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株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu72.htm
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<小6同級生殺害>事件前夜のTVドラマで実行決意
映画やテレビは大衆を洗脳する大変優れた道具なのだ
2004年6月6日 日曜日
◆<小6同級生殺害>事件前夜のTVドラマで実行決意
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040603-00001078-mai-soci
長崎県佐世保市の市立大久保小学校(出崎睿子(えいこ)校長、児童数187人)の6年生、御手洗怜美(さとみ)さん(12)が殺害された事件で、家裁送致された同級生の女児(11)が、県警の調べに「テレビのドラマを見て(殺害を)やろうと思った」と供述していることが分かった。事件前日の5月31日に放映されたミステリードラマで、カッターナイフで人を殺害する場面があったという。女児は4日前にも殺害を実行しようとしたと話しており、このドラマが実際にカッターを使った事件の引き金になった可能性もあるとみて慎重に裏付け捜査を進めている。
このドラマは事件前日の5月31日午後9時からTBS系列で放送された「月曜ミステリー劇場『ホステス探偵 危機一髪(6)』」。女優の水野真紀さんらが演じる東京・銀座の高級クラブホステス3人組が事件を解決する2時間もののシリーズ。この回は、反対運動が起きているマンションの建設を進める不動産会社の社長と愛人が次々と殺され、3人組のうち1人の夫が関与を疑われるというストーリー。
計5人の被害者が路上で襲われ、回想シーンも含めて計8回カッターナイフで切りつけられる場面が放映された。
女児は県警の調べに「このドラマを見た。こんなふうにしようと思った」などと供述したという。
また女児は、1日午後、現場の学習ルームで怜美さんを椅子に座らせてカッターで首を切りつけた際、背後から怜美さんの顔面を手で覆っていたことも分かった。女児は事件の4日前にも殺害を計画していたが「カッター以外の殺害方法も考えていた」とも供述しているという。
動機については「インターネットの掲示板に(怜美さんに)嫌なことを何度か書き込まれ、腹が立った」などと話している。(毎日新聞)
[6月3日15時6分更新]
◆テレビの問題とあり方 02-01-010 伊東 洋佑
http://www.wakhok.ac.jp/~saitoh/literacy-16
最近テレビというものが物凄くいい加減なものだという事をメディアリテラシーの授業を受けて一層わか ってきた。子供の頃はなんの疑いもなしにニュース番組やバラエティ番組など様々なジャンルの番組を見て きて、そしてテレビが大好きだった。その理由としてまずテレビは無料だ。お金を出さなくても気軽に自分 を楽しませてくれる。最新のニュースも知ることができる。スポーツを観れる。音楽も聴ける。なんという ありがたいものだのだろう。
娯楽、最新のニュース、映画、天気予報、英語、イタリア語、ロシア語、ハングル、地理、歴史、物理、数学(ここら辺はNHK教育のほとんどだが)。あらゆるジャンルをカバーしてくれるテレビ。自分にとってテレビはなくてはならない存在だったのかもしれない。まさに完璧なメディアだったのかも。(あくまでも自分にとってだが・・。)
最近のテレビを見ていて感じるのは不要な情報を流しまくっていることだ。別に知りたくもない情報をインスタント的に垂れ流す。低俗な芸能ニュースやスポーツ情報などがそうだ。芸能人が結婚したとか、海外で活躍する日本人選手やら毎日同じようなことを放送する。「タマちゃん」はかわいいがどうでもよいのである。たまに見ていて不快になることもある。視聴率をとらなきゃならないのは分かるがもっと放送するものを選べよと思う。
だが一番の問題はニュースの”バラエティ化"かも。最近変な装飾をしてニュースを報道 するのが目立っている。特に自分が許せないのはメディアリテラシーのかけらもなさそうなタレントにニュ ースをコメントさせることである。おもしろおかしくするタレント。ああいうのを見ているこっちが恥ずか しくなる。ニュースというのはただ情報を提供するだけ。考えて行動しなければ意味がないのである。ニュ ース番組とバラエティ番組を一緒にしないでくれ。
今回のノーベル賞の報道も凄かった。東京大学名誉教授の小柴さんと島津製作所の田中さんが受賞されたが報道されたのは田中さんばかりだった。 小柴さんは東京大学の名誉教授なので当たり前?みたいな雰囲気があってサラリーマンの田中さんのほうが話題性がありマスコミは田中さんばかりを追いかけていた。
