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廣松「東亜の新体制」を継いで 近代の超克は今こそ必要な問題意識だ【BUND_WebSite記事】
http://www.bund.org/editorial/20040515-2.htm
荒 岱介 あら・たいすけ
社会運動家。新左翼の代表的イデオローグとして廣松渉と親交を深める。荒の『マルクス・ラジカリズムの復興』(御茶の水書房)は廣松の全面校閲の下に出版された。廣松死後マルクス主義と離れ、現在は環境保護運動などを行っている。著書に『行動するエチカ』『環境革命の世紀へ』『破天荒伝』『大逆のゲリラ』など。
■廣松渉の遺したこと
廣松渉は、1994年3月16日の朝日新聞・夕刊に「東北アジアが歴史の主役に――日中を軸に『東亜』の新体制を」と題する論文を載せました。彼はその新聞を虎ノ門病院から私のところに送ってきました。カッコや線が引かれていて、その箇所を彼が重視していたことが分かります。例えば「日中を軸とした東亜の新体制を! それを前提にした世界の新秩序を!」というところに傍線が引いてある。
この文章が結局彼の絶筆となりました。マルクス主義者と思われていた廣松さんが、戦前の右翼が言ったようなことを最後に書き残していった。これを読むと死を直前に廣松渉が、何を問題意識としていたのかが分かります。まず第一に彼は欧米をこえるという問題意識の下にあったということです。
「コロンブスから五百年間つづいたヨーロッパ中心の産業主義の時代がもはや終焉(しゅうえん)しつつあるのではないか? もちろん一体化した世界の分断はありえない。しかし、欧米中心の時代は永久に去りつつある」
こうした欧米をこえようという立場から、デカルト以来の主客二元論に対する批判・主客の統一ということを彼は言います。それが関係主義の提起であり実体主義批判につながる。欧米ののりこえということはアジア重視という視座になります。
「東亜共栄圏の思想はかつては右翼の専売特許であった。日本の帝国主義はそのままにして、欧米との対立のみが強調された。だが、今では歴史の舞台が大きく回転している。日中を軸とした東亜の新体制を! それを前提にした世界の新秩序を! これが今では、日本資本主義そのものの抜本的な問い直しを含むかたちで、反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろう。商品経済の自由奔放な発達には歯止めをかけねばならず、そのためには、社会主義的な、少なくとも修正資本主義的な統御が必要である。がしかし、官僚主義的な圧制と腐敗と硬直化をも防がねばならない。だが、ポスト資本主義の二十一世紀の世界は、人民主権のもとにこの呪縛(じゅばく)の輪から脱出せねばならない」
そもそも「近代の超克」という問題意識は、戦前の京都学派が持っていたものです。これが反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろうと書いているのです。修正資本主義的な統御とも言っていますが、社会主義というよりも資本主義の修正の方に力点をおいた主張になっています。その中味ポスト資本主義としては、エコロジカルな価値を重視すべきだと言っています。
また廣松が「これまで主流であった『実体主義』に代わって『関係主義』が基調になる」と書いていることから言うと、彼の欧米批判の肝は実体主義批判にあるということになります。実体主義といっても色々ありますが、例えば19世紀科学主義の下ではアトム実体主義が顕揚された。
物質を構成する最小単位アトム=原子は固有の働きを持っており、どんな時にも同じような働きをする。そうしたアトム、今はクォークというさらに小さい単位になっていますが、そうした究極の実体としてのクォークの性質をつかめば世界は説明できると考えた。そこでは恒常仮説(実体は同じ条件下ではいつでも同じ働きをする)も原理とされていた。それがアトム実体主義です。
しかし20世紀になってからマッハや量子力学の評価から、究極の実体としての素粒子の働きを見つけだすということはできないという結論に至ります。例えば素粒子の位置を調べようとして観測者が光を当てると、その光のエネルギーによって素粒子の位置が変わってしまうということ等が明らかになった。観測者効果と言います。そうした実際上の経験から、量子力学では物質の実体的な固有の働きというものはなく、関係の中にしかないということが言われていきます。この問題は、主客二元論では素粒子の働きは解けないということです。
主体と客体・自然と人間が分離できない、人間もまた自然の一部であるという考え方になる。人間は生命の再生産を、自然との物質代謝を通じて行っている。自然との物質代謝は主客が分離されるものではなく、主客が統一的にある状態です。
