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http://www.geocities.jp/enten_eller1120/ancient/arist.html
第3章 アリストテレスの存在論
すべての人間は,生まれつき,知ることを欲する.(『形而上学』Α980a)
第1節 可能態と現実態
(1) 形相と質料
アリストテレスは(Aristoteles,B.C.384-B.C.322)は,『形而上学』においてタレス以来の哲学の歴史を整理し,世界に生起する現象に対して,下のような4つの原因(アイテイオン)を挙げている.
@ 物事の実体(ousia,ウーシア)であり,何であるか(to ti en einai,本質)→形相(eidos)因.
A ものの質料→質料(hyle)因.
B 物事の運動がそれから始まるその始まり(arche)→始動因.
C 第3の原因とは反対の端にある原因で,物事が「それのためにであるそれ(ト・フー・ヘネカ)」すなわち「善(タガトン)」である.善は物事の生成や運動の全てが目指すところの終わり(telos,目的)→目的因.
ところで,プラトンのイデア説では,この形相因(イデア)と質料因の結びつきが外的,偶然的なものと考えられていた*.アリストテレスはイデア論に対して23ヶ条の批判を述べているが,その中でも特に批判されるべきだと彼が考えたのはこの点だったのである.
とくに最も疑問とされてよいのは,そもそもエイドス(イデア)が感覚的な事物に対してどれほどの役に立っているかという点である.なぜなら,
(a)これらの事物に対してそのいかなる運動や転化の原因でもないからである.のみならずそれは
(b)他の事物を認識するのに何の役にもたたない.なぜならエイドスはこれらの事物の実体ではないからである― もし実体であるなら,それはすでにこれらに内在しているはずであるから ―.なおまた,
(c)もしそれがそれに与かる事物に内在していないとすれば,これらの事物の存在するのにも役にたたない.たとえそうであるとしても,それはおそらく,たとえば白それ自体があるものと混合することによってこのものを白いものにするというような意味で原因であると考えられるだけであろう.
(『形而上学』Α巻第9章 991 a9-18)
そこでアリストテレスは形相は個物の中にしか存在しないとした(個物形相説).つまり個物とは必ず,質料と形相が結びついてあるもの(synolon,結合体,合成体)なのだ.
ここで,例えば青銅の像を考えると,青銅が質料,像の形が形相にあたるのだが,像の形を取る以前の青銅も何らかの形を持っているからには形相と結びついている. しかし,質料の質料,様々な形相と結びつきながら,それ自体は変わることのないものがあるはずで,それを第1質料(1次質料)と呼んだ.アリストテレスは「火・空気・水・土」の四元素をこの第1質料と考えた.
このようにしてアリストテレスは,世界を,質料因が形相因と結びつくこと(もしくは形相因が質料因と結びつくこと)によって存在者として生成する運動として捉え,プラトンのイデア論ではみすごされた(とアリストテレスが考えた)生成と運動の原理をも説明した.
*ただし,アリストテレスはみずからの哲学的枠組みの中でイデア論を解釈しているので,アリストテレスのイデア論批判には多少的外れな感がある.プラトンはアリストテレスのように「質料」といったものを考えず,そもそも個物というもの自体が相対性と流転性を免れ得ないものであり,それ自体として自足したものではないと考えたのである.しかしどちらにせよ,このような個物の実在を認めないプラトン流の存在論はアリストテレスには受け容れることができなかったであろう.
(2) 可能態と現実態
ここで,かれは「可能態」(dynamis,デュナミス)と「現実態」(energeia,エネルゲイア)という概念を導入する.
形相なら形相,質料なら質料だけがあっても,それらは「何かになる可能性があるもの」すなわち「可能態」に他ならない.それらが形相,もしくは質料と結びつくことによってはじめて個物として「現実に」存在できるのだ.
このように,アリストテレス的な世界観にあっては,すべてのものが「可能態」から「現実態」へ向かう運動のうちにある.そしてもはや現実されるべきいかなる可能性も残されておらず,最高度の現実性を備えているのが,「純粋形相」であり,これは「神」とも呼ばれる.