田中さんも迷惑だったらしく加熱する報道につ いてもう勘弁してほしいみたいなことをいっていたのを覚えている。そして肝心の研究内容のことは少ししか触れられていなかったな。自分はなぜノーベル賞を受賞したのかもう少し知りたかった。(自分で調べればいいのだが・・。)テレビ番組をみていても抽象的すぎて理解できなかったし、どのテレビ局も同じようなことを報道していた。もう少しきちんと報道して欲しいものである。
最近テレビ番組だけではなくCMも危なくなってきている。その理由はサラ金(消費者金融)のCM。なぜかやたらと多い。若い姉ちゃんがでてきて笑顔でサラ金を薦める。あの”身近さ”が危険だ。がそれと矛盾してテレビでは多重責務問題を取りあげるくせにCMではやたらサラ金のCMを流す。視聴者を馬鹿にしているのか?民放がサラ金の社会問題を取り扱う権利はない。特に子供に対する影響が不安だ。
サラ金のCMを小さい 頃から見ている子供はなんのためらいもなしに手を出しそうだ。一種の洗脳のように。そうなったらテレビ局のせいだ。民間の企業だからスポンサーつかなきゃやっていけない。だが資本主義社会だからといってこのような行為は明らかに視聴者を馬鹿にしているし、社会倫理に反している。もっと責任をもって放送して欲しいものだ。
バラエティ番組の暴力シーンは深刻だ。罰ゲームでみんなでよってたかった袋叩きにする。という内容はいじめに近く過激な内容だったため即放送規制になった。聞きたくもない聞くに耐えない男女の口げんかや若者の価値観を面白おかしく放送するのはやめて欲しい。本当に不快な気持ちになるし、放送しないで欲しい。特にあの火曜日にやる番組は酷い。あれがやらせかどうかわからないが、あんなもの見る気にもならない。だがああいう番組に限って視聴率がとれる。
もしかしたら過激な暴力シーンを求めている視聴者にも責 任はあるかもしれない。バラエティ番組なので有益な情報ははじめから期待などしてない。バラエティ番組のあり方は視聴者楽しませることが大事なのだが、楽しませるために何をやっていいということではもちろんない。そんなことは子供でも分かることだ。
バラエティー番組を細分化していくと様々なものがあるが、特にゴールデンタイムに放送するオカルト番組が嫌いだ。霊能者が悪霊と対決?したりそれがドキュメンタリータッチで書かれておりいかにもノンフィクションだって言う風に書かれているがどこまでが本当で嘘かはまるで分からない。とりあえず怪奇現象や幽霊を扱ったら視聴率を取れるだろう。といった番組製作者の声が聞こえてくるようだ。バラエティに幽霊の話題を扱うなよと思う。不謹慎だ。
テレビはパブリックなものだ。一番影響力のあるメディアだといってもいい。故に資本主義にとらわれずに放送するもの選ばなければならない。テレビはやはり一家団らんで見るという姿が一番にあうのである。製作者側はそういったものを意識して、番組作りをして欲しい。
◆ナチの映画プロパガンダの策略
http://www.cheajapan.com/magazine/hpyohkawa/5-ted.htm
メディアの力を説明するのに、ジョセフ・ゲッペルス博士の作品を取り上げてみよう。博士は1933年から1945年、国家社会党(ナチ)の宣伝担当大臣だった。彼は、ユダヤ人、伝道的クリスチャン、障害を持ったドイツ人やその他のグループ撲滅のために、ラジオ、出版物、映画、そして劇場を用いた。
1994年、ディスカバリー・チャンネルは、ゲッペルスがいかにしてドイツの人々に影響を与え、大量殺人を受け入れさせたのか調査した、重要なドキュメンタリーである「殺戮を売り込む」を放映した。
このドキュメンタリーは、大多数のドイツ人が安楽死(これは殺人の婉曲表現)に反対だった時に、ゲッペルスが「私は告発する」という題名の、感情に訴える、長編映画を作ったと伝えている。美しい、知的な女性が不治の病にかかり、死にかけていて、自殺させて欲しいと願うという作品である。その映画が上映されると、大多数のドイツ人は、「考えが変わった。
今では安楽死に賛成だ。」と言うのである。もう数本、ゲッペルスの病弱者や障害者についての映画を見ると、ドイツの人々は、大量安楽死(大量殺人)の強い信奉者となってしまった。残虐行為を受けるのは、ユダヤ民族だけに留まってはいなかった。焦点を当てていたのは、精神的、肉体的に障害をもつドイツ人だったのである。
1939年、ヒットラーは「生きる価値の無い命」とレッテルを貼って、精神的、肉体的障害者を殺すよう命じている。彼の論理は、彼らを保護施設や病院で生かしておくのにお金が掛かりすぎるというものだった。しかし、本当の理由は、より優秀な民族を作り出すという考えに脅威となるものは何でも消し去るという政府の決定によるものだったのだ。
歴史家のポール・ジョンソンは、次のように書いている。「ヒットラーは、いつでも目に訴えるイメージとして政治にアプローチしていたようだ。ヒットラーは今世紀最も過激な罪、すなわち社会工学という人間をコンクリートのようにシャベルで掬う概念の実践者だ。いつでも芸術的な次元がこれら悪魔的企みの中に存在した。芸術的なアプローチは彼の成功に中心的役割を果たしたのである。ドイツ人は当時、世界で最も教養のある国民だったが、彼らの心、情緒に働きかけるのはいたって簡単なことだった。」
