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排除の論理を開き直る高田健(労働者社会主義同盟)世間のWPN批判は大体正しい【BUND_WebSite記事】
http://www.bund.org/editorial/20040505-2.htm
五味 洋
■権力に無抵抗な反戦運動が何で好いのか
このところワールド・ピース・ナウ(以下WPN)への批判が高まっている。『世界』3月号では作家辺見庸氏の「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか 閾下のファシズムを撃て」が掲載されている。辺見氏は1月25日、日比谷野音で開かれたWPNに参加した実感から、イラク自衛隊派兵という眼前に進行する「壮大な反動」に見合う怒りもなければ、抵抗闘争にもなっていないという。見解を異にする点もあるが、WPNの一面を捉えていると思う。
「人数なんか少なくてもいい。せめても深い怒りの表現があればいい。それがない。地を踏む足に、もはや抜き差しならなくなった憤りというものがこもっていない。道は当然、揺れっこない。私は、しかし、道はいまこそ揺れるべきだ、揺するべきだと考えている。昔のように、というのではない。さらに大きな新しい弾性波を起こすべきなのだ。もちろん、懐旧でも憧憬でもなく、そう思う」「こんなデモ(主催者は、デモの語感は不穏だとでもいうのか、ことさらに『パレード』と称していた)に加わったこと自体、軽率にすぎた気さえしてくる。なぜそんなに平穏、従順、健全、秩序、陽気、慈しみ、無抵抗を衒わなくてはならないのだ。犬が仰向いて柔らかな腹を見せて、絶対に抗いません、どうぞご自由にしてください、と表明しているようではないか」。昨年以来のイラク反戦運動の全世界的高揚は、環境や人権、反グローバリズム、反基地等さまざまな課題に取り組むNGOやNPO、各地域の住民運動が共同行動を実現することで創造されてきた。アメリカのアンサーやイギリスのストップ戦争連合は典型だ。日本でもその過程でWPNが果たした役割は決して小さなものではなかった。しかし欧米の闘争主体とは明らかに質的に異なる面があった。WPNは警察権力の不当なデモ規制に抗議すらしないどころか、抗議する参加者を逆に実行委が規制し、不当なデモ規制を行っている機動隊に「警察のみなさん、ありがとう」などと主催者が一斉に唱える(昨年3月8日、日比谷)。デモ規制に抗議した参加者に、集会で「ピースでない人たち」などと揶揄する発言を行う(昨年3月21日、芝公園)。
「非暴力」を強調するあまり、権力に対する「無抵抗」を売りにし、官許の運動にねじ曲げようとする不健全な運営が随所に見られるのだ。さらにWPN実行委の中心団体であるCHANCE!?pono2の小林一朗氏ら主要メンバーが、公安警察との会食を繰り返していたことも明らかになった。これらについては本紙にも「個人に解体する専制政治は無しだ――明日のために イラク反戦運動」(荒岱介)、「WPN実行委メンバーが公安刑事と鍋を囲んで忘年会だって――公安警察の仕事も知らないピースな人々」(山根克也)などの批判的文書が掲載された。
それから一年近くが経った今日、視点はいろいろだが、運動圏からWPNのあり方や運営に対する批判が、あちこちから表明されている。
『論座』3月号には旧べ平連の吉川勇一氏が「デモとパレードとピースウォーク――イラク反戦運動と今後の問題点」で、WPNの現状に苦言を呈している。WPNが示威行進を「パレード」と称することへの違和感を述べ、「新しい表現に伴う新しい運動の質が生まれているのかとなると、残念ながら、私にはそう思えない」。また吉川氏は別の文章では、CHANCEの「会食問題」について、今もってなおWPN実行委が曖昧なままにしていることを看過することはできないと批判している(『市民の意見30の会・東京ニュース』79号)。
