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イマニュエル・ウォーラーステイン「WTOカンクン会議──打ち砕かれた新自由主義」
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投稿者 安濃一樹 日時 2004 年 3 月 09 日 05:36:55:gmtaOzuBDmsKE
 

ヤパーナ社会フォーラム
http://japana.org/start.html


イマニュエル・ウォーラーステイン

──カンクン会議はジオポリティクスの闘いだったばかりでなく、ある時代の終わりを告げる事件でした。70年代から攻勢をつづけていた新自由主義が、ついにカンクンで打ち砕かれたのです。この重要性を理解するために、そもそもの始まりを振り返ってみましょう──(本文より)

ウォーラーステインは、いつものように大きな展望を持って、近代の資本主義経済システム(世界システム)の歴史のなかで、ネオリベラリズムがどのように始まり、どうして終焉を迎えようとしているかを世界社会フォーラムの運動に言及しながらわかりやすく解説しています。


**以下本文**


WTOカンクン会議──打ち砕かれた新自由主義

カンクン会議はジオポリティクス【1】の闘いだったばかりでなく、ある時代の終わりを告げる事件でした。70年代から攻勢をつづけていた新自由主義が、ついにカンクンで打ち砕かれたのです。この重要性を理解するために、そもそもの始まりを振り返ってみましょう。

70年代は世界経済にとって大きな転換期となりました。資本主義システムには上昇と下降を繰り返すサイクルがいくつかあります。そのなかで最も大きな二つのサイクルが同時に重なって下降期に入ったのが70年代でした。ひとつはコンドラチェフの波と呼ばれる経済変動を表すサイクルです【2】。コンドラチェフの波が下降期に入って、世界経済の長い沈滞期が始まりました。私たちは今もこの沈滞期から抜け出していません。もうひとつがヘゲモニーのサイクルです【3】。世界システムにおける合衆国のヘゲモニーが衰え始めたのも70年代でした。

世界経済の沈滞期とは、利益率が深く落ち込むことを意味しています。これは主な産業で競争が激しくなり、結果として生産過剰になることが原因です。沈滞期に入ると、国々が総力をかたむける経済という競技場で、二つの闘いが始まります。ひとつは、資本の蓄積が行われている主な地域(アメリカ、西ヨーロッパ、日本および極東)の間で、利益率の低下にともなう負担を互いになすりつけようとする闘いです。もう30年つづいていることになりますね。私はこれを「失業の輸出」と呼んでいます。三つの地域のなかで闘いを有利に進めたところが(ヨーロッパは70年代、日本は80年代、アメリカは90年代後半というように)その時代の経済をリードしました。

もうひとつの闘いは、ジオポリティクスの中核と周辺にあたる地域、つまり北側の先進国と南側の途上国の闘いです。コンドラチェフの波が上昇する経済の拡大期(45年頃から70年頃まで)に南側が手に入れた利益を、どんなにちっぽけなものでも北側は取り返そうとします。

よく知られているように、ラテンアメリカやアフリカ、東ヨーロッパ、南アジアは、どこも70年からずっと経済がうまくいかないで苦しんできました。南側の国で比較的よかったのは、90年代後半に財政危機を迎えるまでの東アジアと東南アジアでしょう。経済が沈滞期に入っても、周辺地域のどこか一つはかならず成長を見せます。先進国の斜陽産業が途上国へと移転してゆくからです。

苦しい沈滞期がつづくなかで、資本家たちは先を争って収入を維持しようとしてきました。生産の拠点を[賃金の安い途上国へ]移すことも一つの方法ですけれど、もっと多く採られてきた方法は資本を投機市場で運用することです。そして資本家たちは、南と北の両方に向かって逆襲を始めます。前の拡大期に南側の諸国が蓄えた利益と北側の労働者階級が獲得した[最低賃金制や労働者の権利、社会保障などの]利益を奪おうというものです。これがネオリベラリズム、新自由主義と呼ばれるようになりました。

資本家たちの逆襲は政治に反映されてゆきます。何よりもまず、イギリス保守党とアメリカ共和党の変化に見ることができるでしょう。中道のケインズ政策をとっていた政党が、ミルトン・フリードマン【4】の処方を信じる凶悪な人びとの政党へと変わりました。

