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あと自称右翼の在日韓国人徐裕行によるオウム「科学技術省長官」村井秀夫刺殺なんてのもありましたね。
http://www.asyura2.com/0403/nihon13/msg/1030.html
投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 8 月 05 日 07:16:39:WmYnAkBebEg4M
 

(回答先: オウムにまつわるキーワード。 投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 7 月 31 日 07:34:58)

あと自称右翼の在日韓国人徐裕行によるオウム「科学技術省長官」村井秀夫刺殺なんてのもありましたね。


1995年4月23日

 オウム真理教村井刺殺事件で、村井を刺殺した徐が犯行直前まで住んでいた家の所有者である女性の姉とかつて同居していた相手は、実は北朝鮮の大物スパイ、辛光洙(シンガンス)であった。
http://boboro-web.hp.infoseek.co.jp/bd203histry.htm


サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 前編
http://page.freett.com/senmon/hantou/kitachousen/oumu_kita09.html


「オウムと北朝鮮」の闇を解いた9

(週刊現代 1999年10月15日号)
サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 前編−村井秀夫はなぜ口封じされたのか
高沢皓司(ノンフィクション作家)

犯人の徐裕行は、逮捕後、「上祐、青山、村井の3幹部のうち、誰でもよかった」と供述していた。だが、これは明らかな嘘だった。やはり、村井こそを抹殺しなければならない、相当の理由があったのである。そこには、これまでの報道からは想像もできなかった、恐るべき国際陰謀が隠されていた---。
村井だけを待ち続けた暗殺者

「あの事件だけは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の仕業だ」

関係者のほとんどすべての人間が、口を揃えて同じことを言う。法曹関係考、マスコミ、捜査関係者、再検証のために取材で接触した事件の周辺の人々。しかし、その「真実」はこれまで噂の領域を出ることはなかった。どこかで、真相が意図的に隠蔽されている、この事件にはそんな印象が圧倒的に強い。

その事件とは、オウム真理教一連の事件のなかでも、もっとも不透明で謎に満ちた、村井秀夫刺殺事件のことである。村井「オウム真理教科学技術省」長官はなぜ殺されねばならなかったのか? 事件直後から噂が飛び交ったように、刺殺事件は村井にたいする口封じだったのだろうか? ただ、それだけだったのだろうか? 実行犯・徐裕行の背後には、事件直後から暴カ団関係者の介在と、北朝鮮工作組織の影が色濃く噂されてきた。

オウム真理教の一連の事件を、北朝鮮工作組織との関係のなかで再検証しようとするこの連載のなかで、この村井刺殺事件はどうしても避けて通ることのできない事件のひとつである。さらに言えば、オウム真理教の一連の事件の背後に横たわる、これまで明らかにされてこなかったもうひとつの隠された真実を解明する、重要な手がかりを与えてくれる事件であった、と言うこともできる。

事件の再検証をはじめるにあたって、あらかじめ述べておきたいのだが、一回の記事だけではそのすべてを書き尽くすことは難しい。何回かにわたって作業をつづけるが、この事件が、それだけ深い闇と陰謀に彩られているのだ、ということだけは冒頭に述べておいてもいいだろう。

事件が起こったのは1995年4月23日、地下鉄サリン事件から、ほぼ1ヵ月後。東京・南青山にあった「オウム真理教総本部」前、多くの報道陣、関係者、さらに衆人環視の真っただ中で引き起こされた事件だった。

事件前日の4月22日朝、徐裕行は足立区の自宅を出てタクシーを拾うと、まもなく運転手に、「ここらへんで包丁が買えるところはないか」と聞いている。近くの金物屋で刃渡り20?の包丁を買った。値段は5000円だった。

その足で南青山の教団総本部前を下見。渋谷に出て喫茶店に入り、アイスミルクを注文。しばらくして店を出るが、すぐに同じ店に入り、夜まで時間を潰す。その夜は渋谷・道玄坂のラブホテルにホテトル嬢と泊まった。

翌日午前11時、そのラブホテルをチェック・アウト、南青山のオウム真理教総本部前に到着したのは、それから約20分後のことである。近くのコンビニでパンを買い、ふたたび総本部前に。それから約9時間、徐は本部前でじっとひとりの男がそこから出てくるのを待ちつづけた。この間、徐がその場を離れたのは、夕方になって近くのラーメン屋に入ったときだけである。辛抱強く、この暗殺者はただひたすら「男」の出てくるのを待っていた。つまり、科学技術省トップ・村井秀夫が彼の前に姿を見せるのを、である。

彼がたったひとりの男、村井を待ち続けている間に、午前11時26分、上祐史浩緊急対策本部長が外出先から教団本部に戻ってきた。徐の前を通り過ぎるが、彼は手を出さない。徐が本部前に到着して数分後のことである。

午後2時38分、これも教団の幹部だった青山吉伸弁護士が外出先から総本部へ戻ってくるが、徐は動こうとしない。その10分後、ふたたび上祐が外出のために姿を現す。しかし、徐は今度も動こうとしない。

そして夜8時36分、村井秀夫が教団総本部かち姿を現した。この日、村井は普段つかっていた通用口が閉まっているのを知って、本部の正面玄関に姿を見せたのである。徐裕行の身体がゆっくりと動いた。手にしていたアタッシェケースから包丁を取り出すと、ゆっくりと向きを変えた。テレビクルーのまばゆいライトの中へ暗殺者は平然と入っていった。村井の腹部に、買ったばかりで値札がついたままの包丁が突き刺さっていったのは、その数秒後のことである。
大きな隠すべき真実が存在した

犯行後の徐は、興奮した顔色を見せるでもなく、平然と立っていた。駆けつけた警察官に身柄を押さえられても終始、その態度は変わらなかった。任務を果たし終えた暗殺者の、充実感と虚脱の中にいたような印象を受ける。

この経過から、はっきりとすることは、暗殺者・徐が明らかに上祐でも青山でもなく、ただひたすら村井秀夫ひとりをターゲットにしていた、ということだった。 逮捕直後の供述で徐裕行は、

