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Re:心の定義 まず己の為に 
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投稿者 金十字架 日時 2004 年 4 月 20 日 23:35:57:mfAWtS4GF8MpY
 

(回答先: 薦著。「パパラギ」 『ミュータント・メッセージ——<真実の人>族の教え——』 投稿者 金十字架 日時 2004 年 4 月 19 日 17:41:43)

ここにレスしたのは上に有る「パパラギ」を紹介する引用部分に再び喚起を促されたからである。
この事は今の世界における様々な問題と照らし合わせてみると激しく胸に迫るものが有る。

心を養い、心について深く学ぶにはどうするのが良いのか、それは如何に人生においてどれほどの充実した、多くの経験をするかという事に掛っているといっても良いだろう。そしてまた心を会得しているものとは、他者に感謝することを学び、本当の人の喜びとは何かを行動によって他者に気づかせる事ができるものである。また、真の心を養っているものはまず見返りを求めたりしない。

心有るものは人に道を譲るだろう。また道に入れずに場に留まっていたものは譲りを受けた他者の心に気づき、他者の心の存在に感謝するだろう。広く大きな心を養っているもの同士程、深く真摯に相手に感謝するだろう。
他者に十分に注意を払い、気配りのできる人間は時折小心に映る事もあるだろう。が、けして臆病だからでは無い。心が広く、他者を知ろうとする心の器が広く深いのである。他者の喜びの為にこそ心は動き、行動に現れるのである。つまり心がなければ、人は人を守ろうともしないし、できない。善なる感情は他者に対してのみ生まれるものである。

では心の無いものはどうか。道を譲るだろうか。また譲られた事に気づくだろうか。見返りを期待したりしないだろうか。勿論まったく心が無い人間等居ないと信じたい。しかし、自己の利益にのみ心を動かし、他者の心を踏みにじる者に心は無いのである。

今、日本政府がイラクの人々、世界の人々に対してやっている事は、心のなさを現わした行為である。
他者を踏みにじり、裏切り、人々心を与えるどころか、憎しみを増幅させて心を奪っているのである。

  心の定義 まずその為に

まず感情を抜きにして「人」は語れない。
他者への情が無ければ人を動かす事は出来ない。
人を守る事も出来ない。
心を有しているかどうか。それが「人間」と呼べるものかどうかを判断する指針になる。
心というものは、個々の人間が、ばらばらに所有しているものでは無いからだ。

人だけでは無い。犬や、猫、また虫も、石、木々、草、雲、風、水といった自然の全てが心の伝道師、他者であると感じさせる。また、その働きそのものが心とも言える。

私は散る花びらが懐に飛び込むを見てハッとした。振り向くと樹の一本一本が其処に存在しており、そこに他者の存在を気づかせてくれた。枝の裂けたを見て痛々しさを覚えた。
己を人とする概念を通り越して、その自然全てに他者の心を感じる。

つまり「感情(気持ち)」イコール「心」では無い。
感情の善し悪しは心の有無を指針としてあるが、
心そのものは、良い、悪いという観念で括られない。
良い心、悪い心、という使い方は間違っている。

あくまで「心」とは他者と共有している。そうした世界に存在するものだ。我々はひとりひとりは心の器を大なり小なり持っている。その器心は流れ込んでくる。よって個人の利益の為の感情は心から生まれる事はない。つまり心からは他者と共有する感情しか生まれない。他者を育む喜び、他者を讃える喜び、他者を祝う喜び、他者と愛を喜びあう時の感情しか心は生まない。そうした時に心は動くのだ。

よって自己の利益、自己の快楽、自己反省の場に自分が於かれている時、それらはすべて心が無い状態に人が陥っている時である。

「心ここにあらず」の状態というのは他者からみてよく判る筈だ。

目が泳いだり、言葉が粗雑になったり、挙動不振、正しい言動と行動が一致しない。
正しい事をいくら口からだそうとすれども、胸にやましいものが有れば当然、言動と一致しない行動として現れるものである。


心は身体と一体になった時に、精神力、信念といったものと呼応する。けして情に流される事無く、静かにその心を働かす事が大事だ。そして能力の段階に至る。その能力は信念、精神力と強く結びつく為に錬磨する事によって無限に引き出す事が出来る。
限り無く心を追求し、「真心」といったものを感じるに至った時、それによって発揮される能力は常人には測り知れないものと映るだろう。

私は「他者の定義した心」なるものに関心をもた無い。よって本を読む習慣を持たない。つまりここにあるのは全て私が実感した事のみを書いているに過ぎない。しかし先人と似たような解釈になっている事を祈る。全て自分で考え抜いたものしか身につかないと考えている。殺人事件の小説の犯人をいきなり冒頭で告げられるのと似ている。屈折した負けず嫌いである。まぁしかし「負けず嫌い」そのものは何も悪い事では無いことは今は知っている。

しかし心の定義づけを考えるきっかけとなったものはある。それは「武士道」の中にでてくる。
今の世界は「武士道」の本質が最も必要とされている気がしてならない。

必ずしも爆発する感情(=気持ち)と心は結びつかない。怒りに身を任す事は狂人と変わらない。
深く静かに心を動かし、何が正しいかを己の心に問いかける事が大事だ。
憎しみや争い、1人勝ち、といった自己利益のみを訴える感情に気づきを与える事は他ならぬ他者の心である。 「気づき」こそが心を得る上で大切な事だ。

万物自然すべてに心は通っている事を知れば、自分は何をすべきか自ずと判ってくるはずだ。

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