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(回答先: 緊急手記 拘束の3日間 安田純平(4) 「客人」一転スパイ容疑【東京新聞】紙から 投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 4 月 26 日 19:40:37)
緊急手記 拘束の3日間 安田純平(5) 「悲壮感漂う闘争」・・・「民間人を殺せばテロだ」 議論を経て握手で別れ
「ヒロシマ・ナガサキ」の経験があるのになぜ日本は米国に従うのか」
自動小銃カラシニコフを携えた数人の武装グループにスパイ容疑をかけられた小学校の教室で、 NGOメンバー渡辺修孝さん(三六)への尋問が行われている最中、私を見張っていた若い男が尋ねた。
「あなたたちは米国のイラク占領が問題だと言うが、日本では半世紀前の戦争以降、米国に追随せざるを得ない状況が続いている。だが自立しなければならないと考えている日本人は少なくない」。言葉を選びながら説明する私に、彼は驚いた様子で耳を傾けた。
拘束の三日間「(自衛隊を派遣した)日本は敵だ」と言うイラク人は多かったが、話はいつしか「ヒロシマ、ナガサキ」「トヨタ、ニッサン」のことになり「日本はいい所か」と興味を示す。親日感情はまだ強い。最後まで丁重に扱われ、解放されたのは、そうした「歴史」に救われた面があったかもしれない。
私たちを拘束したのは「自警団」のような組織だったと思う。武装抵抗が続くファルージャ付近で外国人が軒並み拘束されているのは、一帯の住民が非常線を張っているためではないか。占領に参加している国の人間にはスパイ容疑がかかり、それ以外は解放される。そうした審査や処刑を行うのが武装組織だ。両者が重なり合ってネットワークが組まれ、地域一帯が封鎖されているというのが実態ではないか。
私たちは二日目の夜、武装組織に引き渡された。拘束の当初、私たちを撮影した"人質"映像は結局、放映されずに終わった。だが武装組織のイラク人Bは、拘束前に私が奪われたテープに撮影していた映像のすべてを知っていた。武装組織が緩やかながら、拉致したグループと連携しているのは間違いなかった。
ずっと覆面をしていた別の男は常に敵意に満ちた視線を向けていたが、やがて「仲間が撃ち落としたヘリから脱出した米兵に、手りゅう弾を投げ込み五人殺した」などと語り始めた。感心したふりをすると「あの時は、この時は」と身ぶりで解説を始める。最後は覆面も外した。素顔は素朴な農民のようだった。
一方、この拘束で中心的な役割を果たした「ムハンマド」と名乗る男とイラク人Bは、フセイン政権時代、バグダッドで警備兵をしていたと語っている。二人とも旧政権の「残党」であることを否定したが、少なくとも地域としての闘争に、その経験が生かされているとみていいだろう。
「まだおまえたちをスパイだと言い張る者が、何人かいるんだ」
午後九時ごろ、打ち解けた見張りの男がつぶやいた。尋問が始まって半日。目の前のメンバーは懐柔できても、別に「処分」を決める機関があるのでは限界がある。さすがに徒労感を覚えた。
その直後、戻ってきたBが「明日解放する」と言った。どのような議論を経てそれが決まったのか、今も分からない。おれたちに米兵と戦う権利があると思うか」。再び現れた尋問役の男が尋ねた。「もちろんだ」と答える。「だが、民間人を殺したらおまえたちをテロリストと呼ぶ」
見張りの男たちが一瞬色めき立った。「米軍が市民を殺すなら、彼らもテロリストだ」と言葉を継ぐと、大きくうなずくものもいた。当然だが、理由があって彼らは戦っている。最も大きいのはファルージャ一帯での「虐殺」だろう。
終始、私たちをかばってくれたのがBだった。拘束二日目の夜、イラクの暮らし、日本の暮らしを片言英語で語り合ううちに、アブグレイブに住め」とまで言いだした。「次はいつ来るのか」と問うBに、「三ヵ月後くらいかな」と答えた。少しの沈黙の後、彼は「そのころ、この辺りにはイラク人はいないだろうよ」と言った。彼らの闘争には悲壮感が漂っていた。
解放の決定から一時間半後、私たちは再び目隠しをされ、車で最後の拘束場所となった民家に向かった。目隠しのまま私は、会った時には敵意むき出しにしていた冒頭の若い男に手を差し出してこう言った。「戦うのはあなたの選択だ。しかし、とにかく生きていてくれ」。男は「シュクラン(ありがとう)」と言い、私の手を固く握った。 =おわり