つまり,すべてのものはこの「純粋形相」を目指す目的論的運動のうちにあるのである.言い換えると,この「純粋形相」は,それ自身はもはや運動することはないのに,すべてのものを己へと向けて動かすので,「不動の動者」(to kinoun akineton)だということになる.
(3) 無限について
アリストテレスは,可能態と現実態に対応させて,無限(ト・アペイロン)を可能的無限と現実的無限に分けた.
可能無限はそのつどの現実的な大きさや多さとしてはつねに有限にとどまりながら,可能的に無際限に増大,増加しうるもので,すなわち「テロス」に至らない無限であり,現実的無限とは,確定的に自存する,すなわち「テロス」に至った無限である.
もし,それ自体無限大である物体のような現実的無限の存在を仮定すると,「全体と部分が一致する」というようなパラドクスに陥るので,アリストテレスは現実的無限を否定し,無限定な質料としての「ト・アペイロン」をはじめ,時間,空間,数などの自然学的対象はいずれも単なる可能的無限であるとした.
しかし,アリストテレスの後継者を自任するトマス・アクィナスなどは,「純粋現実態」という,むしろ,新プラトン主義の「一者,ト・ヘン」的なものを想定し,神とした.さらに下って,ゲオルグ・カントールは神を現実的無限として,その無限集合論をつくりあげた.
第2節 存在の多義性と実体論
(1) 第三人間論のアポリア
『イデアについて』というアリストテレス初期の断片に,「第三人間論」といわれるアポリアが示されている.これはプラトン後期の著作『パルメニデス』において示された「イデアのイデア」という難問とも関連する(→「第2章 第3節 (1) イデア論の難点」).
たとえば,「ソクラテス(A)は人間(C)である」(命題S1)と「プラトン(B)は人間(C)である」(命題S2)というふたつの命題があるとする.命題S1においてA=Cが主張され,命題S2においてB=Cが主張されているのだから,結局はA=B,すなわち,ソクラテスはプラトンであるということになる.これはおかしい.
そこで,ソクラテス(第一の人間)と人間(第二の人間,イデア)を異なるものと考える.これを「非同一性の想定(NI)」と名づけよう(ヴラストス「『パルメニデス』における第三人間論」).そうすると,プラトンとソクラトスは異なる.
しかし,第二の人間も人間であるから,「人間(第二の人間)は人間である」といえる.このような「述語づけられるものは,それ自身が,その同じ述語の主語になる」という想定を「自己述定の想定(SP)」と名づけよう.すると,NIより第二の人間と述語の人間(第三の人間)は異なるものになる.そしてその第三の人間に関して再び第四の人間 …というように無限に続く.
(2) 第一実体と第二実体
第三人間のアポリアはどのようにして避けうるか.さて,このようなアポリアはいかにして回避されうるであろうか.
プラトンは,個物はあくまでイデアの似像であるとして個物の実在を認めず,そのことによってこのアポリアを回避しようとした.つまり,「ソクラテス」とは,われわれがソクラテスを認識した「場」の部分に「人間」というイデアが映し出されたものであり,同様に「プラトン」とはわれわれがプラトンを認識した「場」の部分に「人間」というイデアが映し出されたものなのである.だから,「人間」というイデアはただひとつなのである.
しかし,アリストテレスはこのような個物の実在を認めず超越的な実在のみを認める存在論に不満を感じた.そこで彼はNIとSPを同時に認めないことによって第三人間論のアポリアを回避しようとする.すなわち,
@ SP&Not-NIのタイブの述語づけ:「人間は人間である」「白は白である」.これが『カテーゴリアイ』の≪〜についていわれる≫の関係.本質的述語づけ.
A NI & Not-SPのタイプの述語づけ:「人間は白い」.これが『カテーゴリアイ』の≪〜においてある≫の関係.付帯的述語づけ.
と考えたのである.これで第三人間論のアポリアは避けうるように思える.だが問題は,アリストテレスは「人間は人間である」のような主語と述語が全く同じ場合だけが本質的述語づけであるとは考えず,「(個々の人間であるところの)ソクラテスは人間である」は本質的述語づけであると考えたことである(つまり,ソクラテスが白くないことは可能だが,ソクラテスは人間でないことはありえない).
