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(回答先: 【コンクリ事件】どうしようもない鬼畜道…また監禁で逮捕 (ZAKZAK) 投稿者 エンセン 日時 2004 年 7 月 10 日 02:39:50)
綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件
1989年1月、少年ふたりが強姦と窃盗容疑で綾瀬署に逮捕された。
家裁審理中、少年たちは鑑別所に収監されていたが、彼らの家を警察が家宅捜査すると女性の下着などが見つかったので、「これは余罪があるのではないか」ということになり、ふたたび取調べがはじまった。
ところが警察が余罪について軽くカマをかけたところ、少年のひとりがぶるぶる震えだし、
「はい。すいません殺しました」
と頭を下げたので、刑事は仰天した。彼はずっと被害者の死に顔が忘れられず、悪夢にうなされる毎日で、神経は限界まですり減っていたのだ。カマをかけられ、すぐ「あのことだ、ああ、やっぱりバレた」と思い自白してしまったのは自然のなりゆきであった。
これが3月29日のことで、逮捕された少年とは本事件の主犯、AとBである。
少年の自白に従って江東区の埋立地を掘り返したところ、ほどなく死体の入ったドラム缶が発見される。被害者の少女の死体はボストンバッグに詰められ、コンクリートを流しこまれて固められていた。
死体はすでに腐敗しており顔の見分けもつかなくなっていたが、ひどく痩せこけて皮下脂肪が半分近くにまで減っており、頭髪がほとんどなかった。これは長期間なぶられ続けたストレスにより抜け落ちたものであろうと思われた。膣には小瓶2本が押しこまれたままだったという。
被害者の少女は捜索願いの出ていた高校3年生のE子さんであった。4月からの就職先も決まっており、最後の学生生活を楽しんでいた矢先、彼女はいわれもない不幸に襲われたのである。
自白から、少年A(18歳)、B(17歳)、C(17歳)、D(16歳)が猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、殺人の容疑で逮捕された。なお彼らは被害者の少女を監禁している間にも、表へ出ては強姦事件を繰りかえしている。4人とも何らかの形での崩壊家庭に育ち、高校を中途退学したのちは職を転々とし、事件当時はシンナーにふけり、暴力団に出入りするなどして過ごしていた。
彼らが本事件の被害者を監禁し、殺害に至った経緯はこうだ。
1988年11月25日の夕方、AとCは「ひったくりか、強姦」か、どちらにしろいいカモを見つけようと思い、原付に乗ってふらふら走りまわっていた。
プラスチック工場でのアルバイトから自転車で帰る途中だったE子さんは、そうしてまったく偶然に彼らに目をつけられることとなる。
AはCに「あの女にしよう。おい、おまえちょっと蹴飛ばしてこい」と命令。Cが原付で近寄っていき、E子さんを力まかせに自転車ごと溝に蹴落とした。
Cが逃げ去ったのを確認するとAは彼女のもとに駆けより、手を差しのべて溝から立ち上がるのを助けてやった。
「大丈夫? あいつさ、頭おかしいんだよ。俺もさっき蹴られたんだ。また戻ってくるかもしれないから、送ってってやるよ」
と優しく微笑した。ナイト役登場、というわけである。陳腐な手だが、現実におびえている少女を騙すにはいい手なのだろう。Aは彼女を原付の後ろに乗せ、彼女の家ではなく人気のない倉庫に連れこんだ。
そこでAはやおら豹変し、
「じつは俺はさっきの奴の仲間で、前からおまえを狙ってたヤクザだ。俺は幹部だから、いうことを聞いてりゃ命だけは助けてやる」
と言って脅した。Aはすくみあがる彼女をホテルに引きこみ、強姦した。
ホテルからAはC宅へ電話した。C宅は仲間たちの溜まり場だったので、そのとき部屋にはB、Dもいた。Aが、
「いま女をひとりやったとこ」と言うと、Bが、
「マジっすか、俺もやりたいから、帰さないで下さいよ」と言った。
それを聞いたAは真に受け、B、C、Dを呼び出して待ち合わせると、E子さんを遠くから見せて、
「どうだ、あの女。どうする?」と訊いた。
「さらっちゃいましょうよ」