「自分ひとりで考えてやった。テレビでオウムの報道を、見て義憤にかられた。このままオウムを放置しておくと危険だと思い、誰でもいいから幹部を痛めつけようと思った」

と言っている。しかし、この供述を信用した人間は、捜査関係者のなかにも誰一人としていないだろう。誰でもよかったというのは、明らかに事実と違う。 犯行後しばらくして、徐は所属団体について供述を変える。

「所属団体は伊勢市の神洲士衛館」

右翼団体である。しかし、この政治結社はなんの活動もしていなかった。前年、'94年の10月に三重県選挙管理委員会を通じて自治省に政治団体の設立届が出されてはいたが、街宣車もなく、事件の5日後には解散届が出されていた。

さらに供述は、

「山口組系暴力団・羽根組(三重県伊勢市)幹部の上峯憲司から指示されたものである」

という内容に変えられた。警視庁は事件から20日ほどたった5月11日、羽根組幹部上峯憲司の逮捕に踏み切る。

しかし、上峯憲司の公判廷は一審、二審とも無罪。 裁判所は次のような判断を明らかにした。

「徐の供述には主要な点で不自然、不合理なところがある。……被告(上峯)が徐に殺害を指示したのであれば、それは絶対に組との関係が明るみに出ないように配慮すべき極秘指令であるはずである。刑事責任を免れようともくろんでいた被告が、わざわざこのような指示をする合理的な理由は見出しがたい。……(犯行を指示されたとする)日付に関する(徐の)供述変遷も非常に不自然で、被告からの話が徐にとってはさして重要なことではなかったのでは、との疑いをぬぐえない。……徐の供述には重要な疑問点があり、ほかに被告の犯行への関与を推認させる有力な証拠もない……」

ここで裁判所が示した徐の供述にたいする疑問は、この事件の経過を検証したときに、まったく正当なものである。上峯は、この村井秀夫刺殺事件に、どうやらまったく関係していない。では、なぜ、徐は「指示された」という供述をし、羽根組との関係を強調したのだろうか。

私がたちどころに思い当たる理由は、ふたつである。ひとつは取り調べにあたった捜査員による誘導。この「誘導」は、これまでにもいくつかの事件で大きな問題になったケースがある。人は自ら納得のいく絵しか描かない。逮捕直後の徐の供述、単独犯説に捜査陣がごく普通に疑問を持ったときに、この供述を引き出す土壌は用意されていたと言えるだろう。

さらに、もうひとつ、徐がなぜその誘導にのったのかという点については、テロリスト・徐裕行に、もっと大きな隠すべき真実と事情が存在していた、ということにほかならないだろう。

大きな隠すべき真実の前で、人は小さな嘘を罪の意識なく平然と言ってのけることができる。言葉で説明をはじめると何万言も費やさなければ、この事情を説明し切ることは容易ではないのだが、私は「よど号」のハィジャッカーたちの嘘と北朝鮮の虚構を解読する作業のなかで、なんどとなく同じようなケースに遭遇した。暴力団関係者に指示を受けた、という当局の誘導は、実行犯・徐裕行にとって、天の助け、とも思えたはずである。

さて、では徐が本当に隠したかったことは何であったのか?
親友の父親は朝鮮総連幹部

実行犯・徐裕行の背後には、明らかに北朝鮮工作組織の影がある。

私たちは、あらためて徐の生い立ち、周辺の事情を再検証した。関係者の話もできるかぎりの範囲で、あたり直した、さまざまな側面と複雑な背景、事情が浮き彫りにされてきたが、それらのひとつひとつをここでレポートしている余裕はもちろん、ない。私が知りたいのは、そして明らかにしておきたいのは、背後で蠢く北朝鮮工作組織の関わりだけである。

徐の背景には、いくつかのあからさまな北朝鮮工作組織の人脈が配置されている。

東京・五反田のコリアン・クラブ「M」に徐が何度か顔を出していた、という話。ここのママの姉にあたる人物が、北朝鮮の工作員・辛光洙と同居していた人物であるという事実。また、この店のママの所有していた家屋に、徐が仲間3人と同届し、住民票を移していたという事実。

しかし、これらの複雑に絡みあった事実の背後に、なにかが潜んでいるという予感はあるにはあるのだが、どうやら、それらはこの事件の本筋ではない、という印象がつきまとう。

「M」のママはこう証言する。

「徐のことでは、うちは大きな損害を被った、事件が発覚するまで、徐の名前も知らないし、顔も見たことがなかった。店にも来たことはないですよ。
空き家になっていた世田谷の家を、Mという息子の友人に貸していたのは事実です。家賃は10万円でした。それがひとりでは家賃を払いきれないというので、もうひとり、Tという友人と二人で借りたいと言ってきた。断る理由もないでしょう。ところが徐のことになると皆目わかりません。あとから、MとT二人のうちのひとりが、徐を連れてきた、ということを知りました。しかも、住民票まで移していた、という……。
おかげで、世田谷の家がテレビに映し出されるわ、マスコミの人たちが押し寄せるわ、大変でしたよ。住民票が移されていたお陰で、大変な目にあいました。わからないことばっかりです。逆になにかに利用されたのかもしれません。公安が流した情報が書いてある雑誌をもって、公安が聞き込みにくる。マッチポンプみたいなものですよ」

しかし、さらに取材と検証をすすめる過程で私たちは、徐が一緒に住んでいた友人Mの父親が、朝鮮総連の幹部だったという事実に突き当たった。さらにタクシーの運転手をしていた徐の父親もまた、朝鮮総連と関係の深い人物であったようである。

しかし、だからといって、これらの登場人物が、徐の犯行の背後に直接なんらかのかたちで関係しているということはできない。ただ、私はこうした事実の積み重ねのなかで、徐裕行の生い立ちにおける北朝鮮との深い関わりを見る。
北朝鮮へ渡った形跡がある

徐が世田谷で同居していた友人のひとりTは、その後別の事件で逮捕され、村井刺殺事件との関係を追及されている。そのTの弁護士の話は、大変興味深いものだった。

−−徐は朝鮮学校の出身だという話があるのですが。

「そのはずです」

−−足立区の工業高校出身という話もあるのですが。

「それは違うでしょう」

−−親しくしていた友人のひとりの父親が、朝鮮総連の幹部だった、ということについてはどうでしょうか。

「あっ、やっぱりそうでしたか? じつはね、われわれもあの刺殺事件の裏には、なにかが絡んでいたのではないかと考えていたんです。いろいろな状況から考えると、ほぼ90%はそうではないか、と」

−−具体的には?

