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(回答先: 米軍、遺体埋葬の市民まで狙撃 ファルージャ脱出者の証言 (日刊ベリタ) 投稿者 ああ、やっぱり 日時 2004 年 4 月 24 日 23:24:54)
http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/301
停戦交渉が始まって数日たったファルージャでは、今日(21日)もまた
武装していない市民6人が死亡し、10人が負傷したと、ロイター通信は伝
えています。
アメリカで最も公平なラジオ番組のひとつ、「デモクラシー・ナウ」で、
イラクの様子を届けてくれるアーロン・グランツの記事が出たので、ラジオ
のインタビューとともに抄訳しました。
ファルージャからバグダッドに逃れてきた人々の証言から、生々しい
「ファルージャの真実」が伝わってくるようです。
(パンタ笛吹/TUP)
・・・・・・・・・
ファルージャの真実
・・・・・・・・・
アーロン・グランツ
4月21日 インタープレス・サービス
家族とともに、やっとのことでファルージャから逃げ出した11歳の少年
ユーセフの話は、他の多くのファルージャ市民の体験を代弁している。
「アーメド君は同じクラスの友達なんだ。アーメド君が小学校の前の道を横
切ろうとしたら、撃ち殺されたんだ。アメリカ兵から・・・」
米軍司令官は英記者の質問に、「ファルージャの攻撃で殺された六百人の
イラク人のうち、95%は武器を持った民兵たちだった」と答えた。
ファルージャの臨時診療所で負傷者の治療にあたってきたイラク人医師に
現場の状況を語ってもらった。
(ドクター) 「私たちは5歳の少年が頭を吹き飛ばされて診療所に連れて
こられたのを見ました。頭蓋はあっても脳みそが残っていない子供もいまし
た。 また、母親が赤ちゃんを抱いたまま殺されていたのですが、赤ちゃ
んの首はなく、母親の体のいたるところに爆弾の破片が突き刺さっていまし
た。これでも、犠牲者の95%は武器を持った民兵と言えるでしょうか?」
米海兵隊によってあまりにも多くのファルージャ市民が殺されたので、サ
ッカー競技場に200人以上の遺体を葬らなければならなかった。
(ドクター) 「私たちは多くの遺体を競技場に埋めたので、そこはすでに
一杯になっています。しかし問題は、私たちは遺体をちゃんと地中深くに葬
ることができなかったことなんです。
競技場でゆっくり埋めていると米兵に撃たれるので、人々はシャベルで急
いで穴を掘り、そこに何人もの遺体を重ねて放り込んで、上からすばやく砂
をかけて逃げるしかなかったんです」
ファルージャでは、負傷した人々を運んでいた救急車でさえ、何度にもわ
たって米兵からの攻撃を受けたという。
(ドクター) 「米軍によって孤立させられ、白旗を振って助けを求めてい
る家族に水と食料を届けようと、救急車でその家に近づいたのですが、救急
車のドアを開けるたびに米兵が狙撃してきたので、家まで入れなかったんで
す。
しかたがないので水と食料を家の前の道路に置いて病院に戻ろうとすると
米兵はその水のビンと食料の袋まで撃ちこわしたんです」
米軍の狙撃兵や爆撃機は、家の中に待避していた市民の多くも殺害した。
米軍の爆撃にあい、二人の従兄が殺され、五人の家族が負傷したアル・ハム
ザ氏はこう糾弾する。
「2日間、私の二人の従兄の遺体は、2日間も我が家の居間に寝かせて置か
なくてはならなかったんです。というのは、遺体を埋めるために外に出よう
とすれば、米兵に撃ち殺されるかもしれないからです。でも二人の遺体が腐
り始めたので、裏庭を掘って埋めました。
ブッシュ大統領はすべてのイラク人を敵にまわしたと思います。いまだに
電気もろくになく、水道水もありません。おまけにみんな仕事も失ってしま
ったしね。いまファルージャで有り余っているのは、爆撃機やヘリコプター
からの投爆と、米兵からの銃弾の雨だけです」
ファルージャで働いた人道援助活動家、オーストラリア人のドナ・マルバ
ンは、米海兵隊は無差別発砲を繰り返していると、こう語った。
「ファルージャで私たちは薬が切れた医院に医薬品を運ぶため、救急車とい
っしょに米軍が占領している区域を通ろうとしました。車から降りる前に、
拡声器で『私たちは青い色の医務服を着ています。いまから医薬品を医院に
届けに行くので撃たないでください。パスポートを手に持っていま車から出
るところです』と大声で米兵に報せました。そして、両手をあげて道を歩き
はじめると、米兵は後ろから私たちを撃ち始めたのです」
ドナ・マルバンたちにとっての問題は、米兵だけではない。彼女たちはフ
ァルージャに行く途中、ムジャヒディン(聖なる戦士)に拉致され24時間
にわたって拘束されたのだ。その体験をドナはこう語る。
「彼らは、最初は私たちが誰なのかを知りたがっていました。私たちの持ち
物を検査したり、質問を繰り返すうちに、私たちが人道援助活動家だと分か
ってくれたのでしょう。それからは、敬意の気持ちをもって接してくれ、ご
馳走までしてくれました」
ドナと同じグループにいて拘束されたイギリス人ボランティアのベス・ア
ンジョーンズは、ムジャヒディンと話すうちに、「米軍の攻撃の醜さ」とい
う共通の話題で通じ合うものがあった・・・とこう語った。
「彼らは自分の兄弟がこうして殺されたとか、父親がこう射殺されたとか、
詳しく私たちに語ってくれました。それでムジャヒディンのみんながどれだ
け米軍に対して憤りを感じているかが分かりました。
1年前にサダム政権が崩れてアメリカから自由を約束されたのに、いまで
は自由どころか米軍に痛めつけられ苦しんでいる現実があるだけなんです」
バグダッドに無事に戻ってきたドナは、自分を拘束したムジャヒディンに
対して、もはや怒りを感じてはいなかった。
「ファルージャは海兵隊に包囲された街なんです。いま街から避難しようと
している女性や子供たちでさえ、街を出るのを止められています。
そして空からの爆撃はいまでも頻繁に続いています。米軍狙撃手は動く
ものは何でも撃つので、人々は怖がっていまだに家から外に出られません。
ファルージャの人々は、自分たちの国と、自分たちの街に閉じ込められ、
捕虜になっているのです」
(抄訳・パンタ笛吹/TUPチーム)
http://www.democracynow.org/article.pl?sid=04/04/13/1443247
http://www.antiwar.com/ips/glantz.php?articleid=2352