これがデカルトの「我思う故に我あり」以来の、欧米の物心二元論だが、そうしたモノの哲学をこえてコトの哲学に至れと廣松は言ってるわけです。
■「東亜」というタブー
彼の欧米ののりこえ・実体主義批判・主客の統一などの考えは、政治的にはアジア重視となります。なんと彼は「東亜の新体制を」と言いのこしていった。この言葉に皆が驚きました。「東亜」という言葉はタブーだったからです。
戦後左翼は大東亜戦争=悪という戦後教育の中で思考し、戦前の思想は全てがファシズムを生み出した唾棄すべき対象であり、精算すべき対象であると考えてきました。大東亜戦争というのは日本での言い方で、東亜の解放のための戦争だという意味です。それに対しアメリカはこの戦争は日本の侵略であると規定し、太平洋戦争という言葉を使った。敗戦後日本人は皆太平洋戦争という言葉を使うようになり、大東亜戦争という言葉はある特定の思想的立場を表すと考えられるようになったのです。日本軍国主義の立場ということです。
日本は敗戦によって、アメリカの価値のもとに全ての価値観を作り替えられたのです。ちょうどアメリカが今のイラクでやろうとしているようなことを、戦後の日本にはさきがけ的に行ったのです。そこで日本人は過去をすべて否定せよと洗脳された。
日本の将来の軍事的台頭を抑えるため、アメリカは憲法も全部作り替え、平和主義を唱え、暴力はいけないということを植え付けました。けれども、そうした占領政策を押しつけたアメリカ自身は全く違うことを教育している国です。例えばコールバーグの発達心理学などを見れば分かりますが、アメリカでは正義のためには人を殺せなければいけないと教育している。「おじさんがヒットラーだったら殺したらいけないか」とか問うているのです。お前はそういうことができる男かというのが軍人の基準にもなっている。
実際の人間社会は平和でも暴力のない社会でもないことを見すかしている。日本はひたすらアメリカの核の傘のもとに保護される状態で生きるように洗脳されたわけです。
こうしたアメリカの占領政策下でタブーとされていたことを、廣松渉は「東亜の新体制」という言葉でうち破ろうとした。欧米物質文明に表される大量生産・大量廃棄の社会をこえていこうとする問題意識を、京都学派など戦前の日本の思想は既に有していたのだと彼は主張したのです。当然言葉そのものにアレルギーを感じる人もいます。小倉利丸などは廣松渉の主張に対し、おったまげて「東亜の新体制」なんて戦前と同じだと嫌悪感をあらわにした。
しかし廣松は戦前=悪・戦前=軍国帝国主義オンリーという図式に対して、果たしてそのように言いきれるのかと問いかけたわけです。京都学派など戦前の思想を考えていけば、彼らが言っていた近代の超克ということは見直す必要があると。これが東亜の新体制という問題意識となります。廣松渉が82年に出版した『〈近代の超克〉論』(朝日出版社)では、既にそうした問題意識が書かれています。
アメリカの尻馬にのって過去の日本を全部否定する、それは占領者の言葉で考えているだけだと廣松は思っていました。戦前日本の思想もそんなに捨てたものではない。少なくとも西洋近代文明を超えようとする問題意識があり、アメリカ流のモダニズム賛美一辺倒の日本の戦後思想よりは、よっぽどましだと廣松は思っていたのです。
そうした意味において廣松は、全共闘・新左翼運動は戦前・近代の超克論の流れをくみ、戦後日本のモダニズム=近代主義の超克をめざす運動であると考えていたようです。全共闘・新左翼運動は反帝国主義・スターリン主義の克服です。スターリン主義というのはソ連のことであり、帝国主義と言えばアメリカなどのことです。そうしたアメリカとソ連の持っている物質文明・生産力主義の考え方を越えようとしているのが新左翼運動であり、それは近代の超克派とつながっているのだと廣松は考えていた。
そのため、いわゆる既成左翼、共産党とか社民あるいは市民主義などの近代主義者は、廣松にとっては否定の対象だったのです。柄谷行人はこんな廣松を「一人で欧米と闘っていた」と廣松著作集月報13で書いてます。
■近代の超克派の目標
欧米民主主義が良くて、戦前の日本が全て悪かったと言うだけでなく、もっと内在化して日本のインテリゲンチャが戦前に何を問題にしていたのかを、ちゃんと捉えるべきだというのが廣松の問題意識だった。それに対して、市民として台頭した戦後知識人の中には「近代の超克派なんか資本主義の超克すら考えてもいなかった」と批判した人もいた。平野謙ですが、廣松は近代の超克派は資本主義の超克そのものを論議していたのだと反論しています。昭和17年に文学界の座談会、文化総合会議シンポジウム・近代の超克が開かれましたが、そこでは次のようなことが論じられていました。