「上峯の裁判についてはご存じですね? 徐は他の誰かの名をかたることによってカモフラージュしたんだと思いますよ。私も函館(刑務所)に行って徐に会ってきましたが、凄い形相で睨みつけるような表情をしていた。大胆でしたたかな人物ですね。出廷したときも裏の関係については発言を拒否した。なぜ拒否してなにも言わないかというと、彼は役目を終えたからだと思います。目的を果たした以上、しゃべる必要はない。それに一度、上峯の名前を出してしまっているしね。
ただ、まだ言うことができないことがたくさんあるんですよ。いずれ、あきらかにしなければならないことだとも思いますが……」

徐の背後関係について、誰もが確信めいた疑惑を持っている。しかし、そのことは深い闇のなかに封印されたままで、あからさまに語ることを誰もが躊躇する。

しかし、ここで私は、こうした回りくどい言い方をやめて、はっきりと書いてしまいたい。徐裕行は、北朝鮮工作組織の関与のなかて、村井刺殺という犯行におよんだ、と。いくつかの傍証は、これから徐々に出していくことができるだろう。

ただここでひとつだけ明らかにしておけば、徐の経歴のなかで、一時期、まったく足取りがつかめない空白の部分が存在する。高校中退後からイベント関係の会社を設立するまでの数年間の空白である。この空白の数年間、そのうちの大部分を彼は北朝鮮に渡っていた形跡があることである。そこで、彼は北朝鮮の思想と工作の技術を学んだのではないだろうか。

くり返すことになるが、この訓練と工作技術を学んだ人間は決して、自分の思想性を表面には表さない。それが金日成主義の原則であるからである。そして秘めやかに地下活動に従事する。工作員が自分の思想性を露にしてしまえば、それはもはや工作員たりえない。

徐裕行も、イベント会社を設立してからの友人たちの描くプロフィールのなかに、微塵もその思想的な側面を滲ませていない。政治の話などしたことがなかった、という証言だけが集まってくるのである。

しかし、その徐が、事件の数週間前から突然、「オウムには気をつけろ」と語りはじめた、という証言が複数得られている。このとき、徐はすでに、ある密命を帯びていたと考えるのが分かりやすい。
北朝鮮が危惧した「秘密」の暴露

渋谷・道玄坂。事件の前日、徐は上峯被告と連絡を取り合ったことになっているが、北朝鮮工作員のやり方として、これはきわめて不自然なもの。にうつる。北朝鮮工作員のやり方から見て、すぐに足のつくような電話や接触による連絡などは、取るはずがないからである。

徐は犯行直後の供述で、

「自分の考えでやった」

と、単独犯行を匂わせる供述を行っている。私には、むしろこの供述のほうに、半分の真実が隠されているように見える。なぜなら金日成主義の工作員は、獲得すべき任務の内容を指示されるが、その具体的なノウハウについては、通常、指示を受けないものであるからである。そのために高度な工作技術−−破壊工作の技術であれ殺人のための技術であれ、領導芸術と呼ばれる誘導の技術もふくめて、高度な訓練を受ける。自分の思想性、主義主張を隠したままで、実質のともなった工作を完了するために、この訓練は必須である。徐はその意味で、きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員であったのである。彼の並はずれた忍耐力も、それを証明している。

では、なぜ村井秀夫だったのか?

ようやくこの謎を解くことをはじめなければならないだろう。

'95年4月、事件の数日前に村井「才ウム科学技術省」長官は、テレビに出演し、次のようなことを語っている。

「使える金は1000億ある」

「地下鉄事件で使われたのはサリンではなく、別のガスだ。アメリカの研究所もそのことを証明してくれる」

この放送を聞いていたある関係者は、一瞬、身が凍ったという。村井が秘密にせねばならないことを話してしまうのではないのか、と。

村井は、周辺の人間の印象として、ひどく生真面目で、誠実な人柄だった、という証言がきわめて多い。それは村井という人間の気の弱さをも象徴しているだろう。

「村井がしゃべってしまう」

その危機感をオウム幹部の誰もがいだいた。そして、その危慎をいだいたのはオウムの幹部たちだけではなかった。オウム事件の背後に蠢く北朝鮮工作組織も、そのことにきわめて強い危惧を持っただろうことは想像に難くない。まさに村井が話し出したふたつの事がらは、先週号で指摘した、偽ドルを含むオウム真理教の資金ルート、さらにはサリンの入手ルートにつながるものだった。 そして、さらに、それらふたつ以外に、現在にいたっても秘匿されたままの第三の秘密、どうしても隠し通さなければならない、さらに深い秘密につながっていくものだった。その第三の秘密に村井がふれかねない危慎を、北朝鮮側にもいだかせるものだったのである。

(文中敬称略、以下次号)

■取材協力 時任兼作、今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)
 
 
 
サリン開発の責任者だった「化学技術省」刺殺事件の全真相 中編
http://page.freett.com/senmon/hantou/kitachousen/oumu_kita10.html


「オウムと北朝鮮」の闇を解いた10

(週刊現代 1999年10月22日号)
サリン開発の責任者だった「化学技術省」刺殺事件の全真相 中編−村井秀夫が極秘指令「原発の機密をスパイせよ!」
高沢皓司(ノンフィクション作家)

村井刺殺犯の徐裕行が、高度に訓練されたテロリストであることは、先週号で指摘した。では、村井はなぜ口封じをされなければならなかったのか。その謎を解くカギとなる驚くべき事実があった。村井は信者たちに、日本各地の原発に労働者として潜り込み、スパイ活動を行うように指示していたのである。
村井が口をすべらせかけた秘密

あまりにも多くの謎に満ちた、オウム真理教「科学技術省」のトップ・村井秀夫刺殺事件。

実行犯・徐裕行は逮捕後の取り調べで、上祐(史浩)でも、青山(吉伸)でも誰でもよかった」と供述している。

しかし、当日の徐の行動を詳細にたどってみると、この供述には多くの矛盾点が浮かび上がる。やはりこの暗殺者は、ターゲットを明確に村井秀夫「科学技術省」長官に置いていた。

では、なぜ村井秀夫だったのか。.村井でなければならなかったのか?

