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下の方で「一市民」さんが、何やら言っていたので、ここで、6年前の記述をコピペして置く。
ホロコースト云々は別件なので、ここでは反論しない。ホロコーストの嘘が分からない相手は、いわば文盲、「群盲像を撫でる」ごとき議論は暇じゃないから付き合わない。
梓澤弁護士らとの6年前の遭遇の記述:「騙された」は温情的表現
だいたい、弁護士なんてのは、右も左も最高の偽善的商売人だから、千人に一人ぐらいしか信用してはならない。以下の記述も、非常に簡略なものでしかない。
以下の「騙された」という表現は、温情的なもので、弁護士は一応。司法試験に合格しているのだから、そんなに間抜けではない。本当は、商売になりさえすれば、すぐに代理人を引き受ける。または、名を挙げる可能性があれば、損をしない範囲の努力で、格好を付けるのである。
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http://www.jca.apc.org/~altmedka/uwa-2.html
本多勝一“噂の真相”同時進行版
(その2)騙された市民派弁護士たち
さて、話をまた、霞ヶ関裁判所合同庁舎7階721号、「岩瀬vs疋田・本多」裁判の場に戻す。ただし、この密室に展開された複雑な人間関係を、少しでも分かりやすく説明するために、時計の針の方は、いったん少し先に進める。
「岩瀬vs疋田・本多」裁判の第1回口頭弁論は、予定より15分遅れの午後4時35に始まり、5時過ぎまで掛かった。
1998年12月24日。クリスマス当日。時刻は、前世紀xxxx年のロンドンで、前日のクリスマス・イヴに、『クリスマス・キャロル』の主人公で、ドケチの金貸し、スクルージュが、慈善の寄付を断って、事務所の重い扉を閉め、古びた鍵をガチャンと掛けるころである。
裁判所は役所だから、定刻の午後5時を過ぎると正面入り口が閉まる。あとは通用口から出ることになる。早く出ていけとでも言いたげな雰囲気になるから、皆が急ぎ足でエレヴェイターに乗り込む。
霞ヶ関の裁判所合同庁舎1階の壁には、ニッポン代表オール・ゼネコン・コンソーシアムによる建造を記念するプレートが嵌め込まれている。
エレヴェイターは実に頑丈にできていて、定員の30人以上乗ってもビクともしない。できたての頃に争議団の仲間とギュウギュウ詰めを試してみて、「さすが反動の牙城」などと言っては、ゲラゲラ笑ったものである。
「岩瀬vs疋田・本多」裁判閉廷後のエレヴェイター内も、定員すれすれで、しかも、まさに呉越同舟だった。
私の隣に、被告側代理人の梓澤弁護士がいた。そのまた隣には、原告側代理人の渡辺弁護士がいた。7階から1階まで降りるのだから、結構時間が掛かる。そこで私が旧知の梓澤弁護士に向かって、「本多勝一はゴロツキですよ。最初から学歴詐称。自分の過去の文章まで改竄している。本多勝一に騙された弁護士ってのを書こうかと思っていると言ったら、出版社が、それは面白いっていうで、……」と、そこまで言い掛けると、ベランメエ口調の渡辺弁護士が、「早く書いてよ」と大声を出し、エレヴェイター内には失笑・爆笑が渦巻いた。
つまり、敵も味方もない。実は皆が皆、本多勝一の“噂の真相”を熟知しながら、裁判とういうゲームの場で相対しているのである。
はい、ここでまた、時計の針を1時間ほど前に巻き戻す。
こちらは、ほとんどが無宗教の癖に、お祭り好きの日本列島、江戸城のそば、……
なのに唯一、ジングルベルもホワイトクリスマスも、まるで聞こえてこない、外部の音をまったく通さない、頑丈な厚いコンクリート壁に囲まれ、窓もない無愛想な部屋の中で、開廷10分前の午後4時10分頃、私は、左端の一番前の傍聴席に座った。
戦争中の貧しい食糧で育った典型的胴長短足の私ではあるが、無理して短い足を伸ばし、左腿を右腿の上に乗せ、胴体を少し斜め右向きにする。こうやってみると、左端の一番前の座席は、裁判席と被告席を見渡して、表情を観察するのには最高の位置なのである。
