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(回答先: 水引いたら逃げろ…古い言い伝えが島民を救う【時事通信社→ZAKZAK】 投稿者 名無しB 日時 2005 年 1 月 05 日 07:26:41)
http://www.bo-sai.co.jp/inamuranohi.htm
稲むらの火
一人の老人が地震後、津波が襲ってくると予感し、収穫した大切な稲むらに火を放ち、多くの村人を救った感動の物語。(下段に全文)
「稲むらの火」の物語は、昭和12年から昭和22年までの国定教科書・尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」と「初等科国語六」に掲載されたもので、当時の小学生の胸を打ち、鮮やかな印象を残した。
1854年(安政元年)12月23日、安政の東海地震(M8.4)が発生し、その32時間後に襲った安政の南海地震(M8.4)のときの物語である。左の写真は和歌山県広川町役場前にある「稲むらの火広場」にある銅像。モデルとなった儀兵衛が松明を掲げて走る姿を現している。
舞台は紀州有田郡廣村(現在の和歌山県有田郡広川町)で、主人公の五兵衛は実在の人物。モデルは紀州、房州(千葉)、江戸で代々手広く醤油製造業を営む濱口家(ヤマサ醤油)七代目当主の濱口儀兵衛(1820〜1886年)。(廣村、湯浅は醤油発祥の地)
儀兵衛は佐久間象山に学び、勝海舟、福沢諭吉などとも親交を結ぶ。地震発生前にも私財で「耐久社」(現県立耐久高校)や共立学舎という学校を創立するなど、後進の育成や社会事業の発展に努めた篤志家。地震発生当時34歳の働き盛り、自らも九死に一生を得た後、直ちに救済、復興対策(橋梁、堤防構築、失業対策等)に奔走する。
翌年から4年の歳月、延べ人員56,736人、銀94貫の私財を費やして全長600m、幅20m、高さ5mの大防波堤「広村堤防」を築いた。これは津波で職を失った人を助けるとともに、1946年(昭和21年)に発生した昭和の南海地震津波から住民を守り抜いた。
その広村堤防は今でも広川町に史跡として残され、毎年11月に「津浪祭」が「感恩碑」の前で開催され儀兵衛の偉業を称えている。後年濱口梧陵を名乗り、新政府では大参事、初代和歌山県会議長、初代駅逓頭(郵政大臣に相当)などの要職に就き、近代日本の発展に貢献し多くの足跡を残した。世界一周の旅行中、ニューヨークで客死(66歳)するが、今でも幕末の英傑(義人)として広く愛され、畏敬されている。アメリカ・コロラド州の小学校では「稲むらの火」の英訳(ザ・バーニング・オブ・ザ・ライス・フィールズ)が副読本の教材として使われた。(上の写真は濱口梧陵(儀兵衛)
この物語が国内はもとより海外にまでも有名になったのは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850〜1904)の功績である。
1897年、八雲がボストンとロンドンで同時に出版した著書「仏の畠の落穂」(Gleanings in Buddha-Fields)の中の「生ける神」(A Living God)の章で、五兵衛(儀兵衛)の活躍が綴られている。(左の写真は小泉八雲、隣は中井常蔵が耐久中学で学んだ時の英語テキストと「A Living God」の1ページ)
八雲が書いた物語は、それから40年後、梧陵と同郷の小学校教員(後に校長)・中井常蔵氏(1908〜1994)の手で書き改められ、1937年(昭和12年)小学国語読本となって全国の小学校に登場し、約1000万人の児童に感銘を与えることになる。中井は広町の隣町・湯浅町の濱口梧陵が設立した耐久社の流れを汲む耐久中学(現在の耐久高等学校)を卒業したが、そこで、郷土の偉人濱口梧陵を題材にしたラフカディオ・カーンの「A Living God」を学び感銘を受ける。昭和9年、文部省が小学校の教材公募をしたとき、濱口梧陵の物語の真髄を小学生にもわかる短い物語に凝縮して応募した。中井の作品は見事入選し、昭和12年から小学読本に掲載される。(左の写真は執筆当時の中井氏と小学国語読本)
広川町の隣の湯浅町・深専寺には「大地震津なみ心え之記碑」がある。全国に津波の犠牲者を祀る供養碑はあるが、津波に対する心得を記した碑は稀であり、いかにこの地域が津波の恐ろしさを体験してきたかの表れでもある。
東南海・南海地震襲来が懸念される今日、地震や津波災害啓発の書として、「稲むらの火」は優れた防災教材であり、名作である。「稲むらの火」教科書再掲載運動に賛同し、一部仮名遣い等を現代使用にして紹介する。|山村武彦|防災システム研究所|
稲むらの火
「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。
五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。
このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。
「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。
こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。
山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。
高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。
「うっちゃっておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらうんだ」
村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やってきたぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。
はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。
注意:「稲むらの火」の物語のように一旦波が引いてから押し寄せる津波もあるが、いきなり押し寄せてくる津波もあるので、地震を感じたら津波警報と思って高台に避難すべきである。
[他参照サイト]
・稲むらの火webサイト
http://www.inamuranohi.jp/
・稲むらの火(有田みかん紹介サイトの一部)
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/inamura.htm