すると,ソクラテス=人間であるから,はじめのソクラテス=プラトンの困難に陥る.
そこでアリストテレスは,主語とはなるが述語とはなり得ないような個々の個物を第一実体,主語にもなり述語ともなるような類や種などを第二実体とした.すると,ソクラテスやプラトンは第一実体であり,人間は第二実体であるから第三人間のアポリアを避けうる.しかしこれでは第一実体と第二実体を異なったものと捉えているわけだから,これは結局NIとなる,とアリストテレス研究者のオーエンズは主張する.
結局,オーエンズによると,この第三人間のアポリアは『形而上学』Ζ6の「各々のものは,その『何であるか』(本質)と同一である」という考え方によって解決されたという.つまり,ここにアリストテレスの個物を「形相」と「質料」にわける考え方が現れるのである.ソクラテスにおいてもプラトンにおいても人間という形相(その「何であるか」)は同じなのだが質料が異なるのである.
このとき,はじめ彼が「第一実体」と考えた個物を,形相と質料にわけてしまったので,では形相と質料のどちらが第一の実体なのかという疑問が生じる.アリストテレスは,
ここに形相というのは,各々の事物の本質のことであり,第一の実体である(『形而上学』第7巻第7章1032b1-2)
(ものの第一の)実体は(そのものに)内在する形相であって,これと質料からここにいわゆる結合体(個)としての実体が生じる」(『形而上学』第7巻第11章1037a29-30)
というように第一実体は形相であると考えた.
(3) 存在は類ではない
アリストテレスは存在を多義的に捉える(to on legetai pollaxus).つまり,「存在は類ではない」(ou genos to on;『分析論後書』U.7.92 b13-14)と考え,プラトンのように「存在」というイデアがあるとは考えなかった.
上で見たように,アリストテレスはこれによって「第三人間論」のアポリアを避けうると考えたのである.
この「存在は類ではない」ということを,アリストテレスは,『形而上学』Β巻第3章998b22-27において,以下のようにして示した.
@ 「種差」は存在している→「存在」は種差の述語になる.
A 種は種差の述語にはならない
類は種差の述語にはならない
B ここでもし,「存在が類である」とすれば,「類は種差の述語にはならない」のだから類である「存在」は種差の述語にはならない.つまり,「種差は存在している」とはいえない.
C ゆえに「存在は類ではない」
さて,上の証明Aでもちいた「種は種差の述語にならない」「類は種差の述語にはならない」とはどういうことであろうか.
ポルピュリオスはアリストテレス哲学の入門書として表わした『エイサゴーゲー』の中で右のような樹を描いて,アリストテレスによる生物の分類を説明した.
これにしたがって考えると,たとえば「すべての理性的なもの(種差)は人間(種)である」とはいえない.つまり,「理性的なもの」は人間だけでなく,神もそうであるからだ.同様に「すべての可死的なものは人間である」ともいえない.なぜなら人間以外の動物も可死的であるからである.これは「類の種がこの種に特有の種差の述語とはなり得ない」ということである.
さらに,動物という類の特有の種差として理性的なものがある.理性的なものという種差は,植物という他の類がもたないものである(理性的な植物というものはない).この場合は,「すべての理性的なものは動物である」といえる.
しかし,もし動物という類のなかに人間と神というその類の種であるものがないとしたら,動物という類の中に理性的なものという種差を入れることはできなくなる.つまり「すべての理性的なものは動物である」とはいえなくなる.これは「類(動物)が,類それ自らの種(人間)から離れてそれだけで,その類に特有の種差(理性的)の述語となることはできない」ということである.
以上から「種は種差の述語にはならない」「類は種差の述語にはならない」ということが言える.
(4) 存在の多義性と実体論
アリストテレスは,存在の多義的なあり方を『範疇論』において以下のように分類した(「存在」そのものは,すべてのカテゴリーをつらぬくものなので,「超越範疇,transcendentalia」と呼ばれる).