読者の皆さんも、ぜひ一度試して頂きたい。「聞いて極楽、見て地獄」、いや違った。もとい。「百聞は一見にしかず」。
ただし、これだけ具合の良い位置だからであろう、と、わが自称名探偵は推理したまま裏付け取材をサボっているのであるが、この位置の数席は、取材記者専用になっていることが多い。その場合には、背もたれに「記者席」と書いた白いビニールの覆いが掛かっている。
ところが、一般の慣れない傍聴者は、すでに裁判所の物々しさに気押されてしまってから法廷に入ってくるから、珍しくもないビニール覆いには気付かないことが多い。
気付かずに座ってしまうと、時には、これまた経験の浅い新米廷吏が、慌てて、すっとんできて、「そこは記者席ですから」などと追っ払う。これでますます裁判所嫌いが増える仕掛けでもある。
裁判所の階級組織では、一番上から、裁判官、検事、弁護士、書記官、廷吏、警備員、などなどの公職者が、キンキン綺羅星のごとく居並び、その他大勢の中でも民間人かつ貧乏人の原告、被告、傍聴者などは、最下級の「どぶ」(現代銀行用語を借用)に澱む虫けらの扱いとなる。
その他の特別待遇者の中に「記者」がいる。カッコで括ったことに注意してほしい。
当日は、「記者席」の特設はなかった。しかし、前回も記したように、早くから何人もの熱心な取材者が来ていたのである。
ここで、はてな、などと考えるのは、日本列島では素人も素人である。
裁判所だけのことではないが、官庁が「記者」として処遇するのは、「記者クラブ」と称する新聞社と放送局の、それも大手企業だけのサラリーマン(困ったな、また。これは男性形。また抗議を受ける。もともと間延びしたカタカナ語を使う風習がいけないのだが、さらにパースンにすると2字も増えるので、逆に減らして以下「給料鳥」とする)だけのことであって、個人営業はもとより、一応は給料鳥でも雑誌記者なら、やはり「どぶ」扱いとなるのが、ここ日本列島の牢固たる封建的風習なのである。
そんなこともブツブツ考えながら、しかし、その日は、自分が事件の当事者ではないことを改めて確認し、「結構、結構、他人の裁判を傍聴するだけの立場ってのは、まことに快適至極」などと、心をくつろげて楽しむ構え。ゆっくりと法廷内を見回す。
だが実際には、まったくの第3者の気分にはなり切れない事情があった。長年のしがらみの伏水流が、ここでも予想以上に噴き上げてきたのだ。
被告側の席に最初に現われたのは、先刻ご承知、旧知の梓澤弁護士だった。私より10歳ほど若いはずだが、このところ、老けが目立つ。
不況下の弁護士も大変だね、などと思いつつも、無意識の条件反射が働いてしまって、座って格好を付けたばかりの私が、わざと目に付くように勢い良く立ち上がって、彼の注意を引こうとしていた。ところが、彼は、こちらに目を向けない。正面から見続けた。それでもまだ、こちらを向かない。やはり、なのか。
仕方なしに私は、中くらいの声で「梓澤(あずさわ)さん」と呼び掛けた。
今度はさすがに、こちらを見たが、彼の目は凍り付いたように動かない。無表情というよりも、硬直してしまっている。気の毒だから、私は、軽く会釈して、また座った。
次に被告席に現われたのは、やはり旧知の小笠原弁護士だった。同じくやはり旧知の桑原弁護士が一緒だった。今度は座ったまま目を向けたが、小笠原弁護士は、私に気が付いて軽く会釈を返してきた。しかし、彼女の目も感情を押し隠している。桑原弁護士は、いつものポーカーフェイスの薄目しか開かない。特に考えるまでもなく、弁護士商売には博打の要素があり、法廷は演技の場なのである。
被告側の真ん中には、やはり旧知の高見沢弁護士が最後に入廷して座った。彼は、開廷時間ぎりぎりに駆け付けてきて、せわしなく書類をめくったり、打ち合わせをしたりしているので、こちらも、無理に注意を引こうとはしなかった。
原告側の真ん中には、渡辺弁護士が座った。原告側弁護士は彼一人である。私は、渡辺弁護士とは初対面である。
