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2004/4/28 (Wed) 狩場の悲劇(1)
上空に冷たい寒気が入った日、小仏峠から陣馬山まで歩いた。道端には可憐なスミレが咲いていたが、心は晴れなかった。自然が美しくとも、その国が、その国民が醜ければ、たちまち色褪せてしまうだろう。
こんな風に書けば、ボクは自虐的な非国民? それとも反日分子?
なんとでも言い給え、恥ずべき国は、持たぬが幸い。
翌日、ミニシアターでロチャヌー監督の「狩場の悲劇」(チェーホフ原作)を観た。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~rus-eiga/sp/che/index.htm
20年振りかな、定かではない。バレリーナ出の女優が、なんとも気恥ずかしくなるように現れた記憶があったけど、今回はさほど感じなかった。森番の娘にしては美しすぎるしスマートすぎるのもご愛敬だ。ロチャヌーは得意のジプシーで盛り上げる。スクリーンに映し出されるサンザシのような赤い実、ライラック、白菊……そして背景の広大な緑。
ところどころ剥落した白い列柱。伯爵の屋敷。沼のような池。どれもこれも、あまりに美しい。
この若書きのチェーホフを、ロチャヌーは自分の元に引き寄せて、思う存分描き切った。ミハルコフが「機械仕掛け…」でやったのと同じように。
同じシアターで「かもめ」も観たけれど、こちらは戯曲そのままの映画化。これではやはりつまらない。もともとボクは、「かもめ」がそれほど好きではない。それに芝居は、どうしたって舞台の中で限定される括弧付きの芸術だ。観るモノもその括弧を意識しながら、自らがドラマトゥルギーを高めているに過ぎない。チェーホフというと一般には戯曲ばかり話題になるけれど、他の作品にも接しなければ、彼がやろうとしたことは理解出来ない。(これはどんな作家でもあてはまること)
当たり前なことだけど、作家とは小さな全体性なのだ。
とくにチェーホフの場合、彼が書き遺した星の数ほどの短篇のせいもあって、読者のチェーホフ観も、愛する作品も、星の数ほど様々だ。だから誰もが自分のチェーホフを持っている。それは素晴らしいことだ。
というわけで、ただチェーホフそのものよりも、彼の全体性を引き寄せながら、好きなようにアレンジしながら強烈な個性で描く想像力こそが必要なのだ。今さら、ただチェーホフをなぞってもなんの意味もない。
さて、「狩場」のあらすじは、貧しく素朴で純粋で美しい娘が、貴族連中の(森番の娘という卑しい身分の)アイドルとして、ちやほやされ、もてあそばれ、最後に自滅する(ここでは殺される)というロシア・ブンガクの伝統的パターン。もちろんこの娘も、豊かになりたいという欲望に取り憑かれている。そうでなければ余りにバカバカしい話になってしまう。
ロシア文学で大切なポイントは、弱者への眼差しだ。それも貴族社会でもっぱらブンガク芸術が営まれていたわけだから、強者から弱者への眼差しとなる。支配階級(新興ブルジョワジーも含めて)のジレンマ、自己欺瞞、矛盾、罪悪感、退廃…こういったものが出発点となる。そしてこういった自己矛盾は、そうたやすく止揚されるモノでもない。葛藤が続き、その葛藤の中にこそ人間性は存在する。こうして魂が鍛えられる。
皮肉なことだが、極度の貧富の差は、それだけドラマティックに根元的な魂を育むようだ。
(下の欄に続く)
2004/4/28 (Wed) 狩場の悲劇(2)
ヤホンで、このような魂が育まれたことがあるのだろうか。いくつかの試みはあったかも知れない。
しかし、つまらない大衆小説の洪水の中で泡のように消えていった。
今日、ヤホンは階級社会とは言われない。(実際は資本家と権力者の階級は確かに存在するが)
でも、思うのだが、ここに来て新たな層が生まれてきたのではないかと。
これは階級とはいえない。しかし間違いなく一つの層である。政府に、権力に、国家にすり寄り、体制の側にいる自分に満足し、それ以外のモノを排除しようとする層だ。
彼らは政府権力に洗脳されているのか。いやそうではない。自ら欲して、進んで、権力とまるで家族のような一体感に浸りたいのだ。なぜなら彼らは真の家族や友を失っているから。その空虚感を、補償を国家権力に求めている。
それは極右民族主義者? そうではない。ごくふつーの連中だ。会社員、学生、商店主、経営者、管理職、公務員、主婦……そして子供。
公園や駅のベンチに金属の仕切が入った。誰かがごろっと横になるのを妨げるために。
植え込みに柵が作られる。段ボールやビニールハウスを排除するために。
路上生活者を社会の屑と言って殴打する子供達。
無菌のハウスに住み、無菌の家族は、少しでも汚れたモノを極端に嫌う。
無菌であることの無味乾燥さに(自覚することなく)苛立ち、何かを攻撃したいのだ。階級であった方がはるかにマシだ。階級にはそれなりの自覚と自尊心と明白な意志が存在する。支配、被支配にかかわらず。
ところがこのあいまいな層は、階級ではないから、まとまりがない。無限に増殖したり、水面下に隠れたりできるのだ。国家主義ファシズムはこうした一見ふつーの層から広がっていく。
ボクは少し前から、電車に乗った時、恐怖を覚える。
300万の東京都の人間がイシハラに票を入れた。すると、この車両に乗り合わせたほとんどの成人はそういう人たちなのだという恐怖感。
府中にある生まれながら精神に障害がある施設に視察に行った時、「安楽死という言葉が浮かんだ」と言ったのはイシハラだ! いつものように「文学的に」とごまかしたらしいが、文学はそんなに非人間的なモノなのか! イシハラがブンガクしているとは誰も思ってはいないけれど。
このような人間を支持する人がたくさん同じ車両に乗り合わせている恐ろしさ。
弱者に対する眼差しの欠落。それはアメリカ的資本主義と、それの後追いに必死になっているヤホンの資本主義が育んだ精神の結果なのだろう。生産力のないモノは切り捨てろ、邪魔だ、と。
だからボランティアでストリートチルドレンを助けている人など、余計なことをする邪魔なヤツなのだ。山谷で炊き込み支援をする人たちも、胡散臭い左翼過激派になるんだろう。
「狩場の悲劇」の観客は10人いたか。外に出ると街はすごい人波。
関係ないけど、ボクの本が売れないのも納得した。
ボクは弱者しか描かなかったから。おまけに動物たちだしネ。
写真:
http://www.geocities.jp/odessa_istanbul/kariba.jpg
※ 関連
ウソだらけのイラク・年金なぜ国民は怒らないのか(東京新聞・特報)
http://www.asyura2.com/0403/senkyo3/msg/846.html
フランス寓話が問いかけるもの ファシズム牽制 [東京新聞]
http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/752.html
敗戦でも懲りない日本人 [日本ジャーナリスト協会]
http://www.asyura2.com/0403/war55/msg/287.html
ネット焚書を望む人びと〜いわゆる草の根ファシズムの始動(ある実例)
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/844.html