刺殺事件の直前にテレビに出演した村井が、ふたつの重要な秘密について口をすべらせかけたことは前回の記事の中でも述べた。つまり1000億円という途方もない資金の所在についてと、地下鉄サリン事件で用いられた毒ガスは、じつはサリンではなかった、という驚くべき証言である。

教団武装化を推進しはじめたオウム真理教の資金源に、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のからむ偽ドル疑惑があることはこれまでにも指摘してきたが、第二の「サリンが、ほかの毒ガスか」という疑問については、もう少しだけ言葉を足しておかねばならないだろう。

村井は、地下鉄の毒ガス事件で使われたガスの種類について、「サリンではなく別のガスだ。アメリカの研究所でもそのことを証明してくれるはずだ」

と、確信をもって話している。この言葉が本当に意味していたのは、どのような内容だったのだろうか。

1994年6月27日、長野県松本市、午後10時45分、突然散布された毒ガスで住民はパニックに陥った。

蒸し暑い夜で、窓を開けたまま眠りに入ろうとしていた人も多い。この事件では窓が開けらかていたかどうかが、生死の分岐点になっている。マンションの窓を開けたまま眠りに入ろうとしていた住民は、そのために命を落と.したのである。この毒ガスは、空中を漂い、広がり、薄められてなお人の生命を奪った。その毒性が、きわめて強力だったことを、この「松本サリン事件」は教えている。
別の「製造元」のサリンか?

その事件発生の1時間半くらい前、事件の現場から250mくらい南西に位置する開智2丁目付近で、帰宅途中の会杜員は奇妙な光景を目撃した。「銀色の宇宙服のようなものを着ていました。夢を見ているようで、不思議な光景でした」

この銀色をした宇宙服のようなものが、毒ガスに対する防護服であったことは明らかだが、このことは毒ガス(サリン)散布の実行犯たちが、あらかじめ毒ガスの強力な毒性について、正確に認識していたことを示している。

純粋なサリンは常温では液体状だがきわめて揮発性が高く、ほぼ瞬時に拡散してしまう。その霧粒が呼吸器に入るとほぼ即死状態に近く、一粒の霧粒が肌に付着しただけでも、毛穴から体内に浸透し数十分以内に死亡する、とされている。

ところが、翌年3月20日に引き起こされた東京での「地下鉄サリン事件」では、複数の実行犯の誰もがこのような防護策を講じていない。さらに、散布方法についても傘の先で「サリン」を入れた袋を突き破るという杜撰な方法がとられている。 また地下鉄車内の床に濡れたような痕跡すら残している。地下鉄の車内およびプラットホームという閉鎖空間では、松本サリン事件の例からすると、さらに被害の規模は大きくなるはずだった。

ところが、数千人にのぼる被害者を出したとはいえ、地下鉄の事件では、その規模と程度には大きな隔たりがある。このことから分かることは、地下鉄事件で使用された毒ガスが、世間一般に伝えられているように「サリン」ではなく、まったく別種の毒ガスであった可能性が濃厚なのである。それがVXガスあるいはタブンなどの別種の毒ガスであったのかは、村井の口が封じられてしまった以上、オウム真理教側から証言をするものは誰もいない。

しかし、少なくとも事件の状況から見ただけでも、松本市で散布された「サリン」と、地下鉄事件で使用された「サリン」は、まったく別の製造元でつくられた、あるいは純度に大きな隔たりがあった、と考えられるのである。

刺殺される直前に、村井が語りはじめた、

「まったく別のガスだ」

という言葉は、そのことを指し示していた。

しかし、村井はそのことの詳細を語ることなく、一命を落とした。なぜなら、オウム真理教内で「サリン」製造責任者だった村井のその発言は、さまざまな不都合を関係各方面に呼び起こすことになるからだ。

製造元が違うということが明らかにされれば、その製造元がどこか、どこの国かが問題にされるだろう。これは、当の製造国だけにとどまらず、日本政府にとっても利害関係は奇妙に一致していた、と考えざるを得ないのである。

それが国内で製造されたものではない、とされれば、製造国、搬入ルート、入手ルート、さまざまな部分が一挙に複雑になり、国際謀略の壁にぶつかってしまうことは必至である。オウム真理教第7サティアンのサリン・プラント設備では、高純度のサリン製造が不可能とされつつも、この問題が曖昧な形で封印されているのは、どうやらそのあたりに原因がありそうである。村井の発言は、その封印されるべきストーリーを一挙に解きかねない危険性を持っていた。
専門家も「すごい資料だ」

しかし、村井が知っていた事実、語りすぎてしまうかもしれなかった事実はオウム真理教「科学技術省」トップという彼の立場を考えたときに、偽ドル、サリンだけにはとどまらず、さらに深い第三の秘密まで白日のもとにさらけ出す危険性を、じつははらんでいたのである。

ここに取材班が入手した、膨大な機密書類の束がある。 一枚一枚をめくっていくと、さまざまな図面、設計図、人員配置表、各種のメンテナンスのマニュアル、作業工程表などが混在しているのがわかる。表題の打たれていないものも多いが、いくつかの文書には次のような文字が見える。