とBが答えたことから、Aは彼女をこのまま家に帰す気をなくす。E子さんがこれから41日間にわたる監禁生活を送った発端は、こんな簡単な会話によってであった。
「おまえはヤクザに狙われてるんだ。俺はおまえを売り飛ばせと命令されてたんだけど、可哀相だから助けてやることにした。おまえの家のまわりはヤクザがうようよいて危ないから、かくまってやる」
と言われ、なすすべもなくE子さんはC宅に連れていかれた。この日からE子さんはそのまま彼らの監視下に置かれることになる。
11月28日、不良仲間ふたりが新たにC宅に来訪。Aは彼らにもE子さんを「ごちそうしてやる」と言い、必死に抵抗するE子さんを押さえつけて輪姦させた。性交後、彼らはE子さんの陰毛を剃りおとし、膣に火のついたマッチを突っ込んで、彼女が熱がるさまを見て笑い転げた。
12月2日あたりから、彼らの行為は性的暴力から肉体的暴力に移行していく。つまり殴る蹴る、焼く、などの暴力になっていくのである。
こんな状況をCの両親が気づかなかったはずはない。Cの父親は息子たちが外出した際、妻に「二階がどうなってるか心配だから、見てきてくれない」と頼まれ、これを断っている。また母親は「あの女の子は仲間の不良少女だと思っていました。帰るよう、さとしたこともあります」と証言しているが、「まったくわからなかった」というのはどう客観的に見ても有り得ない話だ。呻き声、悲鳴、少年たちの怒声など、階下に響かなかったわけがない。実際のところはCの暴力がこわいのと、世間体のために押し黙っていたに過ぎないだろう。
E子さんは彼らの仲間内で、「カンキンオンナ」と呼ばれていたという。仲間の暴走族連中が集まった際など、ナンパしにいこう、と言い出した者に、Aは
「ナンパなんかすることねえよ。いま、ひとり監禁してるんだ。よかったら来いよ」
と公言していたらしい。
Cもまた、「俺の家に面白いのがいるんだよ。家に来たらやらしてあげる」
と、あちこちで言っていた。
過度の輪姦により被害者は気を失うこともあったが、少年たちは彼女にバケツの冷水を浴びせ、また犯していたというから異常というより他ない。
そして、最終的には100人近くがこのことを知り、裁判記録に出ているだけで10人近くが強姦等に参加したことになる。あるときなど暴走族の女が面白がって、「化粧してやる」と言ってE子さんの頬にマジックペンで髭を書いたこともあった。
「なんでもするから家に帰して」と哀願する彼女に、彼らは自慰をさせたり、全裸にして「きちがいの真似をしろ」と強制。直径3センチほどもある鉄棒を性器に挿入し何度も出し入れしたあげく、その膣を灰皿代わりに使用した。
12月初め、彼らはE子さんに自宅へ電話させ、「大丈夫だから探さないで」と言うよう強要する。
同月上旬、E子さんが隙を見て警察に通報しようとしたのを発見し、少年たちは激怒した。彼女を殴る蹴るし、ライターで足をあぶって火傷させたり、無理にシンナーを吸引させたりして暴行した。
このあたりから、彼女に加えられる暴力はタガがはずれたようになりはじめる。
12月12日、E子さんは部屋にいた監視役のFに「私はどうなるの? 家に帰れるの?」と問うている。しかしFはそれに対し、「自分はしたっぱだから、わからん」とそっぽを向いた。
これ以降、被害者が受けた暴行は数限りない。全裸でステレオの曲に合わせて踊らせ、全員でいっせいにシャウトの部分で腹を殴る。痛い、と口にするとまた殴られるので彼女が顔を歪めると、Cは「この顔が面白いんですよね」と笑った。
また、肛門に瓶を挿入したり、酒を一気飲みさせたり、雪のちらつく寒い夜に裸でベランダに追い出したり、煙草を一度に2本吸わせ、むせる様子を見て愉しんだりした。
火傷のあとにライターのオイルをかけて点火し、彼女が「熱い、熱い」と言って火を消そうとするのを面白がり、何度も繰りかえしたともいう。E子さんは「もう殺して」と泣いて哀願した。
この頃からE子さんはろくに食事も与えられなくなった。たいてい1日に牛乳1本。たまに気が向くと食パンを1枚食べさせる程度で、連日の暴行と栄養不良により、E子さんはどんどん衰弱し、トイレに行くにも階段を這っておりる有様だった。が、そのうちそれもできなくなり、牛乳パックに排尿するようになった。