弁護士の布陣の数だけで見ると、被告の方が金持ちで、原告の方が貧乏人の構造である。ところが、私にとってはいずれも旧知の被告側弁護士は、4人とも「市民派」、つまりは簡単に言うと貧乏人を助けることに使命感を抱く立場の弁護士なのである。
梓澤弁護士が、私を見て凍り付いたのは、または、おそらくは、それ以前から私の存在を目の隅でとらえていながら、あえて視線を動かそうとしなかったのは、彼が、この事件をめぐる状況の中での私の位置付けを熟知しているからに他ならない。実は、数日前にも、電話で別件の話をしたばかりの関係なのだから、本来ならば、いつものように、学生時代のスポーツマンらしい元気の良い笑顔の会釈を返すべきところなのである。
梓澤弁護士と知り合ったのは、私が、日本テレビ相手の不当解雇反対闘争中で、東京地方争議団共闘会議という野暮の骨頂のような名前の組織の副議長、それも「法対」という、これまた野暮な組合用語の役職の担当をしていた頃だった。
「法対」は、おそらく「法律対策」の略称なのだろうが、由来は定かでない。
私は「法律」嫌いだから、勝手に「法廷闘争対策担当」と訳していた。労働事件の労働者側勝率が「巨人よりも悪い」10パーセント台などという時代だから、裁判所は、もっぱら抗議行動の「闘争」対象だった。抗議集会、裁判所に押しかけて面会を求める要請行動、署名提出、傍聴動員から最高裁を取り囲むデモ、人間の鎖作りまでやった。
もう、かれこれ20年ほど前のことである。
折から、「裁判官任官拒否反対闘争」などという舌を噛みそうな分かり難い運動が始まった。司法試験に合格すると、2年間は公務員扱いの司法修習生になる。そこで裁判官を志望したのに、人事権を握る最高裁から拒否される司法修習生が出始めた。その一方で、すでに裁判官コースに入って判事補になったいたのに、「青年法律家協会を抜けろ」という圧力を掛けられる事件が発生した。
この状況下、梓澤弁護士らの「成り立てホヤホヤ組」が、抗議運動への協力を求めてきた。それが馴れ初めで、今も、何もなくても年賀状のやりとりを続けている関係なのだから、その梓澤弁護士の表情が、私を見て「凍り付く」のは異常事態なのである。
実は、こういう事件で一番辛い立場に置かれるのは、日頃は「市民派」を張っている弁護士なのである。
争議中にも、相手が中小企業の場合には、双方の弁護士が自由法曹団員だったなどという例が見られた。自由法曹団は、団員約1000人を要する戦前からの最左派法律家組織である。和解できる事件なら都合が良いこともあるが、こじれる事件では、実にやり難いというのが打ち明け話だった。
私は、梓澤弁護士だけではなくて、同じく年賀状をやりとりしている小笠原弁護士にも、地元の武蔵野市の集まりで知り合っている高見沢弁護士にも、「本多勝一にも弁護される権利を認めざるを得ないのだから、この事件で被告側に立つこと自体は非難しない」という趣旨の手紙を送る予定である。
以上のように、弁護士の布陣のことだけでも複雑な人間関係である。さらに次回に継続するが、小笠原彩子弁護士は、私が原告の不当解雇事件の弁護団の一員で、実際に、原告側証人の医者の証人調べを担当してくれたことさえある。
私の言う「本多勝一に騙された弁護士」とは、この事件の代理人のことではない。
それ以前に、通称「本多勝一反論権裁判」があって、その事件は昨年、1998年7月17日に最高裁が上告棄却の判決を出し、本多勝一の敗訴が確定している。この判決文中の「上告代理人」の2番目と3番目に、「同(上告代理人のこと)小笠原彩子、同桑原宜義」が並んでいるのである。
さらに、桑原宜義弁護士は、私が『週刊金曜日』を発行する本多勝一が社長の株式会社金曜日と執筆者2人を名誉毀損で訴えた事件の被告会社代理人なのである。
ああ、こがらがった、こがらがった、ああ、しんど。この複雑な人間関係、お分かり頂けましょうか?
以上で(その2)終り。次回に続く。
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