「原子カプラント定検および増設・改良工事」
「原子カプラント主要工程表(社外秘)」
「5号機R/B地階サーベイ記録」
「原子炉PCV全体図」
「原子炉班体制業務分担表2号機」
「標準部品表示基準」

実はこの書類は、現在稼働中の日本の原発についての、膨大な機密書類の束なのである。われわれが入手したのは、東京電カ福島第一原発、同第二原発と、中部電力浜岡原発(静岡県)、さらには、石川島播磨重工業原子力事業部などの研究施設のものだ。いずれも公開されているものではない。書類は、原子炉のボルトの位置、管の口径、内寸、メ一ターの位置、全体図におよぶ。

民間の原発監視機関でもある原子力資料情報室(東京)の上澤千尋氏に、いくつかの資料を見てもらい、コメントを寄せてもらった。「これはすごいですね。一般公開されているものでは、ここまで詳しく書かれているものはありません。しかし、これには部品の材料配分、どういうステンレスを使っているかが明記されています。私もはじめて見ました。

また、ここに含まれている詳細な検査記録のようなものは、情報公開の対象にもなりません。なぜなら、検査をして問題がなければ、問題がなかったという事実だけが重要であって、作業工程や数字を公開するのは意味がないという孝え方からです。もちろん、それは原発側、企業側の言い分なんですがね」

一般の目にふれる原発関係の資料は、重要な部分はすべて真っ白なのだという。原子力資料情報室の所有する資料でも、枠取りだけが印刷されて、各原子力発電所の次のような文面の判が押されているものが多い。『この資料はメーカーの未出版特許情報、ノウハウ等の機密情報を含んでおりますので、該当部分については非公開とさせて頂きます』と。

「要は、企業秘密なんですよ。寸法、計算プログラム、設計図面、材料の分量などは、すべて“白ヌキ”の対象になるんです」

さらに目を通してもらう。

「これはBWR型。(東芝・日立・石川島播磨の3社産業グループのつくる沸騰水型原発)のものですね。作業過程のチェック・シートとか運転記録などは、運転技術レベルの低い国にとっては非常に参考になるでしょう。
この資料を見ただけで、いつ、どこで、どの原発がどのような処理を施されたかがわかります。その上、配管とバルブの位置もわかります。どのバルブがどれだけ腐食していたのかが、記録に残っています」

どうやら、かなりの機密資料であることだけは間違いがなさそうである。

出所を明らかにしてしまえば、これらの機密書類は、オウム真理教の中から出てきたのである。

オウム真理教「科学技術省」では、組織的に原発の機密資料を入手しようとしていた。'90年代のはじめ頃から、常時、各地の原発に下請け要員などの資格で作業員を潜入させていた。オウムの信者たちは、下請け作業員として各地の原発をまわり、あるいは研究員を教団に勧誘することを行っていた。そして、これらの原発、原子炉についての機密データの収集を命じたのは、他ならぬ「科学技術省」長官の立場にいる村井秀夫だった。
「カルマが落ちる」と言われ

当時、その村井の指示のもとに、原発作業員として各地の原発に潜入していた元オウム信者の、次のような証言がある。

「ある時、村井さんとの雑談のなかで原発の話が出ました。私が原発で仕事をしたことがあると言うと、
『今度、行くときにはどんな資料でもいいから持ってこい写真もとってこい、これはいいデータとして使える。持ってくれば、カルマが落ちるぞ。救済につながるから、頑張れ。行くときが決まったら直接、私に連絡しろ。具体的な原発の名前と仕事の内容も知りたい』
と言われました。
原発は意外と管理が甘くて、資料などを外部に持ち出すことや出入りも簡単でした。
私は結局、次に行く機会がなくて駄目でしたけど、村井さんはほかの信者にも、『原発に働きに行く人間はいないか』
と聞いたりしていました。
原発で働くと給料がいいものですから、それだけ教団に多くのお布施もできるのです。
私には原発のなにが役に立つのか、参考になるのか、まったくわかりませんでしたが、村井さんは、
『オレは専門だから、たいていのことは見ればわかる』
と話していました。
これは、別の信者の話ですが、ある信者が。『科学技術省』のスタッフに原発から持ってきた数枚の資料を渡したときに、
『よくやったぞ。功績があれば、ステージもあがるぞ』
と村井さんに言われたそうです。
村井さんは亡くなる3〜4ヵ月前にも、
『原発にはもっと人を送ってもいいな』
と言っていました」

原発で働いていたもうひとりのオウム信者の証言は、さらに衝撃的である。

「オウムから原発に働きに行っていたのは、200人はくだらないですね。
きっかけは山口県の信者でUさんという人が、人材派遣業をやっており、その会社が原発からの仕事を受けていたからです。当時、信者の間では、お布施がたっぷりできる仕事がある、と噂になっていました。それが原発でした。近所の安いアパートとか下宿に泊まり込みで、仕事をします。一度行くと、3〜4ヵ月働きました。給料は月に40万〜50万円くらいになりましたね。
Uさんは全国各地の原発に多くの人間を送り込んでいました。原発は、意外なことに管理がいい加減で、資料のコピーもとり放題でしたし、施設内の出入りも自由。原発の中心部のプールも、写真撮影できると思ったほどでした。
また、その気になれば爆弾を仕掛けるくらいのことはいくらでもできました。金属探知機はあるにはあるのですが、プラスチック爆弾なら問題はないですし、そんなことをしなくても、金属探知機を通るときには、荷物は探知機の横からいくらでも手渡しできましたから。
私は上く配管検査をやらされましたが、最初に赤い液体を塗ってから、次に白い液体を塗って配管の不備を調べます。ほんとうは資材とかが必要な部分もあるのでしょうが、まったく要求されたことはありません。
もし、麻原がそのことを知り、目をつけていれば、大変なことになったのではないでしょうか」
資料が北朝鮮に流れた可能性

取材班は、この証言のなかにでてきたUという人材派遣会社および科学機器検査会社の社長であり、もとオウム信者とされている人物に何度か連絡をとろうとしたが、現在までのところ行方が不明である。しかし、ここに紹介した元オウム信考の証言と手もとの機密書類の束だけでも、オウム真理教が各地の原発の機密資料収集に手を染めていた事実は疑いえないだろう。

9月末に茨城県東海村で起こった核燃料の臨界事故、その数日後にとなりの韓国・慶尚北道で起こった月城原子力発電所3号機の事故と同じような事件が、オウムの言う「ハルマゲドン」として実際に引き起こされたとしても不思議ではなかったことを、この事実は教えている。

しかし、オウムはそのことを実行に移さなかった。このことはすべての資料と情報が村井「科学技術省」長官のもとに、留め置かれたことを示している。

なぜか?