@ その主語のなんであるか(実体,本質,substantia,ousia)
A それがどれだけあるか(量,quantitas,poson)
B それがどのようにあるか(性質,qualitas,poion)
C それが他の何かに対してどうあるか(関係,relatio,pros ti)
D それがどこにあるか(場所,ubi,pou)
E それがいつあるか(時間,quando,pote)
F それがよこたわっていること(姿勢,situs,keisthai)
G それが何をもってあるか(状態,所有,habitus,echein)
H それのすること(能動,actio,poiein)
I それのされること(受動,被動,passio,paschein)
ここで,FとGは「人間」を主語として考えているので,後の『形而上学』ではこれらを省いてより一般的なカテゴリーを考えた.
さて,存在は(イデアではなく)多義的であるのならば,すべての存在者はなぜ,同じように「存在する」といわれるのであろうか.そこでアリストテレスが考えたのが「プロ・スヘン」( pros hen,ひとつのものとの関係において)という考え方である(この「一」というものも,「超越範疇」のひとつである).
「存在」というのにも多くの意味がある(物事はいろいろな意味で「ある」といわれる).しかしそれらは,あるひとつのもの,あるひとつの自然との関係において「ある」とか「存在する」とか言われるのであって,同語意義的にではなく,あたかも「健康的」と言われる多くの物事がすべてひとつの「健康」との関係においてそう言われるようにである.(『形而上学』Γ巻 第2章 1003a34-38)
たとえば,「この食事は健康的である」と「この血液は健康的である」は同じ「健康的である」といわれるが,食事の方は「健康をもたらすがゆえに」健康的といわれ,血液は「健康のしるしであるがゆえに」健康的であるといわれる.しかし,どちらも「健康」というひとつのもの(ヘン)によって統一されている.
それでは,「存在」における「ヘン」は何か.
まさにこのように,物事は多くの意味であると言われるが,そう言われるすべてのあるものは,あるひとつの原理(アルケー)との関係においてあると言われるのである.すなわち,そのあるものはそれ自らが実体(ウーシア)なるがゆえにそう言われ,他のあるものは実体の属性なるがゆえに,またある物は実体への道(生成過程)なるがゆえに…,そう言われるのである.(『形而上学』Γ巻 第2章 1003b5-10)
つまり,アリストテレスによると,「存在」を統一する「ひとつのもの」は「実体」なのである.ハイデガーはこのアリストテレスの「プロス・ヘン」構造は受け継ぎながらも,「ヘン」を「時間」として存在の解明を行おうとした.つまり,先にも見たように,存在者を存在者としてあらしめる原理として「形相」と「質料」というふたつの実体が考えられたのである.そしてその上で,形相は「それが何であるか」を規定するものであるからよりすぐれた実体であるとして,形相を第一の実体とアリストテレスは考えた.
第3節 『形而上学』の二重性
(1) 『形而上学』という名称の由来
通説である「アリストテレスの著作の編纂者が,<自然学の後>(ta meta ta physika)においた論文群の名称」というのは文献学的に誤りであり,すでに新プラトン主義の注釈家による解釈がある.彼らは,『形而上学』の内容を神学的に解釈していた.そして「われわれの認識の順序において後」と解する.アスクレピオスによると,自然的事物が先に扱われるのは,自然本性ではより後ではあるが,われわれにとってはより先だからである.つまり,自然本性的にいえば,心的なもの/第一原因は自然よりも先にあるが,契機/学習の順序でいうと,神学は自然学の後におかれるものであるから,というのである.そして『形而上学』Γ1の「存在としての存在(to on hei on)」は,厳密な意味の存在,第一のもの,善いもの,豊かなもの,すなわち「神」だと解された.
中世における有名なアリストテレス研究家として,イスラムのアヴィセンナ(Avicenna,Ibn Sina,980-1037)とアヴェロエス(Averroes,Ibn Rushd,1126-1198)がいるが,彼らも,「形而上学」を「われわれの認識の順序において後」と解した.
