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http://home-2.worldonline.nl/~waterput/brain/ontology.htm
存在論
私は、存在論は廃止すべきだと考えている。
アリストテレス的にいえば、「存在」は最高の類概念であって、したがって、どんなものにでも(それが存在している限り)「ある」という述語をつけることができるということになるわけだが、これはなんとなく正しいような気がするだけで、実はものすごく変な考え方である。この考え方は、たとえば「日本人は人間であるか」という問題に関しては有効である。この場合、「日本人」は「人間」のサブクラスであるため、「そうだ」とすぐに答えることができる。しかし、たとえば「幽霊は存在するか」という問題を設定した場合、この考え方では答えを出すことができない。この場合、「幽霊」が「存在者」というカテゴリーに属するかどうかそれ自体が問題なので、「幽霊は存在するか」という問題に答えるにはその主語「幽霊」について、「『幽霊』は『存在者』に属するか」という問題に答えなくてはいけない。つまり、この問題は永久に循環してしまうのである。この問題は、「あるものが幽霊である場合、そのものは存在者か」という形式にしても同じで、結局のところ、「幽霊である」ことと「存在する」こととの比較になってしまうのである。
問題の根元は、「存在」を述語ととらえているところにある。これに対し、私は「存在」は述語ではなく、定義であると考えている。「存在」を述語と考えてしまうのは、言語の構造に由来する錯覚である。日本語でも、ヨーロッパ語でも(おそらくその他のどの言語でも)、「・・・が存在する」という表現は文法的には述語の形式で述べられる。このために、誰でも「存在」を述語の一種と考えてしまうのだが、実はこれは定義なのである。
「存在」を「定義」と考えた場合、「幽霊は存在するか」という問題は消滅する。「幽霊は存在する」と定義した場合には、幽霊は存在するのである。
これは、インチキではない。このような論理操作は、実はわれわれが日常無意識にやっていることでもある。たとえば、物理学者はその研究の中で「文学」というような存在者は定義していない。また、文学史の研究者は普通「素粒子」というような存在者は定義していない。われわれはおのおのそれぞれに、何かあることがらについて考える時に、適当な存在者の範囲を設定し、その範囲で存在者を定義し、定義された存在者のみを考えに入れて理論を構築しているのである。
このように考えた場合、われわれが世間一般で「ある」と言っているものは、「『感覚され得るもの』という範囲で定義された存在者」のことである。また、たとえば「ユークリッドの公理から論理的に導き出される定理」という範囲で存在者を定義することもできる。これはユークリッド幾何学のことである。さらに、「感覚されうるもの以外のもの」を存在者として定義することもできる。これは矛盾ではない。あるものが「感覚はされるが存在はしない」ということは、論理的にはまったく矛盾でも何でもない。われわれは「感覚されるものは存在するものである」という日常的な定義方法にあまりにも慣れすぎてしまっているため、このような定義になじみにくいというだけの話である。
98 年 8 月 8 日
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付記
「世界には何ものも存在しない」、あるいは「世界さえも存在しない」という定義を行うこともできる。したがって、「世界は空である」という言明は正しい。
もっとも、もう少し正確に言えば、これは定義であるので、「正しい」「正しくない」という基準を適用するのは的外れで、「『世界は空である』という定義は適切な定義であるか」という観点から考えなければならない。この定義が適切であるかどうかについてはインド内外で激しい議論が戦わされたが、若干残念なことには、この議論は「・・・であるから世界は空である(または、空でない)」という議論にとどまっていたようである。もしも彼らが、「世界は空である」という言明が定義であることに気づき、さまざまな範囲で自由に存在者を定義してその相互関係を考察するという方向に進んでいたら、インド思想史はもう少し面白いものになっただろうと思われる。もしこのような方向に進んでいたインドの理論家がいたとしたら、研究の対象としてはなかなか面白いだろう。