『インパクション』139号では反天連の天野恵一氏も「会食問題」を取り上げ、「運動文化の完璧な世代断絶みたいなものがあった」「(古い世代が)悪い言い方をすればホイホイと乗せたわけです。もちろん、運動を広げようと云う気持ちででしょうが、でも古い政治をやったわけです。だけどそれは結局古い政治で乗せたって乗せきれるようなものじゃなかったと思う」と、会食問題の責任を彼らを乗せて利用してきたWPN実行委の中心を占める古い世代の活動家の側に問うている。「若く出て来た奴に媚びればいいということじゃ全然ない」と。
■恣意的に「ご遠慮願う」高田流共同行動
批判が高まる中、WPNの中心的メンバーである高田健氏は、「反戦の闘いに内在するか、外部から嘲笑するか」(『技術と人間』3月号)という反論を公にした。高田氏は辺見氏の批判を「外部からの嘲笑」と決めつけ、「思想的退廃とニヒリズム」と切り捨てている。どうやら彼はWPNに内在することのみが唯一「反戦の闘いに内在する」ことだと考えているらしい。高田氏のような共産主義者には、自分たちのみが世界を変えていると思い込み、他の人々を解釈しているだけの人間と批判する人が多い。彼は最近まで「共産主義者による建党協議会」で活動し、その後合流して「労働者社会主義同盟」のメンバーになった。自分の意に反する参加者の意見は「外部からの嘲笑」と処理してしまうのは、共産主義者特有の唯一思想からまったく自由になっていないからだろう。
また高田氏はこの文章で、WPNを市民緊急行動とCHANCEの合流したものと位置づけている。そもそもCHANCEは「個人参加が原則」「シュプレヒコール禁止」「組織・団体の表現行動及びそれを目的としたのぼりの掲出、ゼッケンの着用禁止」をピースウォークの原則として掲げてきた団体だ。彼らが起こした会食問題についても、高田氏は「批判は運動圏の一部からのもの」(同論文)として責任を曖昧にし、今にいたるまで若者の代表として持ち上げている。
こうすることによって高田氏は、従来のデモ=独り善がりの傾向、個人参加のフツーの人々=新しい反戦運動というまったく独り善がりの2分法を作り出し、CHANCEの主張してきた「個人参加の原則」を持ちまわって、自分たちがWPNを仕切ることに都合の悪い政治勢力を排除することだけに汲々となっている。
この高田氏の文章にもすでにあちこちから批判があがっているが、この点について関西のノンセクトグループの黒目氏による以下の批判(「『内在』する事の可能性そのものの危機であるのだ」http://mypage.naver.co.jp/kurome/text4.htm)は正鵠を射ている。
「マスメディア的に(あるいは高田的に)語られるところの『新しい運動』が、一定の、『善良な人々』の運動、ああいった『みんなで歌う』という宗教的形態が、街ゆく市民との間に垣根を作らない、と信じるような種類の人々の運動である」「問題は、こういった『善良な』層の人々が作り出す運動が、極めて異物を排除しようという指向性が高いという事から生じるものである。東京に於いては私によく似た連中は、どうやら『御遠慮願われて』いるらしい」「高田氏は『御遠慮願う』とあっさりと書く……現実問題として、高田氏が指弾する『内ゲバ』によって死体の山を築いてきた人々は御遠慮願われていないようであるし、警察にメシ喰わしてもらっていた人も御遠慮願われていないようである。では何が御遠慮願われたのか? この『御遠慮願う』事の基準は、誰がどこでどのように決定しているのか」「実際のところ、この排除される事の基準は、『従順さ』という部分で切られているようにしか見えない」。
また埼玉NPOセンター理事の東一邦氏も、興味深い指摘をしている。