村井は、これらの資料を大量に収集し、どのように使おうとしていたのだろうか。ここで、思い出さねばならないのは、村井が早川紀代秀「建設省」長官とともに、たびたびロシアに出国していたという事実である。

さらに早川はロシアを経由して、たびたび北朝鮮に渡り、その北朝鮮側の窓口が朝鮮労働党の「第二経済委員会」であったであろうことも指摘した。

オウム真理教の総勢200人にのぼる信者によって収集された日本の原発の機密資料が、じつは、この早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性が、ここに浮かび上がってきたのである。

さらに、このルートを通じて流出した機密資料は、じつは原発の資料だけにとどまらず、さまざまなハイテク技術、最先端科学技術の膨大なデータであった可能性が、闇のなかから浮かび上がってきたのである。

オウム真理教「科学技術省」長官・村井秀夫刺殺事件の背景には巨大な国際謀略が渦を巻いていた。

(文中敬称略、以下次号)

■取材協力 時任兼作、今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)
 
 
 
サリン開発の責任者だった「化学技術省」刺殺事件の全真相 後編
http://page.freett.com/senmon/hantou/kitachousen/oumu_kita11.html


「オウムと北朝鮮」の闇を解いた11

(週刊現代 1999年10月29日号)
サリン開発の責任者だった「化学技術省」刺殺事件の全真相 後編−村井秀夫は「北朝鮮の核」機密保持のために殺害された
高沢皓司(ノンフィクション作家)

村井秀夫の指示でオウム信者たちが原発に労働者として潜り込み、内部資料を持ち出していたことは、先週号で報じた。

では村井はなぜ、原発資料を集めていたのか。それは彼が、北朝鮮が密かに進めていた「核開発」と接点をもっていたからなのだ。そして村井が口封じされた原因も、まさにそこにあった!
物理学の専門家だった村井

材井秀夫は“知りすぎた男”だった。オウム真理教をめぐる一連の事件のなかでも、もっとも深い謎に包まれている「科学技術省長官」刺殺事件−−複雑に絡み合った謎の周辺をほぐしていくと、これまでマスコミで報道されてきたオウム真理教の顔だけではなく、もうひとつ別の顔をもった教団の姿が、浮かび上がってくる。教団武装化を唱えはじめたオウム真理教の突然の転換の背後には、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の影が濃厚に見え隠れしはじめる。 さらに、偽ドル、サリン事件の謎と毒ガスの入手ルート、北朝鮮工作組織の介在、流出した原発の極秘データとその行方という、新たな疑惑が露出してきた。そして、それら教団内部の最高機密に属していたであろう事がらを、彼=村井秀夫はことごとく知り得る立場にあったのである。

その村井が不用意に口を開きかけたとき、陰の工作者たちは戦慄した。村井の発言がもたらす波及力は、教団という組織内部にとどまるものではなかったからである。

しかし、たぶん村井秀夫がそのことを完全に自覚していたとは言いがたい。村井は自分が知っている事実が白日のもとに曝されたとき、国内外にどのような波及カ、破壊力をおよぼすかについて、無自覚であっただろう。

村井秀夫刺殺事件は、オウム真理教および村井個人の思惑などを越えたところで、大きな闇の世界の力学によって引き起こされた事件であったように思える。この事件の背後には、国際的な陰謀と謀略、政治が渦を巻いて存在していた。

村井は、各地の原子カ発電所にオウム信者を送り込むにあたって、

「今度、行くときにはどんな資料でもいいから持ってこい、これはいいデータとして使える」

と、語っていた。

また、どこが参考になるのかわからない、と言う信者に対して、

「オレは専門だから、たいていのことは見ればわかる」 

と語っていたという元信者の証言もある。

ここで村井の経歴と専門分野、プロフィールを、少しだけ辿っておく必要がありそうである。

村井は1958年12月、京都市で生まれた。1977年4月、大阪の府立高校を経て大阪大学理学部物理学科に入学、大学卒業とともに大学院修士課程に進み、宇宙物理学を専攻。このときの研究テーマは、惑星から出るX線の研究だった。

修士課程を修了後、1983年4月、神戸製鋼に就職。機械研究所の研究員として、航空機関係の研究に従事。熱心な学究肌の研究者だった。

その村井にわずかな変化の兆しがあらわれるのは、1985年頃、彼は次第にヨガに夢中になるようになり、神秘主義にあこがれるようになる。この年、職場の同僚だった女性とネパールにおもむき結婚式を挙げる。

オウム真理教との出会いはそれからほぼ2年後、彼がたまたま麻原彰晃の著作を読んだことからはじまる。村井は麻原の著書に非常な感銘を受け、研究所を退職し、妻とともに出家を決意。その後の村井は1995年4月23日、東京・南青山のオウム真理教総本部前で、徐裕行によって刺殺される運命の日まで、オウム真理教という教団と運命をともに、一気に短い人生を駆け下りていった。

この経歴からわかるように、村井は物理学徒として、きわめて専門的な知識を身につけ、実際に民間企業での研究の最先端の場に身を置いていた人間であったのである。

「オレは専門だから……」

という村井の発言には、誇張も衒いもなかった。
究極の教団武装化は「核」開発

先週号で指摘したような、国内各地の原発の機密データも、村井の目には研究所で日常的に目にしていた多数の書類と同じものに見えていただろう。彼は、そこに現在稼働中の原発の状態、点検工程、不備などを手に取るように見ていたはずである。