「政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克を意味する」「とりわけわが国に採り入れられた欧洲文明が、…再検討と清算を必要とするものとせられつつある一九世紀文明であり、資本主義的、個人主義的、自由主義的文明であるかぎりにおいて、この問題はまたわれわれ自身にとつて極めて痛切なる反省を促すものであるといはなければならない」(『近代の超克論』・『文学界』誌上座談会にふれて)
日本は明治維新の後富国強兵政策を採り、欧米列強の在り方は全部いいことだとして、19世紀の欧米文明をどんどん輸入した。戦前知識人は果たしてそれで良いのかという問題意識を持つ以外なかったのです。
欧米物質文明を輸入することで、個人中心主義や利己主義という意味での自由主義が輸入された。こころを重視する東洋の思想は退けられる一方だった。そんな現状をこえるべきだと、資本主義の超克とか、デモクラシーの超克の、その先に何があるのかということが座談会では論じられていた。
その問題意識性に廣松は注目していた。廣松の「近代の超克」論を考える際には、廣松がマルクス主義者だったことをおさえる必要があります。デモクラシーの超克、資本主義の超克、自由主義の超克というのは、共産主義思想でののりこえと思っていたわけです。今はソ連邦が崩壊したので論外になっている観点ですが、彼の問題意識は正しいマルクス主義で西欧近代をこえるということだったのです。
■皇道派と資本主義の超克
資本主義の超克という意味では、2・26事件を起こした陸軍の皇道派・青年将校たちもそのように考えていました。その下地になった社会的背景には昭和10年代のものすごい農業不況があります。東北などでは飢饉が起き、女の人はだいたいみんな遊郭などに売り飛ばされた。農家では長男だけが家を継いで、次男3男は土地を貰えず、彼らは兵隊に入りました。しかし兵隊に入ったが、自分の妹とか姉さんが飢饉の中で売られていくという状況は続いている。こんな社会でいいのかと思ったわけです。しかも欧米による日本への包囲網が形成されつつあった時期です。2・26事件の直前に出た文書「座談会『青年将校運動とは何か』」には、彼らの問題意識が書かれていると廣松は引用しています。
「我々は今日兵を教育して居るが、今のままでは安心して戦争に行けない。今日の兵の家庭は疲弊し働き手を失つた家が苦しむ状態では、どうして安心して戦争に行けるか。即ち自分達が陛下から、一般国民から信頼されて居る以上は、此の国防を安全に、国防の重責を盡すやうな境地にしたい。その為めに日本の国内の状勢は明瞭に改造を要するのである」(『近代の超克論』・国家総動員体制と歴史の狡智)
明治維新後、一君万民という形で士農工商という身分制度を廃して、天皇を中心とした平等社会が生まれると思ったが全然生まれていない、一部の財閥が肥え太って、農民は疲弊している。国家が疲弊していて、自分たちは安心して戦争できない。自分の親兄弟が困窮して苦しんでいる中で、戦地で死ねないと言っているのです。2・26事件というのは「この社会は不平等すぎる」という思いが原動力だった。青年将校らの正義性はそこにありました。
皇道派は日本を、明治天皇の下でバルチック艦隊を破った日露戦争当時の状態に復帰させることが必要だと考えていました。ドイツ・イギリス・ソ連との対抗関係の中で、日露戦争に勝って植民地にならずに済んだ時期の日本に戻していく。そうしなければ、欧米列強との争いに敗れてしまうと考えた。そうした国家をつくるため、皇道派は君側の奸、つまり天皇の側にいる悪い奴らを倒し、国体を天皇親政へ変えることを目指していました。皇道派は北一輝とその門下生である西田税を思想的指導者とし、国家を改造しようとしたのです。
彼らの言っている内容は私有財産の制限・金権政治の一掃でした。国家に富を移し、社会主義的な統制経済を行うという考え方です。だから天皇親政と言っても、それは天皇中心の国家社会主義ということになります。僕はもちろんそれが良いとは思っていません。しかし彼らの問題意識は、全共闘運動や三里塚の農民のための闘いと通底するものを有していたと言えないか。大いにあると思います。
廣松は皇道派の問題意識は大資本が国家を支配することに反対していくことだったが、この問題意識は全共闘も同じだろうと言ってるわけです。廣松にとっては2・26事件の青年将校と戦後の学生叛乱がくっついており、反帝・スタ克運動というのは、京都学派と似た問題意識と捉えていたのです。
■戦争の時代は続いている
日本はやがて第二次世界大戦に至ったわけだけれど、戦争をする内在的契機には近代の超克という問題意識があった。そうした問題意識は軍部にも当然共通のものとしてあった。
例えば皇道派は、日本の脅威はソ連共産主義だと対ソ戦を主張しました。一方で東洋の一員である中国とは和解の方向をとる方針でした。中国での戦線拡大は英米との利害上、両国とも齟齬をきたし世界を敵に回す恐れがあると主張したのです。