サッチャーがイギリス首相(79〜90年)で、ロナルド・レーガンがアメリカ大統領(81〜89年)だった期間に、二国の国内政策と対外政策は明らかに右旋回しました。ここでもっと重要なのは、イギリス保守党とアメリカ共和党の内部構造が大きく変わったことです。それ以来、二党は政治方針を中道からかなり右寄りに移しています。

こうして新しい保守政策が進められると、生産者にとってコスト上昇のもとになる三つの要因がすべて押さえ込まれました。賃金が抑えらる。環境破壊を減らすためのコストを[製品の価格に]内部化する政策がうやむやにされる。そして、福祉を支えるための企業課税が引き下げられる。

新保守主義が掲げる政策のもとに、北側の先進国をまとめようという試みが始まります。国際機関をつぎつぎと創設することでした。主要なものとしては日米欧三極委員会やG7、ダボスの世界経済フォーラムなどがあります。こうして形作られた経済政策は[アメリカが主導していたために]ワシントン合意と呼ばれるようになりました。

ここで注目すべきことがあります。ワシントン合意が、開発主義と呼ばれるものに代わって登場したということです。開発主義は、この前の拡大期に大いにもてはやされ世界の経済政策が取り入れていました(70年代は「開発の10年」になるだろうと、60年代の終わりに国連が宣言していたくらいです)。開発主義の基本となる考えは次のようなものです。

──適切な政策を取りさえすれば、どの国もきっと「開発」されて、最後には先進国と途上国の違いがなくなり、みんな同じように豊かになる──

もちろん開発主義はうまくいきませんでした。もともとうく行くはずがなかった。70年代になると、だれの目にもそれが悲しい現実として映るようになります。

開発主義に取って代わったワシントン合意は、世界が「グローバリゼーション」の時代に入ったと宣言しました。グローバリゼーションは自由市場の勝利であると説明されます。国家が経済に果たしてきた役割がいっきに少なくなる。それにも増して大きな改革は、国家間にあるすべての障壁が取り去られ、商品と資本が国境を越えて自由に行き来するようになることだと言われました。

ワシントン合意は、各国の政府に開発主義の幻影を捨て去るように要求しています。とりわけ南側の国々に対しては、すべての規制を取り払い市場を完全に解放することが各政府に与えられた役割であると伝えました。サッチャーは、これを受け入れる以外に道はないと高らかに宣言します。

──TINA(There Is No Alternative)、選択の余地はない──

要するにTINAとはこういう意味です。従わない国はまず世界の市場から閉め出される。そして数々の国際機関から懲罰を受けることになる。

これまで軽視されてきたことですけれど、国際機関が国家間の経済闘争に重要な役割を果たすようなるのは、70年代に入ってからです。国際通貨基金(IMF)と世界銀行は、ワシントン合意を実現するために、きわめて活発に力を行使する機関へと変貌してゆきます。

IMFと世界銀行は役割をみごとに果たすことができました。世界経済が沈滞期に入って、むごたらしく痛めつけられた南側の諸国は資金が不足していたからです。対外収支の赤字を埋め合わせるために、いつも国外の金融機関に救いを求めなければなりません。とりわけIMFは南側への貸し付けに厳しい条件を課しました。多くの場合その条件とは、南側が国内の社会サービスを大幅に削減すること、そして債務の支払いを最優先することでした。

80年代になると、この戦略がつぎの段階へと進められました。世界貿易機関(WTO)の設立です【5】。WTOを作ろうという提案はずっと前からあって、40年代には最初の話し合いが行われています。しかし[話がまとまらないまま60年代になり]アメリカにつづいて西ヨーロッパと日本が資本を蓄積してゆくと、経済の中心となった三極のあいだに利害のくいちがいができます。こうしてWTOは海に出る前に沈没してしまいました。

なぜ80年代になってWTOは復活したのでしょうか。ワシントン合意を推し進めるためにWTOをうまく利用できるのではないかと、北側の先進諸国が同じ考えを持つようになったからです。WTOはすべての市場を開放し、より自由な貿易を実現するといわれていますね。これは建て前で本音ではありません。南側の後進国に市場を開かせたいと北側は考えた。でも南側のために本気で自分の市場を開くつもりはありませんでした。

