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「経済状況の厳しい中で、お祝いをして下さる事を心苦しく思っていました」と天皇が皇后と共に皇居・宮殿「石橋の間」で切り出し、「言い尽くせない事も有るといけないので、紙を見ながらお話しします」と予定を遙かに上回る45分間もに亘(わた)って思いを開陳したのは、「天皇陛下御在位10年記念式典」開催前日に当たる’99年11月11日でした。
「私の幼い日の記憶は3歳の時」「盧溝橋事件が起こり」「戦争の無い時を知らないで育ちました」。「先の大戦が終わってから54年の歳月が経ち、戦争を経験しなかった世代」「も多くなっています」が、「戦争の惨禍を忘れず語り継ぎ、過去の教訓を生かして平和の為に力を尽くす事は、非常に大切な事」。
「軍人と県民が共に島の南部に退き、そこで」「敵・味方、戦闘員・非戦闘員の別なく」「無数の命が失われ」た「沖縄の歴史と文化に(私が)関心を寄せているのも、復帰に当たって沖縄の歴史と文化を理解し、県民と共有する事が県民を迎える私どもの務めだと思ったからです」。
が、その発言内容を翌日付紙面で詳細に載録した新聞社は、1社も存在しませんでした。日々、30面もの紙幅を擁する“森林破壊”媒体にも拘(かかわ)らず……。
然(しか)るに12日夕刻、後に「塀の中」へと収監される自由民主党の村上正邦が「清々とお祝いを」と前口上を述べ、GLAYだのX―Japanだのが皇居前広場に大集合した「国民祭典」は、各紙共に大見出しで扱いました。
天皇は、“虚しき宴”の最後に語り掛けます。「雨催いで、皆さんも濡れて寒いのではないかと心配しています」と。それは皇太子時代、絶対平和主義のクウェーカー教徒だったエリザベス・グレイ・バイニング女史に教育を受けた今上天皇の孤独な哀しみでは、と往時、僕は感じました。
星霜を経て4年半後の5月10日、皇太子は会見で述べます。「国際親善を、皇族として大変に重要な役目と思いながらも外国訪問をなかなか許されなかった事に大変苦悩し」、「皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが」「人格を否定するような動きが有った事も事実です」と。
「矢張り、もう1人は欲しい」と昨年6月10日の会見で言明した湯浅利夫宮内庁長官は、如何(いか)なる弁明を行うのでありましょう。件(くだん)のイヴェントを企画した政事家といい、件の発言をした官僚といい、それは憲法学者・美濃部達吉もビックリな、実に身勝手な「天皇機関説」としての護憲派一家に対する人権侵害ではありますまいか。【田中康夫】
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