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掲載日 2004年4月28日(水) 朝刊
もう「4・28(よんてんにいはち)」と言われても、首をかしげる世代が増えてきた。一九五二年四月二十八日を復帰運動の世代は「4・28」と深く胸に刻み続けている。この日サンフランシスコ講和条約、日米安保条約が発効された。沖縄県民を苦しめ続け、いまだに重荷を背負わされる最初の一歩の日が「4・28」だ。
本来は、第二次世界大戦の敗北、そして占領下にあった日本が、主権を回復した戦後日本の大きな節目の日であり、七年ぶりに独立を取り戻し、喜ぶべき日になるはずだ。だが、特定の地域だけは犠牲にされた。沖縄と奄美は日本から切り離され、米軍による占領統治、支配が継続された。この日は沖縄県民にとって「屈辱の日」でしかなかった。
その後県民は自らの力で本土復帰を実現させた。その闘いのなかから、民主主義や基本的人権のなんたるかも学んできた。本土の日本人はわれわれより長く日本国憲法で保証された諸権利を享受してきたが、沖縄県民は二十七年間、支配者である米軍と対決しながら一つずつ基本的な人権を勝ち取ってきた。だから、憲法に記された一文一文を尊いものとして受け止めることができる。
だが、その憲法も一部が“形がい化”され、さらに書き改めようとする時代にまでなってきた。大多数の国民の反対を、国会内の「数」で押し切ったイラク“派兵”に反対する者を、「反日的分子」と批判する政治家まで出てきている。
独立国家も怪しくなった。米国の外交戦略を補完することに終始し自らの意思で外交をすることができない。自衛隊のイラク派遣も米国追随の結果だ。「戦後日本の大きな曲がり角」とも言われ、違憲という面では限りなくクロに近い問題でだ。各国が撤退を検討するなか、まだ米国の顔色をうかがうことしかできない。
「4・28」は沖縄県民にとって「屈辱の日」として深く刻まれているが、ここまで主権国家として怪しくなった今、沖縄を犠牲にしてまで締結した講和条約の意義を、全国民が考えることも重要だ。
さて、復帰後の三十二年間、講和条約発効で負わされた沖縄の重荷は取り払うための努力がなされたのだろうか。講和条約とともに締結された安保条約が、復帰前と同じ状態で覆いかぶさっている。安保の過重な負担は、依然として存在する。政府の努力のなさを示すものだ。すべて米国の都合が優先され、県民の声が反映されない。
「4・28」以降、県民一人ひとりの胸の中の屈辱感が大きなうねりをつくり、全国に復帰闘争を広げた。あの時と同じような大きなうねりを生み出す要因が、まだこの地に存在することを政府は強く知るべきだ。
http://www.ryukyushimpo.co.jp/shasetu/shaindex.html