連日の殴打に、あるときE子さんが失禁。座布団が汚れたといってまた殴打された。BはE子さんの別人のように腫れあがった顔を(「頬が鼻の高さまで腫れあがり、目の位置が判別できないほど」だったという)見て、「なんだおまえ、でけえ顔になったな」と言って笑った。
翌日、「面白いから、Aにもこの顔を見せてやろう」とその場にいなかったAを呼び出すと、Aはその変わりように驚いたものの、「なぜか負けまいという気になって」自分も殴打。火傷あとに幾度もオイルをかけては焼いた。
また「おまえはそろそろ殺そうかな、いや、やっぱりやめた」などと彼女を一喜一憂させたり、答えられない質問をわざとぶつけて責めたりなどして、精神的にも追いつめている。この時点から、E子さんの表情から感情の波が消えつつある。肉体的にも精神的にも、もう限界を越えていた。
12月下旬、E子さんはもはや牛乳をわずかに飲みくだすのがやっとの状態になった。一日中寝ているだけで身動きもできないほど衰弱し、顔面は腫れあがり、火傷あとは膿みただれた。もちろん風呂にも入れていないしトイレにも行けないから、膿と垢と尿の悪臭で、彼女はもう完全に少年たちの性欲をそそる存在ではなくなった。
ここに至って彼女は完全に「邪魔」になる。そこにもう人間としての尊厳はない。ただの「モノ」であり、「汚物」であった。
1989年1月4日、Aは賭け麻雀に大負けして不機嫌だった。このまま家に帰ってもつまらないので、B、C、Dと合流することにした。なおC宅にはE子さんがいるので、このとき彼らはD宅にたむろしていた。
D宅でちょっとファミコンをして遊んだが、麻雀で負けた鬱憤は晴れない。そこでAは、
「ひさしぶりに、カンキンオンナをいじめてスカっとするか」
と言って、全員を誘ってC宅に向かった。
E子さんはCの部屋で、身動きもできずに仰向けに寝ていた。少年たちは彼女に「Bを呼びすてにした」と因縁をつけ、殴る蹴るしはじめた。
Aは蝋燭を持ち出すと、彼女の顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てた。E子さんは最早ほとんど反応を示さず、されるがままであった。
さらにAはE子さんが牛乳パックに排出した尿を無理に飲ませている。B、Cは彼女の顔面を回し蹴りし、E子さんが倒れると無理やり引き起こして、さらに蹴りつけた。E子さんは身を守ろうとする体力もなかったので、そのまま転倒して室内のステレオにぶつかり痙攣を起こした。
Aはそれを見て「仮病だ」と激昂。
「てめえ、俺の前で仮病使うのか」
そう怒鳴ると、いっそう激しく殴打した。E子さんが鼻血を出し、手足のただれた火傷から血膿がにじみ出たため、「汚い」と言って、自分たちの拳をビニール袋で覆ってからまた殴った。
部屋にはキックボクシング練習器があったので、しまいにはその1・7キロもの鉄球を使って殴った。AはこのときになってもまだE子さんの体にオイルをかけて焼いている。が、彼女はわずかに手を動かして火を消すような仕草をしただけで、そのうちぐったりして動かなくなった。
2時間にもわたる暴行の末、彼らは「飽きて」部屋を出、サウナに行っている。
1月5日、彼らは見張りに残していたFから、E子さんが死んだという連絡を聞いた。死体の始末はどうしようということになり、Aが以前タイル工として勤めていた会社からセメントを調達し、ドラム缶に死体を入れてコンクリートを流し固めた。ドラム缶は江東区の工事現場まで運び、そこに投げ捨てた。
そして、この死体は3月29日になるまで、発見されず放置されることとなる。
警察が逮捕状を持ってC宅に捜査に訪れると、Cの両親は最初のうち抵抗したが、やがて諦めて「弁護士立会いのもとでなら」と中に捜査員を入れた。Cの部屋は壁、床はもちろん、天井にまで被害者の血が飛び散っていたという。捜査員のひとりは、
「人をただ殴っても天井に血はつかない。だらだら血を流している人間の顎をさらに殴り上げるようなことをなんべんも繰りかえしたのだろう」と語った。
この事件が報道されるや、マスコミは争って報道し、国民は少年犯罪のレベルが「ここまで来たのか」と慄然とした。
Cの両親は共産党党員だったので、当初「赤旗」に両親の談話と擁護記事が載ったが、やがて事件の詳細が知れるや、両親は離党し、同新聞には「この事件は日本共産党とはいっさい関係ありません」という一文が掲載された。