アメリカが北米自由貿易協定(NAFTA)を作ることに成功し【6】、ヨーロッパの統合が進んで一つの経済圏ができてくると、北側はいまが潮時だろうと考えました。WTOを利用して北側のプログラムを南側に認めさせる。その機会として選ばれたのが99年12月のシアトル会議でした。

ところが北側は時期を逃していた。シアトルではもう手遅れでした。ワシントン合意を受け入れた国々では、すでに痛ましいほどの被害がでていたからです。仕事を失う人びとが増えつづける。自然が破壊されてゆく。農業がずたずたにされて、食料を自給することができない。

その結果、北側はシアトルで思いもよらないほど大きな抗議に直面します。WTOに対する抗議は、アナーキストの組織をはじめ環境団体から労働組合まで、数多くの活動グループが連帯した大運動となっていた。この運動がシアトル会議を無力にすることに成功しました。

シアトルではもうひとつ問題がありました。アメリカと西ヨーロッパの関係がぎくしゃくしていたことです。お互いに相手からの輸入を規制するなど保護貿易政策をおこなっていたのが原因でした。このことも重なって、シアトル会議はまったく何もできないまま閉会します。

シアトルの後、大きな出来事がふたつありました。ひとつが世界社会フォーラムの誕生です。2001年から毎年1月にブラジルのポルトアレグレで会議が開かれています。世界社会フォーラムは、新自由主義やワシントン合意、そして世界経済フォーラムに反対するすべての運動がひとつにまとまった壮大な運動です。これまで三回の会議は目覚ましい成功を収めています。

もうひとつの出来事は9・11事件です。あの大惨事をきっかけとして、合衆国はブッシュ・ドクトリンと呼ばれる戦略を公開しました。アメリカが「テロリスト」と見なせば、どんな相手に対しても先制攻撃をしかける。[安全を保障するのはアメリカの権利だから]他国の干渉など受けずに、アメリカが単独で攻撃に出るという宣言でした。

はじめは9・11事件への同情から「テロリズム」との戦いを世界中が支持しました。カタールのドーハでWTOの会議が開かれたのは9・11事件のすぐ後、11月のことです。ドーハ会議では、[貿易の自由化がテロを根絶するとアメリカが宣伝していたことから]南側の代表たちは自由化に反対したくても腰が引けた状態でした。そこへ北側が強引に迫り、南側から合意を取りつけることに成功します。貿易の自由化をさらに進める新しい条約について話し合いを進めるという合意です。新条約は、03年のカンクン会議でうやうやしく奉じられる予定でした。

しかし、またもやカンクンでは手遅れになっていた。ドーハで合意を取りつけてからカンクン会議までのあいだに、イラク侵略があったからです。世界はアメリカへの共感や同情をいっぺんに失い、逆に反感をつのらせるようになりました。占領してからゲリラ戦がつづいていますね。アメリカの軍事力にも限界があることが誰の目にも明らかになった。

その一方では、平和運動が世界中で繰り広げられ、ポルトアレグレに始まった世界社会フォーラムの運動に大きな力を与えました。勢いを増した世界社会フォーラムは、気骨を持ってひるまずに闘うよう南側の政府に働きかけます。これが南側を動かしました。

カンクンでは、なんとか手を結んだ北側諸国が自分たちに都合のいいプログラムを南側に押しつけようとしました。商品と資本がもっと自由に取引できるように南側の市場を開放する。北側の知的所有権(パテント)を南側に認めさせて、うやむやにできないようにする。

これに対抗するために南側の国々は連帯します。ブラジルの呼びかけによって(インド・中国・南アメリカを含む)グループ21が立ち上がり、南側の求めにも応じてもらおうと交渉を切り出しました。グルー21が強く要求したのは、要するに南側の農作物と工業製品のために北側が市場を開放することです。

はげしい攻防がつづくなか、グループ21を支持したのが、「中間勢力」である21カ国よりもさらに貧しい多くの国々でした。とくにアフリカの諸国です。北側は南側の要求を受け入れようとはしません。先進国は[農民層を保護しないと選挙で不利になるなど]国内の政治問題が大切だからです。南側は一歩も引き下がらない。ついにカンクン会議は行き詰まりました。

