部分があり、それが誤解や意見の食い違いを起こすのですが・・・難しいです。
最後に家族の義務ですが、「育て方」と「イラク入りを止めなかった事」と私は考えています。最近(と言うか、もうずっとですが)、教育は学校責任だとして親の責任(義務)を放棄していると思われる人も多いです。基本的には子供に嫌われる事を恐れて、他人に責任を押しつけるという卑怯な考えでは無いかとも思います。殴ってでも良い子を育てろとは言いませんが、学校の教師が体罰を与えれば騒ぎ、自分たちでは可愛がるだけで、更に育った子供が行った行為は全て政府の所為では、これは切れても仕方がないとも思います。今回は「ボランティア」とか色々な側面もあり、一概にはそうだとも言い切れませんが、多くの人がそんな感情を持っていると思います。だから家族の不始末は家庭の責任との理屈(間違っているかもしれませんが)が成り立つ事になります。
ただ、繰り返しますが、これは私の分析であって、すでに行われた過去の経緯です。念のため