アヴィセンナは,神は形而上学の主題とはならないと主張.学問の主題となるものは,それが存在することが前もって確立されていなくてはならない.そして,形而上学以前に神の存在が確立されるわけではない.つまり,形而上学の主題は,すべてのものに共通なものたる「存在としての存在」のみである.として,形而上学の「存在論的」要素が意識された.たいして,アヴェロエスは,神の存在は自然学が確立するので,形而上学の主題となりうると考えた.それゆえ,形而上学は神学だと解した.
(2) 問題となるテクスト
『形而上学』Ε巻第1章の末尾(1026 a27-32)において存在論と神学が結び付けられているように思われるテクストが存在する.
もし自然によって構成された実体より他に何らかの別の実体が存在しないならば,自然学が第一の学であろう.しかしある不動の実体(不動の動者)が存在するなら,それ(を対象とする学)がより先であり第一の哲学であって,そしてそのような仕方で普遍的である.なぜならそれは第一なのだから.そして存在としての存在について,それが何であるかということと,存在としての存在に属するものどもを考察することが,その学に属するであろう.
これは「第一の哲学」とは,(「不動の実体」を対象としているから)神学的であるとも解されるし,「存在としての存在」について考察するから存在論であるとも解される.
(3) 『形而上学』解釈の4つのタイプー@ 存在論的解釈
ナトルプによる.アリストテレスのいう「第一哲学」の対象は『形而上学』のΓ1-2と,Ε1では異なる.Γでは,対象は「存在としての存在」とされているが,Ε1には,
もっとも尊い学は,もっとも尊い類に関わらなければならない(1026 a21-22)
という箇所があり,第一哲学の対象は「神」であると解される.
ナトルプは,この矛盾を,この箇所と哲学を数学・自然学・神学の3つに部類する箇所(1026 a21-22)は,アリストテレスの真作ではなく,後世のペリパトスはが挿入したものであるとする.
しかし,これには文献学的論拠がなく,成り立たない解釈である.
ただ,形而上学の二重性をはじめて問題として表面化させたことは評価される.
(4) 『形而上学』解釈の4つのタイプーA 発展史的解釈
イェーガーによる.従来の解釈のように『形而上学』すべてを体系的に捉えず,発展史的に捉える.つまり,矛盾にたいして時代をわける.
神学的な箇所はプラトンの影響が大きかった初期で,存在論的な箇所はプラトンから独立して独自の考えを打ち出した頃のものだと解する.
それでも,神学的でかつ存在論的なΕ1.1026 a27-32 のようなテクストが存在し,これは発展史的に処理するのは無理である.
(5) 『形而上学』解釈の4つのタイプーB 神学的解釈
オーエンズとマーランによる.タイプ@,Aに共通するドグマを批判.
どちらも「存在としての存在」を「存在一般」「抽象的なもの」として解釈しているが,これは古代にも中世にもなかった近代的な解釈,ヴォルフ的な解釈であり,「存在としての存在」とは神的な存在,不動の実体として捉えるのが正しい.
そしてその解釈の正当化として,Κ7.1064 a28-b3の,形而上学が,「存在としての存在と離在するものの認識」(tis episteme tou ontos hei on xuriston)であるという箇所に注目する.すなわち,「存在としての存在」と「離在するもの(不動の存在,神)」との並置を重視する.
しかし,この箇所はアリストテレスの真作ではないという疑問があり,存在論が神学に完全に解消されるのはやはり無理.
(6) 『形而上学』解釈の4つのタイプーB 両立的解釈
パッツィッヒ,ハップ他.「存在としての存在」というセンテンスにおいて,「存在としての」の「存在」を「よりすぐれた意味の特別な存在」と捉える.
この世界にはさまざまなon がある.そして,これらは pros hen(ひとつものに)という仕方(つまり「存在」という同じ言葉)で統一されているが,この局面では hen(ひとつのもの) としての on は実体一般である.→存在論
そして,この世界にはさまざまな実体がある.これらの実体もやはり pros hen という仕方で統一されているが,ここではもはや hen は実体一般でなく,神・不動の動者のことである.→神学
しかしこれも文献的論拠が弱い.
第4章 アリストテレスの倫理学
第2章 イデアの世界
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