政治という舞台で南側の国々が勝利を収めたことは、誰もが認めるでしょう。ここで明らかになったことがあります。南側が勝利したのは、ジオポリティクスにおけるアメリカの力が衰え、世界社会フォーラムの勢力が強くなったからです。

これでWTOは終わりました。名前だけは残るかもしれません。しかし、WTOはもう意味のない組織になってしまった。[アメリカの主導で設けられた]ほかの国際機構もやがて同じ運命をたどることでしょう。

アメリカはひとつひとつの国と直接に交渉するつもりです。それで切り抜けようとしているけれど、自国に有利な貿易条約を南側の国に押しつけるのは簡単なことではありません。すぐにアメリカもそれに気がつきますよ。

南側の諸国は新たな目標をかかげて進んでゆく。IMFと世界銀行への挑戦です。そして挑戦はすでに始まっています。アルゼンチンのキルチネル大統領が、もうIMFと世界銀行の言いなりにならないと立ち向かっている。断固として抵抗するキルチネルの姿が他の国々を勇気づけました。

そのうちに「ネオリベラリズム」と聞くと、なんだか遠い昔のことのように感じられて、どうしてあんな愚かな過ちが起きたのか不思議に思うことでしょう。そんな日がすぐそこまで来ています。

イマニュエル・ウォーラーステイン
Immanuel Wallerstein, "Cancun: The Collapse of the Neo-Liberal Offensive," Commentary #122 (Oct. 1, 2003).
http://fbc.binghamton.edu/122en.htm

【1】山下範久(歴史社会学)によると、「ジオポリティクスという言葉は、通常は地政学と訳され、特定の地理的な空間を条件として展開するパワーゲームに注目する政治分析を指すが、世界システム論においては、資本主義世界経済というひとつの空間的な実体を条件として、そのなかで展開する大国間の政治的・軍事的抗争のダイナミズムを指す」。

【2】コンドラチェフの波は、ロシアの経済学者コンドラチェフによって25年に発見された。50年から60年という周期は景気循環を表す波のなかで最長である。18世紀の終わりから現代まで、四つの波があったと認められている。世界大恐慌(29〜33年)と第二次大戦(39〜45年)は第三の波の谷に当たる。第四の波は、大戦後から上昇期に入り、70年ごろが波の山だった。経済の長期停滞や9・11事件、アフガニスタン侵略、イラク侵略を経験した世界は、いま第四の波の谷底へと向かいつつある。

【3】ウォーラーステインは『新しい学』(99年、山下範久訳)の中で、「もっとも重要な二つのものは、50/60年周期のコンドラチェフの循環と100/150年周期のヘゲモニーの循環である」と述べている。資本主義の近代世界システムでは、これまでにヘゲモニーの循環が三回あった。17世紀のオランダ、19世紀のイギリス、20世紀のアメリカである。ウォーラーステインによると、第二次世界大戦が終わった45年にアメリカのヘゲモニーは頂点に達し、現ブッシュ政権が成立した2001年にヘゲモニーを失っている。

【4】シカゴ学派を代表する経済学者。76年、ノーベル経済学賞受賞。規制の緩和・撤廃によって、大企業などの経済的強者の自由を拡大することを主張した。彼の学説はイギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根政権などで政治・経済の処方として採用された。

【5】WTOが発足するまでには、ウルグアイ・ラウンド(86年から94年)の8年にわたる交渉が必要だった。正式な設立は95年1月1日。現在148カ国が加盟している。

【6】アメリカ・カナダ・メキシコの貿易協定。92年12月に調印。94年1月に発効した。関税の撤廃、金融や投資の自由化、知的所有権の保護などを目的としている。三カ国のGDPは総計11兆ドルを超え、人口は4億に及ぶ。

著作権(2003年)
原文に関するすべての権利はイマニュエル・ウォーラーステインが留保する。

( )は原文の挿入語句。または英文略称名の和訳。
[ ]は訳文の補助語句。
【 】は訳者による注釈。


翻訳/安濃一樹・別処珠樹
編集/安濃一樹
ヤパーナ社会フォーラム
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mailto: kazuki@japana.org

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