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(回答先: Re: 反戦ビラまき逮捕、起訴(裁判は予断許さず。) 投稿者 戦争とはこういう物 日時 2004 年 4 月 05 日 02:02:09)
2004年01月14日
今現在が, 時代の転換点だということは, 必ずしも同時代の人間たちに自覚されるとは限らない. むしろ昨日とさほど変らない日常の連続のなかで, ふと気付くと, 十年前, 二十年前とは驚くほど異なる「今」を発見して愕然とするといったことのほうがありがちなのだと思う. ちょうど2003年という年は, こうした意味での時代の転換を画する年になったのではないだろうか.
たぶん, 2003年は, 「戦後」が確実に終焉を遂げ, 同時に「戦時」の出発となった年として後世の歴史家が語るに違いない年になったと思う. 「戦時」というのは, いうまでもなく, 日本の自衛隊がイラクに出兵することが決定された年だからである. 自衛隊の海外出兵は, 湾岸戦争を皮切りに90年代に繰り返されるが, 明らかな戦場に武装をして戦闘をなかば前提として他国の占領の片棒をかついで出兵するというのは今回が初めてなのではないかと思う. 自国の軍隊が他国を占領したり, 戦闘行為を開始すればこれはれっきとした武力行使=戦争である. 戦争を遂行している国家は戦時体制にあるといっていい. だから日本は「戦時」なのだと言う以外にないのではなかろうか.
現在の戦時体制は, かつて日本が朝鮮半島を植民化し, アジアへの侵略を重ねる中で繰り返された「戦時」とは大きく異なる. 現行憲法では戦争放棄が前提となっているから, 戦争のための法体系がない. 自衛隊法, 有事法制, 国民保護法制をはじめ戦争法の国内法整備が急ピッチで進められているが, 憲法9条という最大の制約があるために, 戦前のように戦争を国家の当然の行為の一つとして位置づけるような枠組は未だに存在しない. したがって, 「日本は戦時か?」という問いに政府は「そうだ」と本音では考えているとしても決してこれは口には出せない. 政府は常に戦争のための軍隊を出兵しながら, それを戦争ではないと言いくるめなければならない. 憲法9条をかかえたまま戦時に突入するということは, 政府自らが憲法を逸脱しているわけであって, このことは, 法の正統性をそこない, 法への信頼性を失わせ, 法は権力を規制する力を喪失する. 政府は法を超越した存在になる. しかも, こうした違憲状態を国会も裁判所も事実上コントロールできない. 民主主義が機能していないのではなく, 民主主義の意思決定の形式的な手続きが政府の超越的な権力に正統性を与えてしまう. こうした権力のあり方を一般にファシズムと呼んでいいだろう.
「戦時」というと, 沖縄の地上戦や空襲, 原爆投下といった日本の領土が戦場となったり戦渦に巻き込まれるとった状態を想定しがちだが, こうした状態はむしろ稀だと考えていい. 日清戦争からいわゆる太平洋戦争の末期に至るまで, 日本の戦争は常に領土の外で行われてきた. まさに今現在と同じように, 軍隊が出兵するなかで日本本土の日常生活は大きな暴力にさらされることなく, 昨日とさほど変らない今日を過ごしていたのではないだろうか. 憲法9条下での「戦時」というきわめて特異な状況は戦前とは全く異なるが, 他方で, 大衆の戦争についての実感はもしかしたら今とさほど変らないものであったかもしれない.
「戦時」であれファシズムであれ, それらは目に見えるような大きな変化を伴って私たちの日常実感を否応なく変えるようなものではなく, むしろ大多数の大衆にとっては「戦時」はマスメディアが報道するニュースのなかにのみ存在する彼岸の出来事としてしか捉えられない. しかし, 「戦時」は国民を戦争に動員する体制を整備しなければ維持できない. したがって, 動員にとっての障害となる制度や人的な条件は徹底的に排除される. 敵国の国籍を持つ人々, 戦争や国家の動員体制を批判する人々は多かれ少なかれ最初に排除や隔離, あるいは拘束の対象になる. こうしたこの国のなかでマージナルな存在にある人々はもっと敏感に「戦時」を実感せざるをえないだろう.