東氏は運動現場やNPOでの議論の場で最近「いたずらに権力に逆らうことを目的としたひとりよがりはダメだ。そんな時代遅れのやり方は『ふつうの人』には理解されない」という言い方に出くわすという。「実は彼らは『ふつう≠フ側にある』、つまり『多数派に属している』ことを証明したいがために『左≠忌避する』ことに熱心になるのだ」「その市民運動の中では、パレードと言わずにデモと言う者が『左』だったりする」(『市民の意見30の会・東京ニュース』82号)。
東氏はこれらの指向性の強い人々は意見をたたかわすことが嫌いで、意見を問いただしたり、誤りを批判したりすると「ネットワーク」の相手にさえしてくれない、排除の発想が強いというが(『市民の意見30の会・東京ニュース』83号)、これはWPN実行委の一部の人たちを批判したものだ。
■「若い世代の新しい運動」騙る排除の論理
高田氏は、「マスコミが表現した『個人参加のフツーの人々』が大規模に参加するような運動」を「新しい反戦運動」として持ち上げる。しかし無色透明な個人などいないし、人はみな思想的政治的に、何らかの傾向性、こういってよければ党派性を必ず有している。また集団といっても構成しているのは個人であり、任意の結社である以上、諸個人の主体的な意思で集団を選択しているに過ぎない。「フツー」かどうかなど高田氏が恣意的に線引きしているということが、彼はそもそもわかっていないのだ。
イラク反戦運動の過程で、マスメディアやWPN実行委の一部は「これまで参加していなかった人」「政治に関心を持たなかった個人」を持ち上げた。もちろん新しい人の参加が得られることは結構だが、その人々も反戦活動を続けようと思い、何度か行動に参加すれば「初めて」ではなくなる。また運動に携わり、社会を正そうとしていくなら「無関心な個人」でいられなくなる。それが人間の成長というものだろう。成長する人は排除されるということになるのか。
アメリカではイラク開戦1周年の3・20闘争において、これまでの主体であったインターナショナルアンサーに加え、アラブ系アメリカ人全米協議会やイスラム教徒の支持と参加が広がり、より広範な3・20全米連合と呼ばれる枠組みが作られた。これが実現したのには、アンサーやパレスチナ帰還権運動、全米法律家ギルドなどの団体が、「私たちは、反戦運動からパレスチナの人びとの闘いを切り離すことは認めません」等という公開書簡を発表し、「イラク、パレスチナそしてどこであれ、すべての植民地占領を停止せよ! 今すぐ兵士を連れ戻せ! 植民地占領の国際化にNO!」等々のスローガンを、討論の末決定したことによっている。
これに比し、高田氏は「デモを『パレード』と言い換え、シュプレヒコールの形態も、スローガンも工夫した」「横断幕をバナーといい、ビラをフライヤー、集会をトークラリー、デモの『梯団』は『連』」と言い換えたなどと誇らしげに語っている。言葉の言い換えが好きな人は勝手にやればよいが、新しい反戦運動の中身として語るにはあまりにお粗末だとは、この1周遅れのトップランナーは思ってないのである。
さらに高田氏はCHANCEなどを若者の代表のように持ち上げてきた。小林一朗自身私といくつも違わないが、もう若者という歳でもないだろう。また若い世代といっても、権力におもねることを快しとしない、日本の10代20代の若者も私のまわりには大勢いる。20代の埼玉大学院生は、昨年1月19日ワシントンでひらかれたアンサーに集う学生主体の反戦デモに参加した感想を「機動隊の規制をはねのけてデモを行い、逮捕されたり殴られたりしながらもホワイトハウス敷地内に20名ほどが突入する。その時数千名のデモ参加者がいっせいに抗議する。この行動力には正直驚かされた。誰もが行動力だけでなくて、反戦を訴える気持ちや戦争への怒りをダイレクトに表現している。この息吹を日本に持ち帰らねば」と書いている(本紙1101号)
昨年秋ブッシュの訪英に際するストップ戦争連合の呼びかけたロンドンのデモでは、20万人が参加し、ミサイルを持ったブッシュの銅像をカウントダウンで引き倒すパフォーマンスを行った。バッキンガム宮殿には警察当局の規制をこえてデモ隊が押し寄せ、30人あまりの逮捕者を出しながらも「殺し屋ブッシュ、殺し屋ブレア」等のプラカードを掲げて抗議した。これらは大きく報道されているが、この主体もほとんどが若者だ。