ヒットラーは、新しい世代の人々をコントロールするため、ニュース映画や、その他の映画を用いて彼らを洗脳していた。ゲルハード・レンペルは、次のように書いている。
「毎日毎日、ニュース映画に始まり、さまざまな訓練が後に続いた。日曜日の朝は、イデオロギー的なプログラムが教会の礼拝に取って代わり、日曜の午後は、映画のために空けておかれた。」
ナチの映画の使い方と、中絶、それから安楽死のテレビ番組の類似性には恐るべきものがある。ディスカバリー・チャンネルによるナチのドキュメンタリーが放映される2週間前、あるネットワークテレビの番組が現代行なわれているオランダでの医師による患者の殺人を検討した。オランダのこれらの、患者の大量殺人の正当化は、「殺戮を売り込む」に於けるナチのプロパガンダにあまりにもよく似ていたのだ。(つづく)■
(私のコメント)
6月3日の日記でネットが子供に及ぼす影響について書きましたが、それよりもテレビや映画の影響も大変大きかったようだ。昨日の日記でも書いた『ユダヤ人ホロコースト映画はなぜ作られる』でも書きましたが、大衆を洗脳してしまう道具としてはテレビや映画は大変優れた道具だ。ナチスドイツの宣伝相のゲッベルスは映画などを効果的に使用してドイツの大衆を洗脳してしまった。
ハリウッドのユダヤ人たちもそれを真似てユダヤ人ホロコースト映画を作り続けて世界を洗脳し続けているのだ。それらの多くは生き残ったユダヤ人の証言などを付け加えて真実として伝えられる。しかしそれらの証言を収容所の図面から見るとありえないことだったり、物的な証拠もなかったりする。よく雑誌のコマーシャルなどで体験者のメッセージが付け加えられていますが、20キロ痩せたとか、10センチ背が伸びたとか言うコマーシャルですがみんな嘘だ。
長崎小6同級生少女殺害事件もネットのほかに『バトルロワイヤル』という映画や、前日のテレビドラマでカッターナイフを使った殺人事件が少女の殺人動機に大きな影響を与えているようだ。もちろんそれらをすべて禁止にしろという問題ではない。ネットや映画やテレビが無かったとしても低年齢犯罪はなくならないだろう。しかしこのままでいいというわけではない。
例えばネットの掲示板の管理者は問題がありそうな書き込みは注意するなり削除することが必要だ。映画やテレビなどでの問題がありそうな作品は子供の視聴制限や、注意などを促すべきだろう。特にテレビ番組はどの家庭でも只で見られるだけに、視聴者による管理が必要だと思えるのですが野放し状態だ。
私なども日記で酷いテレビ番組に対しては批評していますが、テレビ局側はまったく聞く耳持たずで視聴率第一主義になっている。今回のような殺人事件が起きた時にだけ少しだけ放送を延期したりしていますが、しばらく経てば元の木阿弥でエログロナンセンス路線に逆戻りする。テレビコマーシャルもサラ金のCMがやけに目立つようになり、批判されているのにテレビ局側は自粛の気配はない。
映画の「バトルロワイヤル」にしても私は見た事はないのですが、青少年殺人を煽るような内容は大変ショッキングなストーリーだ。この映画は15歳以下は見れないはずの映画ですが、殺人事件を起こした少女は12歳でこの映画を見ている。「バトルロワイヤル」の映画評で次のように書いている人がいるが、創作と現実とが区別つかない子供にはやはり有害だと私は思う。
◆バトルロワイヤル
http://www.ne.jp/asahi/hoth/press/other_films/pics/battleroyal/battleroyal.htm
『BR』の上映反対派からは、「子供たちが映画を見てそれを真似ると困る」という意見が出た。子供たちを恐れる大人。まさに、『BR』において、BR法を制定した大人たちそのものであり、こっけいですらある。仮に『BR』を見て、それを真似して、殺人を犯してしまった中学生の少年がいたとする。だとすると、それは映画に責任があるのか? もし、映画に責任があるとすれば、その少年はその暴力的映画を見さえしなければ、まっとうに生きていけるのか。
あるいは、映画を見る前は全くおとなしく普通の少年であったのが、映画を見ただけで凶暴化して、分別がつかなくなり殺人を犯したということなのか。そうではないはずである。もし、『BR』を見て殺人を犯す少年がいたとしたら、その少年は『BR』を見る以前から、心に何らかの問題を抱えていると言えるのではないだろうか。それを早く発見し、何とか対応するのが大人の役割ではないのか。どうすれば、早く発見できるのか。『BR』を親子でそろって見ればよい。そして、その映画について語ってみてはどうか。
「一番好きなシーンはどこだった?」と聞いて、「鎌で喉を切って、血しぶきが吹き上がるシーン」と答えるようなら、かなり注意が必要かもしれない。しかし、実際はそうでない子供たちの方が圧倒的に多いはずだ。登場人物に共感して涙をこぼす子供であれば、人を刺す心配などないだろう(ちなみに、私は三回泣いた)。