村井についての印象的な写真が残されている。教祖・麻原の横にいる村井が、麻原と一緒にいることで喜びを隠し切れないという表情を浮かべ、天真爛漫な笑顔で写っている写真である。その村井が、信者たちに原発の機密データの持ち出しを指示し、

「持ってくればカルマが落ちる」

と、言っていたことは、村井自身もまた、そのことを信じていただろうことを、容易に窺わせる。

一方では自分自身も宗教的な存在として「ハルマゲドン」におののき、一方では冷静な科学者の目で、村井は手元に集められてくるデータの集積を見続けていたに違いない。彼に、そのことに対する罪の意識は、たぶん、なかった。だから、彼=村井にとって、それらの資料が国外に流出することについても、危険の感覚は存在していなかったに違いない。

村井の人生を私なりに辿る作業をしてみて、なぜかそんなふうに思えてくるのである。

村井がオウム真理教の活動のなかで、これら原発の機密資料を収集するだけではなく、さらにそれを越える途方もないことを考えていたらしいことを、私はいま、リアルに感じ取っている。

村井は、オウム真理該「科学技術省長官」として、サリンをはじめとする毒ガスの生産研究、生物化学兵器の研究とほぼ同時に、教団自らが独自に「核」開発に手をそめることを、真剣に考えていた痕跡があるのである。

村井が核開発のことを、たびたび周辺の信者たちに語っていた、という証言がいくつかある。周辺の信者たちにとって「核」開発の話は、原発の機密データと同じく、ある種のブラックホールであり、理解不可能なただの話にすぎなかったかもしれない。

しかし、村井秀夫についてのみ考えてみれば、あながちそれが単なる空想、夢想にすぎなかったとは思えないのである。オウム真理教のもつ豊富な資金と北朝鮮コネクション、そしてそれらを背景にして教団武装化を至上命令として考えたときに、村井「科学技術省長官」の脳裏をよぎったものは、究極の教団武装化としての「核」開発であった。
一致したオウムと北の利益

オウム真理教「科学技術省」が究極の獲得目標として「核」武装を射程に入れていたのだとすれば、ここに不気味な国際政治の裏面が浮かび上がってくる。その構図は次のようなものである。

1982年5月6日、金正日による「よど号」のハイジャッカーに宛てた「親筆指令」から始まった日本国内の破壊・攪乱工作指令は、「よど号」グループのいくつかの試みを経ながらも成功することはなかった。この工作をいかに実現するかで、「よど号」グループは組織内部に路線対立を生じ、メンバーのひとり岡本武の粛清問題にまで発展していく。

彼らは日本国内に潜入し、さらにヨーロッパ各地で人員獲得のために「拉致」事件を引き起こす。しかし、'80年代末にいたって逮捕者が相次ぐなか、この企ては挫折する。

そこに代わって登場してきたのがオウム真理教だった。オウム真理教は、それまでの「オウム神仙の会」のころのヨガ道場的な存在から、一挙に教団武装化を唱えはじめ、世界各地で宗教を隠れみのにした活動を開始する。この段階で、相当大量の資金導入が外部から行われたことは、元幹部の証言にも詳しい。

そして、どうやらこのときの導入資金の大半が、いわゆる偽ドルだったらしいことも指摘した。ちょうど、この時期は、北朝鮮による偽ドル疑惑がさかんに取り沙汰されはじめた時期の直前にあたっている。

当時、教団が北朝鮮の工作組織とヨーロッパを中心とする各地で接触を図っていたらしい痕跡がいくつか残されている。教団はこれらをきっかけとして徐々に、北朝鮮との関係を深めていった。村井秀夫「科学技術省長官」と、同じ教団幹部、早川紀代秀「建設省長官」がともに頻繁にロシアに渡航し、さらにウクライナにも入国していたことがわかっている。さらにウクライナの首都キエフやハリコフから、ハバロフスク経由で北朝鮮に入国していた痕跡が多数残されている。

この段階で、オウム真理教の北朝鮮コネクションは、ふたつの軸を中心に動いていた。ひとつは、かねてからの宿題である日本国内の攪乱工作。もうひとつは、北朝鮮側が必要としていた日本のハイテク技術、ソフト、製品の需要である。

同時にロシア、ウクライナ・ルートによるプルトニウム輸入などの「核」開発関連である。

ところが、ここに北朝鮮とオウム真理教を結ぶ第三の軸が、先のふたつの軸を発展させた形で浮上してきた。オウム真理教自身の武装化としての「核」開発が、村井秀夫「科学技術省長官」の教団武装化構想のなかで、課題にのぼりはじめたことである。

偶然というか、奇妙なことに両者の利益がこのとき一致した。オウム真理教の「核」武装化は、北朝鮮が狙う日本撹乱・破壊工作の上では、原発のデータ流出とともにきわめて重要な位置を占める。さらにオウム真理教側にとって、北朝鮮という新興の「核」開発をめざす国家の存在は、有形無形の大きな意味を持っていた。

オウム真理教側は、この構想にもとづいて北朝鮮に食い込もうとし、北朝鮮側は、オウム真理教を可能な限り利用しようとした。これが、1990年代中頃、地下鉄「サリン」事件が引き起こされる直前までの構図である。
「よど号」犯の妻に接近した狙い

しかし、実際にはどうであったのだろうか。これらのお互いの思惑と構想は、どこまで有効に結びついたのだろうか。

結果は、どうやらその大半が実現されることなく終わったとしな言いようがないのである。

いくつかの傍証がある。

日本本の「核」技術開発の中心のひとつである、筑波研究学園都市、ここの関連研究施設に、オウム真理教の幹部たちが幾度か接触を試みたことがあった。しかし、この試みはどうやらあまりうまい結果を生んでいない。

