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日本の友人と在日華僑指導者は南京大虐殺の新証拠を展示
http://zqb.cyol.com/gb/zqb/2004-03/30/content_846551.htm
3月30日 02:29 中国青年報
本紙南京3月29日電(戴袁支記者)今日の午後、南京師範大学南京大虐殺研究センターが開催した第2回学術サロン上で、日本の友人松岡環と旅日華僑の指導者林伯耀は、彼らが収集した中国侵略日本軍南京大虐殺の新証拠を展示した。
松岡環は日本軍第16師団33連隊に隷属した一人の中国侵略老兵によって書かれた、10メートル近くにもなる巻物戦中記を提示した。巻物は毛筆により日本語で書かれており、挿し絵が添えられ、中国侵略と1937年12月中旬に起きた南京下関河辺集団大虐殺の情況を記述している。松岡環の紹介によると、この中国侵略老兵は彼らが如何にして江門へ進攻したかについて記載しており、日本の右翼が主張する33連隊は一度も南京に到達したことがないという嘘への反論となるという。
中国侵略老兵が10メートルの巻物に記載して説明しているところによると、1937年12月16日、彼は南京下関河辺で虐殺の絶え間ない銃声を耳にし、その時日本軍が軽機関銃で中国人集団を乱射して処刑しているのを目撃したという。発射しているのはどこの連隊かという彼の問いに、第9師団36連隊だと回答があった。彼はまたこうも記述している。長江に浮かぶ軍艦から一人の日本兵が下りてきて、彼の軍刀の試し切りの為に中国人捕虜を探せと言い、その結果、彼は刀で一人の中国人を殺した。
旅日華僑中日交流促進会の林伯耀は、中国侵略日本軍第16師団33連隊兵士によって、空白だった鉄道『修理報告』書に記されたものを展示した。その記録によると、1937年12月中旬には南京下関に大体5万の中国軍人(難民を含む)捕虜があり、日本軍の軽機関銃によって処刑された。この中国侵略老兵によると、軽機関銃は2、3時間撃ち続け、殺し終わった後「万歳」と大声で叫んだと言う。
林伯耀はまた、当時日本の多くの新聞による、日本軍南京大虐殺に関する報道のコピーを展示し、その紙面上では大きな字の見出しで報道している:「敵の死体6、7万」、「河岸に1万5千の捕虜」、「捕虜により戦死体の山は築かれ続ける」、「敵遺棄死体8万4千」、「潜伏中の2万5千の敗残兵狩りは続く」「死体累累」、「江上の敗残兵狩りで5万の兵隊水底へ」。
林伯耀はかつて日本で一人の中国侵略老兵を探し出し、その老兵は証言を提供した。1937年12月14日、彼が所属する第1小隊は(負傷者のため当時10人のみ)、掃討に出かけて一日で55人の中国人を殺した。林が展示した別の中国侵略老兵が描いた、追憶1937年12月15日南京下関大虐殺情景の絵では、囚われた黒山のような中国兵士捕虜が銃撃されており、両側には日本の「看視兵」がいる。2丁の日本機関銃は猛烈な砲火を浴びせている。たった7、8人の中国人が逃走。この老兵の解説では、捕虜の中には、1名の40数歳の中国将校がいて、処刑されて亡くなった中国人の帽子と靴を着せられ、「看視兵」に嫌々歩かされている。虐殺に参加した日本兵は、これは上の命令を実行しているのだという。彼らは「上の命令」で自分の良心をおさえている。
林伯耀はまた戦時の日本教育の情況を展示し、甚だしきに至っては、その頃日本国内では小学生に慰問作文を書かせ、中国で多くの中国人と「支那兵」を殺すように激励していた。松岡環と林伯耀はこれらを1937年8月から12月に収集し、日本の各大手新聞のコピーを南京師範大学南京大虐殺研究センターに贈呈した。
旅日華僑中日交流促進会は最近南京師範大学でプロジェクト基金を設立し、国内の南京大虐殺研究に出資し援助する。
南京戦物語絵巻ですか?
突っ込みどころ満載で、作り話にもならんのですが・・・