盛り上がる欧米での反戦運動を見ても、権力に無抵抗な運動などではまったくない。逮捕者を時には出しながらも、正義のためには犠牲をいとわない決意と覚悟をもって闘われているのだ。問題はいかなる内容において闘うのか、何を共同行動のルールとするのか、その中身・思想と路線だろう。ましてや、おじさんが若者の味方面して「世代間対立」のようにいうのは問題のすりかえだ。
4月11日に吉川勇一氏、天野恵一氏、小林一朗氏らがパネラーとしてシンポジウム(地球平和公共ネットワークよびかけ)が開かれた。このシンポは4月16日、朝日新聞でも取り上げられたが、小林一朗氏が「私は公安警察と食事をしたことがある。批判されたが、(彼らの)人間性を取り戻してもらうために、権力とはつきあい続ける」と主張した。朝日の記事については小林氏が後になって抗議しているものの、持論である「従来の運動では普通の若者には受け入れられない。新しい社会運動は反権力の運動ではない」ということを再三主張していた。これに対し吉川氏は「実体のない『普通』の基準をつくり、普通でない人の参加を拒んでいるのではないか」と批判するとともに、「運動についての意見や感じ方の相違は、必ずしも世代間の相違としてだけにくくれないのではないか」「『世代』や『年齢』という基準ではない、別の範疇の『選別』『排除』の論理が生じつつあるのではないか、という指摘も出されて」いたと批判している。
私もそうだと思う。WPN実行委の一角を占めるおじさん共産主義者たちは、「若い世代」などを騙り、マイナーな自分たちのヘゲモニーを維持することに汲々として排除の論理を振りまわすのを止めるべきだ。
■開かれた共同行動をつくり、その中で切磋琢磨すべきだ
黒目氏が批判していたように、高田氏は「非暴力の行動の原則」を振りかざしてその実自分に都合の悪い集団に「ご遠慮願う」ことをやってきた。
「非暴力の行動の原則」についてはこれまでも運動圏で、「非暴力は警察との協力ではない」とか、「警察権力に抗議しないというのでは非暴力という抵抗思想がわかっていない」という批判が繰り返されてきた。が、ご丁寧にも高田氏はこれにも反論している。
抵抗思想として存在してきた「非暴力主義とは次元が異なる」「非暴力抵抗の思想の何たるかを知らないと説教をするのはピントがずれている」。「『互いを誹謗中傷しない』という約束」と「警察の挑発に対する不必要な反撃行為や、集会に集団としてヘルメットなどをかぶって示威的に参加することなどもご遠慮願うこと」が「非暴力の行動の原則」だと。
思うにこのじいさんには、60年代、70年代の安保全共闘運動などの経験がまったくないのだ。あってもせいぜい組合運動とかではないのか。だから新左翼コンプレックスで言ってるように思えてならない。
「個人参加が原則」とかいって、自分たちの影響力が行使できないことを恐れて、自分たちよりも大きな集団を恣意的に排除したり、不当な警察の介入と衝突したグループを「集団による示威的行動」として排除することを非暴力の行動の原則とか言ってるだけなのだから。なんとも悲しい共産主義者の末路だなと思えてしまう。
3・20集会では、明治大学内でノンセクト学生活動家に暴行を加えた団体や、組織内で女性のレイプ事件を起こしてきた団体が実行委参加団体になっていることへの批判のビラも撒かれていたが、実行委に入れるか、ご遠慮いただくかその基準は何なのか。自分に従順であるかだけが基準なのでは、まさに専制ではないか。