一方、同じ陸軍内の統制派は、ソ連との戦争は全面戦争になる恐れがあり、現在の日本では勝てないと考えた。対ソ戦に備えるためにも、満州事変の成果を拡大し中国を屈服させる。資源確保をし、総力戦に備えるべきであるということから対中戦を主張しました。皇道派と統制派は古くは陸軍における薩長の対立から出てきたのですが、彼らは対ソ戦か対中戦かをめぐってヘゲモニー争いをしていたのです。
昭和11年2・26事件の後、皇道派は一掃されて、統制派が権力を再確立します。日本はその後、盧溝橋事件を発端に関東軍が中国に一斉になだれ込み、中国を侵略していった。それ対し中国共産党の毛沢東が遊撃戦で日本に抵抗していく、これが戦前の流れです。
ところで戦前の日本政府内部にも戦争に賛成ではなく、反対の人もいた。しかし結局関東軍などの対中国戦争を急ぐ統制派によって戦争が始まってゆく。いろいろな苦渋の選択の結果、戦争に突入していくことになったのは知っておくべきです。
例えば今度のイラク戦争に至るいきさつを見ても分かることですが、何でアメリカは無制限に軍拡して良くて、大量破壊兵器なんかいっぱい持っているのに、イラクはいけないのか。戦前の日本も同じような状況に追い込まれていったのです。
今、米英はイラクを包囲して、大量破壊兵器もないのに戦争をしかけたことが明らかになっています。アメリカやイギリスは、戦後も次々と戦争を起こし、自国の利権を守るということをしている国です。そういう意味でアメリカは、世界の中で最後まで奴隷制度が残った国だということは知っておいたほうがいいと思います。アメリカ人は、ネオコンに代表されるような革命思想=エスノセントリズムで思考しているのです。
今イラクでは、米軍がイラク人の捕虜を虐待したことが報じられています。米軍が収容者の首にイヌ用の首輪と鎖をつけたり、男も女も裸にして写真やビデオで撮影したりしている。アメリカ人とはそういう人達でもあるのです。もちろん戦前の日本軍も同じようなことをやりました。しかしアメリカは日本に対しては第二次世界大戦の時に2度原爆を落としたのです。日本人はみんな殺して良いと思ってやったわけです。もう日本は戦争をする国力もなくなっているのに、広島と長崎にウランとプルトニウムの爆弾を落とし、日本の都市を原子爆弾の実験場にしたのです。そのアメリカが、バンカーバスターやディジーカッターをイラクで使っている。戦後左翼はアメリカが平和をもたらしたとか考えてきたけど、はたしてそう言えるでしょうか。
■アメリカ支配を超える
日本は戦後長い間アメリカと経済的に結合して、日本経済の復興はアメリカ抜きでは無理だと思ってきました。現実に対米貿易が日本経済を支えるという構図もありました。しかし今はだんだん様子が変わってきていて、中国貿易の方が多くなってきている。在日米軍に対する思いやり予算なども含めて、日本にとってアメリカに追随することに具体的なメリットはあるのか。それは今、日本の経済人が言い出していることでもある。
対米貿易にしても、日本が対米貿易で儲けた金でアメリカの財務省債権を買うというかたちで円が環流している構造です。しかもアメリカが自由にドルを操作することによって、円高になったり円安になったりして日本経済を牛耳っている。廣松は朝日の遺稿ではこうした日米経済について、「アメリカが、ドルのタレ流しと裏腹に世界のアブソーバー(需要供給者)としての役を演じる時代は去りつつある。日本経済は軸足をアジアにかけざるをえない」と言っています。
今や、戦後60年の間にアメリカが作った秩序を、根本から見直すことが問われているということです。もちろん日米戦争をやればいいと言っているわけではありません。もっと思想的イデオロギー的に、欧米の思想を見据えていくことを問題意識にするということです。戦前の京都学派の問題意識、あるいは廣松が『〈近代の超克〉論』で言っていたことを、われわれなりにもう一度フォローしながら問題意識を刷新することが問われているのです。
日本は、欧米からの植民地化を阻止する目的で明治維新を起こし、富国強兵政策をとった。だが結局中国とか朝鮮に対する植民地支配を行ってしまった。欧米思想を全然超えないまま、植民地主義の道を自ら歩んでしまったという瑕疵を持っています。
そうした歴史をふまえ、京都学派が考えたようにソ連の全体主義とか、アメリカの個人主義とかを超えていくような、そんな思想的営為をわれわれが引き継いでいくべきなのです。あまりにもアメリカの支配になれきった日本の状態を超えることは絶対に必要です。イラク反戦を闘い、あの好戦的なアメリカと対峙してきた我々がもつべき問題意識こそ、廣松の言っていた「近代の超克」だと思います。
(2004年5月15日発行 『SENKI』 1144号4面から)