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本日発売の「週刊ポスト4・23」に掲載されている武宮薫(ジャーナリスト)の「政府発表の「ランクル写真」「弾丸鑑定」に隠された真相:奥大使は「米軍の誤射」」から要点のみを列挙に近いかたちで引用させていただく。
興味がある方は、詳細を「週刊ポスト4・23」で直接確認していただくようお願いする。
掲載ページ:P.36〜41
● 「いきなりの惨禍の中で井ノ上書記官は、血まみれの手で無線機を握って、こと切れた」(P.37)
● 「米軍誤射切とは、そうした米軍高官たちの者列が進む中で、ナンバープレートのない、アラブ人が運転する車が猛スピードで接近したことに緊張した兵士が、ランクルを不審車両と見て売ったというものだ。米軍の車列は、「ハンビー」という装甲車が護衛していた。ハンビーは、屋根にM240Bという機関銃を装備している。米軍の交戦規定では、まず空か地面に威嚇射撃をし、次にエンジンのあるボンネットを撃ち、なおかつ迫ってきた場合は車内に危害射撃を加える−という手順になっている。ランクルに残された弾痕も、ボンネット、フロントガラス、側面への乱射と続いていた。ランクルはテロリストの標的になることを恐れ、日の丸の国旗やナンバープレートをはずしていたのである。それが裏目に出て、米軍にテロリストだと疑われ、誤射の引き金になったという解釈だ。」(P.38)
● 「事件がCPAから日本大使館、外務省本省へと伝わるまでに、発生から6時間以上が経過していた。外務省は当初、誰による犯行か明言を避けていたが、時間の経過とともに、反米テロリストによる襲撃を色濃くにじませることになった。」(P.38)
● 疑惑1:消えた遺留品
「身元がわからなかったのは、イラク警察の現場検証の時点で、車内に残されていたはずの2人の外交官パスポート、CPA発行の身分証明書、前出のナンバープレート、奥参事官のパソコン、井ノ上書記官のデジカメなどの遺留品がなくなっていたからだ。奥参事官がパソコンを所持していたことは本誌(04年1月1日・9日号)が真っ先に指摘した。パソコンには日本の復興支援事業や自衛隊派件の事前調査など重要データが入力されていたと思われる。襲撃から地元の警察が到着するまでの間に誰かが遺留品を持ち去った。それは少なくともテロリストではない。なぜならそれらの遺留品は現在、日本に戻されているからである。」(P.38〜39)
● 疑惑2:米軍「運転手はレバノン人」の怪
「報道官は運転手を「レバノン人」と説明したが、実際はイラク人だった。記事を書いたAFPのパトリック・モーザー記者は、本誌の問い合わせに対し、「ティクリートの会議で数人の記者が報道官をつかまえて聞いた。確かにレバノン人といった」と証言しているが、米軍報道官がイラク人をレバノン人と取り違えたのも、根拠はある。ランクルははずしていた外交官ナンバープレートを助手席下においてあった。ナンバープレートは、レバノンの日本大使館登録であることを示していた。米軍がいち早くナンバープレートを見たか、それ自体を入手していたとすれば、運転手をレバノン人であると勘違いしてもおかしくない。それと同時に、消えた遺留品が米軍の手に渡っていたことを示唆している。」(P.39)
● 疑惑3:なぜ薬きょうが1つも発見されないのか
「 本当に薬きょうが1つも残っていなかったのだろうか。あるいは一番先に到着した者が何らかの理由で遺留品と共に薬きょうも回収して証拠隠滅をはかったという憶測が生まれる根拠もここにある。」(P.39)
「自衛隊関係者が興味深い指摘をした。「カラシニコフは薬きょうが飛び散るが、M240Bは逆に、銃座の周りに落ちる。仮に犯人が目撃情報にあるように車の窓から見を乗り出してカラシニコフで襲撃したとすれば、周辺道路には薬きょうが散らばるはずだ。もし米軍の装甲車ハンビーに搭載されたM240Bなら、薬きょうはハンビーの車内に落ちる」」
● 疑惑4:外務省の証拠隠し
「 外務省は米軍から11枚の襲撃されたランクルの写真を提供されていたのに、公表したのは3枚だけである、それ以外はその存在すらひた隠しにしていた。専門家の分析を嫌ったのかもしれない。
消えた遺留品が日本に戻ってきた経緯も不可解だ。パスポートとCPA発行の身分証は「事件現場の地域を支配する部族長に預けられていた」として米軍から日本大使館に返却された。とはいものの、いったい誰が部族長に渡したのか。その部族長の名前も外務省は「日米関係にかかわる」という理由で明らかにしようとはしない。問題のランクルのナンバープレートも日本に戻ってきているが、外務省は「車の中に置かれていたはずだが、どこで発見されたかわからない」のい一点張りである。」
「 遺留品の中で最も重要なのは、国家機密が詰まっている可能性がある奥参事官のパソコンと、当日の一行の足取りが記録されていたはずの井ノ上書記官のデジカメだろうが、ギリギリまで外務省が警察庁に渡そうとしなかったのもこの2つだった。本誌報道でパソコンの存在が明らかになり、国会でしばしばその所在が追及された。外務省はそのたびに「イラクの大使館にある」とか「どこにあるかわからない」などと説明をくるくる変えた。しかし私が得た外務省の内部情報では、今年1月はじめにパソコンとデジカメは米軍からイラクの日本大使館に渡され、2月中旬に外務省の中東二課に戻されたことになっている。中東二課ではパソコンのデータの解析がなされたが、警察庁にはパソコンが戻ってきた事実そのものを報告しなかった。が、ひょんなことから存在が発覚した。解析作業中の同課職員が外部の出入りの者に「これがあの奥参事官のパソコンだよ」と得意気にみせた。それが3月下旬のことだった。その時すでに、パソコンは外務省の複数の職員の手でベタベタと触られていたから、捜査上の最有力の物証であるにもかかわらず、指紋をとるなど捜査の常道を逸するものになっていた。外務省がパソコンを秘匿しているという情報は直ちに警察庁に伝わり、同庁を激怒させた。「あなたがたは証拠隠滅をはかる気か」−警察側の強烈な抗議に外務省も渋々パソコンとデジカメを渡した。3月25〜26日頃のことだった。」
※ 当該記事には、警察庁が4月5日に非公式にマスコミにブリーフィングした弾痕に関する鑑定についての専門家の疑念も掲載されているが、改めて書き込みさせていただく。