さらにちょうどこの時期、ピョンヤンにいた「よど号」グループのリーダー・田宮高麿は、日本から合法的に多くの人材を北朝鮮に招請する計画を立てていた。それは民族派の人間であったり貿易関係考であったりしたが、その中に科学技術関係者も含まれていたのである。このことは、オウム「科学技術省」の村井秀夫が意図し構想していたであろうようには、北朝鮮側の核開発関連技術導入の「筋」が、まだ確定したものではなかったことを示している。

これと関運して、1991年10月20日、東京・練馬区の練馬文化センターで開かれたオウム真理教主催の「真の自由と平等を求める市民の集い」という集会に、「よど号」グループの「妻」のひとり、八尾恵がパネリストとして出席したことで、オウムと北朝鮮の関係が、「赤旗」紙上や週刊誌などで取り上げられたことがあった。

この集会については、オウム側から青山吉伸弁護士、鹿島とも子などが出席し、人権派として千代丸健二、救援連絡センターの事務局長・山中幸男などが参加した。八尾恵はこの当時、報道被害などを訴えてマスコミ訴訟をつづけており、救援連絡センターの事務局員として働いていたことから、この集会に参加している。

この集会に「よど号」の「妻」のひとりが参加していたということをもって、「赤旗」は疑惑に満ちた記事を書いたが、実際にはなんの根拠もないうがった記事だった。

しかし、問題は彼女がこの集会に参加したことにあったのではなく、じつはこれ以前から八尾の裁判支援にも、オウム側から青山弁護士を含む複数のアプローチが行われていたことである。当初はオウム側が、一種の「広告塔」として八尾を利用しようとしているのではないか、とも考えられたが、グループのリーダー田宮は、私が訪朝したおりに直接、その理由を尋ねたとき、じつに明快な答え方をした。

「オウムは八尾さんを介してわれわれとコンタクトを取ろうとしているのではないか」

と。

さらに、

「オウムはわれわれを通して共和国とコンタクトを取りたがっているのではないか」

と。

これらのことを考えあわせると、オウム真理教にとってもこの時期にはまだ、明確に北朝鮮側の窓口が一定していなかった、ということがわかってくる。

そして、オウム真理教と北朝鮮側の窓口がまだ不安定であったが故に、オウムの「核」による究極の教団武装化計画は実現するにはいたらなかった。幸運なことに、オウム真理教が自作自演しようとした「ハルマゲドン」計画は、回避されたのである。
核査察問題で野望は挫折した

ではなぜ、北朝鮮の「核」開発にとって、ロシアではなく日本の一宗教団体がそこに食い込む余地があったのだろうか。この答えは簡単である。

北朝鮮は自国の「核」開発のために、ロシアから多数の学者、研究者をピョンヤンに招請していた。その担当部署が朝鮮労働党第二経済委員会であったことも、今では周知の事実となっている。しかし、北朝鮮の工業技術、ハイテク技術の技術体系には、明らかにもうひとつの「筋」が存在していた。それが、日本の工業技術でありハイテク技術であったのである。

朝鮮総連をはじめ、その傘下の在日朝鮮人科学技術協会(科協)などの団体が、これまでに極めて大量の技術、研究成果、および資材を日本から「祖国」北朝鮮に輸出していることは紛れもない事実であり、これが合法的・非合法的な領域を問わずに、これまでつみ重ねられてきたことは多くの指摘がある。いわば北朝鮮には、ロシア型の技術体系と日本型の技術体系が混在していると言ってよい。その上、現在のハイテク技術の分野では、圧倒的に日本型の方が部品等の製品事情を含めて優位にたっている。北朝鮮のミサイルや潜水艇の部品に、多くの日本製品が使われていることがマスコミで問題視されることの理由もそこにある。

この日本型の技術体系下で行なわれる研究や開発にとっては、小さな部品やIC機器のひとつにいたるまで日本製品の方が便利であることは言うまでもないだろう。そこに、日本からの研究とデータが北朝鮮に求められる意昧が存在している。

北朝鮮側がオウム真理教を利用して、日本の原発の資料をはじめとする研究レポートを入手しようとした理由の大半も、そこにこそあった。また、オウム真理教側にとっては、国内では所有不可能な研究施設や研究体制が、北朝鮮側から提供されれば、それに越したことはなかったのである。

しかし、このオウム真理教「科学技術省」の構想は挫折した。

1993年3月、北朝鮮のNPT(核不拡散条約)脱退宣言から、核査察の受け入れと拒否をめぐる1994年6月のIAEA(国際原子カ機関)脱退という、一連の北朝鮮核開発疑惑をめぐる国際政治の荒波のなかで、この構想は着手されなかった。むしろ、あの朝鮮有事に向けた一触即発の状況のなかで、このオウム真理教の構想に、北朝鮮がどんな些細な部分においても関与していることは、どうしても闇に葬らねばならない「事実」だったのである。

村井秀夫「科学技術省長官」刺殺事件の背後には、そうした国際政治の闇の部分が、ブラックホールのようにうず巻いていた。オウム真理教が引き起こした一連の事件への北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた。

サリン事件をはじめとした多くのオウム真理教によるテロ事件、これらの事件の犠牲者の数は多い。さらに親兄弟を失った家族の悲しみもいまだにいやされることがない。一連のオウム真理教の事件の背景になにがあったのか、その真相を明らかにすることが、犠牲となった人々への何よりの鎮魂、手向けであるのではないだろうか。日本政府は、これらの事件の真相と背景について、そろそろ明らかにするべき時期が来ていると思うのだが。

最後に一言。この連載は今回でひとまず終わらせて頂くことにしたい。短期の集中連載という形で始まったこの記事も今回で11回目を数えた。鈴木哲編集長の「ライブでやれ!」との一言で始めさせていただいた記事だったが、いくつかは新しい事実、真相を提示することができただろうと考えている。あらためて取材の態勢をとりなおした上で、再開できる日を待ちたい。このテーマはオウム真理教と。北朝鮮という国家が存在するかぎり、私にとってのネバー・エンディング・ストーリーである。

(文中敬称略、以下次号)

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