東一邦氏もWPNの共同行動のルールに対比して、「ちなみに、わたしの参加する埼玉の行動では、原則は『何でもあり』である。『デモ』と呼ぼうが『パレード』と言おうが『ピースウォーク』だろうが勝手。趣旨に賛同するなら、どんなスローガンを掲げようとかまわない。それぞれの団体が、それぞれの流儀にもとづいて自分たちなりのチラシやプラカードを作って参加する。ヘルメットは登場しないが、どうしてもというなら、とくに拒みはしない。チンドン屋さんを呼ぶグループもあれば、シュプレヒコールを叫ぶグループもある。『あれは○○派系の団体』という話も聞くが、別にいいじゃないのということにしている」と述べている。
昨年本紙で荒岱介氏は、共同行動のルールについて次のように述べている。
「共同行動の発展を展望するとき、内ゲバやどう喝、あるいは誹謗中傷の類が禁止されていくのは当然だ。だが、だからといって『個人参加』を条件として団体・党派の参加を排除したり、『人を批判しない』『過激な表現はしない』などと、大衆集会での『批判の自由』を制限したりすることも、あきらかに大衆行動における原則を逸脱している」「あらかじめ共同行動の主催者が、『集会・結社の自由』『言論の自由』『表現の自由』という日本国憲法が認めている基本的人権すら参加者に認めないのである。こんなのでは運動は発展しない。そういう形態もひとつの専制なのだ」「共同行動に参加している団体・個人においても、当面の課題がおおむね一致しているだけで、考え方や運動のやり方までが一致しているわけではない。むしろ多様な価値観や実現目標を掲げる団体・個人が集合しているからこそ共同行動なのだ」。
私は結局のところ@政治課題の一致(たとえばイラク戦争反対など)、A行動の統一(課題の実現に向けて一緒に集会やデモなどの抗議行動を行う)、B大衆集会での批判の自由という、ベトナム反戦運動の中で確立された共同行動の3つの原則が守られるべきで、それで運動は今より発展すると思っている。
共同行動においては、課題の一致は当然として、各グループの行動形態の自主性を尊重し、他のグループの行動に介入したり、妨害したりしない、相互批判の自由を保障する、相互の政治的見解や思想の差異を認め、差別選別しないといったことが原則とされるべきなのだ。それなくしては運動全体が活性化しないと思う。
国際統一行動として取り組まれた3・20でも、直前まで社共などを含めた日比谷公園での統一の共同行動が模索されてきたにもかかわらず、結局東京は「分裂」集会になってしまった。高田氏は「分裂ではない」と強弁しているが、「政党としての参加は認めない」「政党代表は集会で挨拶させない」「のぼりは制限」とか、特定の団体には参加を「ご遠慮いただく」というような、共同行動の原則をねじ曲げていることが、分裂を生み出した原因の一端である。
それならば市民どころか、れっきとした労働者社会主義同盟のメンバーである高田健氏自身参加をご遠慮願うべきではないのか。
戦地イラクへの自衛隊派兵が行われ、文字通り日本も参戦国化した。それに伴い日本政府は戦時の意思統一を行い、弾圧を激化させている。イラクで人質になった被害者とその家族へのバッシングなどはその最たる例だ。もはやピースと唱えているだけで平和運動たりうる時代は終焉しているのだ。
不正に抗わないやさしさ、批判をしないやさしさ、意見をたたかわせないやさしさを持ち上げ、「徹底した優しさを持つものが徹底した反戦主義者」などという高田健氏の主張は、共産主義者の組織戦術で考えてるマヌーバーである。言ってることはすべて自己拡張のための方便だろう。
今、現実にイラク占領を頓挫させつつあるのはイラク民衆のレジスタンスであるし、全世界での犠牲をいとわない反戦闘争である。少なくとも権力への無抵抗を標榜する勢力が歴史を動かしたことなど、今まで一度たりとてなかった。「若者のやさしさ」を騙りながら、共同行動参加者を自分たちの都合に合わせて選り好みしていくようなあり方では反戦運動の発展はありえない。反戦運動を発展させていくためにこそ、排除の論理と闘っていくことが求められていると私は思う。
(2004年5月5日発行 『SENKI』 1143号3面から)