写真週刊誌は被害者の水着写真などを載せ、ひどいときには被害者のことを「不良だった」、「加害者たちにナンパされ、ほいほい付いていった」、「加害者の仲間だったが、いじめがエスカレートしただけ」と報道した。中山千夏をはじめとするフェミニストがこれに激昂し「報道のセカンドレイプだ」と抗議。『彼女の悔しさがわかりますか』という本を出版した。
マスコミにもっとも責められたのは勿論、監禁場所を「提供した」と言われるCの両親であるが、特にCの母親が裁判で、
「あの子には家に帰るようすすめました。でもあの子が『いいです』と言ったんです」と証言し、
「脅されていたんでしょう」と検事が突っ込むと、
「認識の違いで、申し訳ありません」
と答えたり、さしたる脈絡もなく「あの女の子は煙草を吸っていた(被害者が喫煙者であったかどうかは未確認。本件とはどちらにしろ関係はない。ただ筆者の私的な意見としては、プラスチック工場でバイトする不良など見たことがないし、「煙草を無理に2本吸わせる」ことを少年たちがいじめの手段として使っていたところからみて、可能性は薄いと思える)」などと言ったりしたことが批判された。のちにCの両親はこの批判的な報道に怒り、弁護士を通じて抗議している。
公判でAは、
「いま思えば、人間だと思っていなかったですけど、そのころは、そういう人間とか、そういうものも考えてなかったです。死んでいるのを見ても、ああ、やっぱりこれがあいつの運命だったんだなぁと思った」と証言。
同じくDは、
「やってるときは、何も思ってないです。(そして、やり終わったあとも)思ってないです」と証言した。
また弁護士の伊藤芳朗氏は、公判で少年Bを担当した一人だが、
「初めて接見した時、Bは『彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない』と開き直っていました」と述べている(もちろん、その後改心し自分の罪に気づいた、という描写がつづく)。
E子さんの母親は少年たちの証言を聞いて激しく動揺し、精神科に頻繁に通院して投薬してもらわねばならない精神状態に陥った。
1990年7月、東京地裁の判決はAが懲役17年、Bが懲役5〜10年、Cが懲役4〜6年、Dが懲役3〜4年。検察側は控訴した。
1991年7月、高裁はAに懲役20年、Bに懲役5〜10年、Cに懲役5〜9年、Dに懲役5〜7年を宣告。また監視役のFを含めた3人を少年院送致とした。
蛇足を承知であえて後日談として記すが、少年法改正について語るという目的で2000年11月28日に放送されたニュースステーションに、Fと、Dの母親が後ろ姿で出演した。
この時点でFは結婚して娘がおり、Dは出所後、自閉的な引きこもりとなって母と姉(事件当時Aの彼女だった)に生活の面倒をみてもらっていた。
放送後、番組掲示板に書き込まれた意見は、7割近くが番組とF、ならびにDの母親の現態度に対する批判だった。
Fに対する批判の内容は主に、彼が淡々と「反省している」と口にしたそばから
「やれと言われて、こわくてやった。仕方なかった」
と言ったこと、他人事のようになめらかな口調で事件の詳細を語ったことや、また「よく平気で結婚し子供を作れたものだ」という意見も多く見受けられた。だが総じて「常識人として極めて正常な反省の言を述べていたようだが、あまりに正論、奇麗事に過ぎ、正直、彼の本当の気持ちなのかどうか疑わしい」という意見が大多数であったようだ。
Dの母親は、
「息子とはほとんど顔を合わせない。事件のことも話さない。まだあの子は事件と向き合う時期に来ていない」、
「どんな形ででも親は子供に生きていてもらいたいですから、私の死後はお姉ちゃんにあの子の面倒をみさせます」、
「遺族の方には謝りに行こうと思ったんですが、拒否されると聞きましたのでやめました」
などの意見が多く非難され、「子供を更正させようという気がまったく感じられないし、親としての事件への反省も見られない」という書き込みが多かった。
なお、主犯Aを除いては全員が出所している。Aの釈放は2008年前後であろうと言われているが、確かなことはわからない。
http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm