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04月20日 (火) 11時40分
日本人人質事件 暴発気味の「自己責任論」
文: 田中
政府に対して身代金が要求されたとしても、NGOやジャーナリストが非難されるべきではない。
昨年11月23日、私は軍事ジャーナリストの神浦元彰氏を招いて「これでいいのか! 自衛隊のイラク派遣」と題する講演会を催した。
この講演会には、今回の事件で人質となった今井紀明さんが参加していた。このことから、講師である神浦氏に対して、「イラクでの日本人人質事件は札幌での講演会に一因があるから、救出にかかった費用をお前(神浦氏)が支払え」という筋違いな批判があったという。私は、開いた口が塞がらなかった。講演会の主催者である私ではなく、講師に対して、救出費用の支払い義務があると考える人がいるとは想像もしなかった。また、私が講演会を企画したことに問題があるという批判に対しても、私は自信を持って否定することができるのである。
そもそも、この講演会は、「自衛隊をイラクに派遣することにより、日本人がテロに巻き込まれる可能性がある」という懸念から思いついたものであって、イラクに行こうと考えている人に情報提供をするために催したものではない。ここでいう「日本人」とは、民間人だけでなく、派遣部隊の要員も含んでいる。 官民問わず、テロの危険から逃れるための講演会だった。また、それ以前に、私はアメリカのイラク政策は必ず失敗すると確信していた。これは、軍事的な分析の結果であり、イデオロギー的な意見とはまったく別のものである。アメリカでも、イラク政策が成功すると思っているのはブッシュ政権内部だけで、同国の安全保障問題の権威ですら、イラク政策は「終わりのない戦い」と断言しているのだ。
失敗が確実なアメリカの政策に、祖国が加担するのを黙ってみているのは忍びなかったというのが、根源的な理由であった。従って、批判者がいうように、イラクに行きたがる人を煽動するような講演内容は一切なかった。
この意見に代表されるように、人質だった人たちや、その家族への批判は度を過ぎている。その反面、アメリカのパウエル国務長官は、人質への批判は誤りだと明言した。この違いは、民主主義の成熟度の差によるものではないだろうか。こうしたことに、日本社会の問題点が浮き彫りになっているように思う。
早い話、日本はまだまだ民度が低いのだ。NGOの活動は国民に理解されておらず、戦場を取材するジャーナリストの価値も理解されていない。外務省があれば、海外で活動するNGOは必要なく、防衛庁があれば、戦場ジャーナリストは必要がないという考え方である。
端的に言えば、こうした考え方は国家社会主義的なのであって、穏健な民主主義とは縁遠い考え方である。一連の人質事件の間中、自分がナチスのようなコチコチの社会主義者と化したことを、自覚すらしていない人が多いのではないだろうか。
サマワで派遣隊とマスコミの間に報道協定が結ばれた途端、報じられる内容がまるで自衛隊の広報のようになったことに気がついていない人が多いのではないだろうか。北海道新聞によれば、現在、サマワにはフリージャーナリストが2人いるだけだという。これでは、国民は派遣隊の活動の片鱗しか知ることができない。
一方、現地にNGOやジャーナリストがいる地域からは、生の情報が発信されている。たとえば、ファルージャにいた活動家の、当地では子どもが100人以上、戦闘で死んでいるという報告がある。こうした情報は、現場にいる者でなければ発信できないものである。軍隊は、都合が悪いことは隠してしまうものだからだ。日本政府の意向に従うことは、こうした情報を投げ捨ててしまうことにつながる。
ある警察OBは、「今回の被害者は、ダッカ事件のようなハイジャック事件の人質とは性質が違い、無辜(むこ)の民とはいえない」と断言した。しかし、航空機には犯罪者が乗っていることもあろう。人質は、「犯人が要求を行うために、監禁されている人」であり、それ以外の意味づけをされるべきではない。今回の人質たちは、いずれも人道支援や取材という明確な目的を持った人たちであり、無辜の民であることは最初から明白である。私は左翼ではないし、右翼でもない。恐らく、人質だった人やその家族と議論をしても、意見が合うとは思えない。それでも、人質事件において、この警察OBのような意見が出るのを見ると、不快感を禁じ得ない。
紛争や災害がある地域で活動するNGOやジャーナリストは、現地でトラブルに巻き込まれたり、死亡する場合もある。それは、ある意味で当たり前のことであり、避けられないことである。現地のテロ組織に誘拐され、日本政府に対して身代金が要求されたとしても、そのことでNGOやジャーナリストが非難されるべきではないのだ。
また、こうした人たちを、政府が救出し切れず、死亡したとしても、直ちに政府が批判されるのも間違っている。もちろん、政府の対応が妥当だったかどうかは、十分に検討されるべきであり、大きなミスがあれば批判されるべきなのは当然である。まして、「人質を選んで救出する」ような態度を政府が示すのなら、それは万死に値するというべきだ。かりに、当事者が、「誘拐された場合は、助けないでください」と書き置きを残していたとしても、政府は救出の努力をしなければいけないのだ。しかし、元々、危険な場所に行って活動する人は、救い出せない場合があるのはやむを得ないことだということは、基本的な考え方として持っていなければならない。「自己責任」という言葉は、こういう意味としてだけ使われるべきだ。
つまるところ、日本国民は、今回のような事態に慣れるべきなのだ。それを、「あってはならない失態」のように受け止めるのは誤りである。元々、正当性のない批判だから、その内容は希薄なものばかりである。それに、テロリストが行い得る行為を、最も大規模なものを10として評価した場合、今回の事件は難易度1の初級レベルである。
今回の事件は、イラク人の武装グループだったから人質は殺されなかった、アルカイダや60カ国にあるという下部組織が、海外のいたる場所で手当たり次第に日本人を殺戮・誘拐したり、関連施設を爆破するだけで、たちどころに今回以上の事件になってしまう。自衛隊をイラクに派遣したことで、日本はとうの昔に、アルカイダの標的になっている。我々は、すでに戦争に足を突っ込んでいるのである。
人質だった人たちへの批判が可能だとすれば、イラク入国に際して、どのような計画を立てていたかという技術的な問題だけである。そして、その情報は現在、ほんの少しか明らかになっておらず、結論を出せる状況にない。それが明らかになった時、改めて今回の事件を冷静に考えてみたい。
■田中 昭成(たなか あきしげ) 札幌在住のフリーライター。41歳。映画を中心に、さまざまな記事を執筆。昨年、自衛隊のイラク派遣に反対する講演会を主催。アメリカのイラク政策を支持することは、テロの根絶にはつながらないと訴えた。
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021021954