しかし, 「戦時」を公然とは言えない政府は, ここでは「戦争」のかわりにもっぱら「犯罪」や社会の「安全」を口実に, マージナルな人々の排除と国民の統合, 動員を押し進めようとしてる. 911の同時多発テロが起きた当初, ブッシュがいちはやく「これは戦争だ」と口走って顰蹙を買ったが, だからといってテロを「犯罪」の枠組でとらえて, テロへの報復戦争は認められないが, 犯罪取り締まりであれば警察の強制力の強化は認めざるを得ない, といった議論を認めるわけにはいかない. 日本政府は, テロを犯罪として捉えると同時に, 戦争としても捉えて一石二鳥を狙った. テロ対策を口実に, 警察の治安維持機能を大幅に強化する一方で, テロとの戦争のために自衛隊を出兵させたのだから.
問題は, 警察権力の治安維持機能強化や軍隊の出兵が問題の解決にための最適な手段ではないという点が常にあいまいにされ, 警察や軍隊それ自体の拡大, 強化が自己目的化されていることだ. テロは権力の膨張と暴走の口実として使われたにすぎない. 法という束縛が事実上はずされ, 民主主義の実質が失われ, テロ=犯罪, テロ=戦争という大義名分を得た権力は, 権力の自己目的化, ある種の自己増殖過程に入ってしまったのだ. 特に日本の場合, 国民国家には国家を統合するための理念はない. 建国の精神などというものは存在せず, 天皇制という理念なき感情の幻想共同体があるだけだから, 法による権力の規制に失敗すると, 権力は自己目的化しやすい. しかも, 現状のような米国というグローバルな帝国主義の同盟国という立場から, 権力の自己目的とは同時に, 米国への合理性を欠き説明不能な追従として現れることは不思議なことではない.
私たちは「戦時」に否応なく突入させられ, これに同伴させられているとすれば, こうした現状に対してどのようにしてあらたな「戦後」をいち早く実現するか, が私たちの大きな課題となる. 反戦運動は全く新たな「戦後」を目指さなければならない. 「戦後」とはもはや過去のことではなく, 私たちが一刻も早く達成しなければならない未来を指し示す言葉であると同時に, 「戦後」それ自体が闘いとられなければならない両義的な意味合いをもつものなのだ.
アフガンやイラクについては「戦後」が語られることが多いが, しかしそれは文字通りの戦後とはいえない. むしろ事実上の戦闘状態が継続している. さらに, こうした諸国の「戦後」は同時に資本主義としての復興という意味をもたされている. その結果, この資本主義化と表裏一体といってもいい宗教的原理主義の暴力からの解放が達成できない. 日本の「戦後」も同様に, 今再びの資本主義の戦後なのだとすれば, 同様に, この「戦後」は日本におけるファナティックなナショナリズム=天皇原理主義の暴力をますます呼び覚ますかもしれない. 僕は未来の中に見い出すべき「戦後」を資本主義的な戦後として描くことは決して文字通りの戦争の終焉, 戦争の後に来たるべき世界を描くことにはならないと思う. 資本主義を選択するということは, 戦争の後にまた新たな戦争を生み出すに違いないからだ.
「戦時」体制を一刻も早く終焉させなければならないが, しかし同時にこのことは, グローバルな市場経済が戦争を招き寄せてきたという歴史的な経緯を決して忘れてならないのであって, 「戦時」の終焉をいかにしてグローバルな資本主義の終焉の方向に引き寄せられるか, これが実はもっとも問われなければならない課題なのだと思う. (Posted by toshi at 01:43)
[出典] No More Capitalism http://www.jca.apc.org/~toshi/blog/no_more_cap/
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