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(回答先: 『草木塔』 雷とどろくやふくいくとして花のましろく 種田山頭火 投稿者 愚民党 日時 2004 年 12 月 20 日 08:17:19)
二十三夜講あれこれ
今西新一
http://www.town.yagi.kyoto.jp/gyousei/skyouiku/kyoudosi/kyoudosi3/79.htm
古くから行われている民間信仰の組織は、八木町内にも数多くあることと思われるが、たまたま神
田に昔から伝わっている二十三夜講という月侍の行事があって、僅かの人達によって今も続けられて
いる。江戸時代に盛大であったといわれている全国的な二十三夜講の概要をさくってみて、町内の二
十三夜講を考えてみたい。
月 待
さて月待とは「特定の月齢の夜に議員が寄り合って飲食を共にし、月の出を待つ行事。十五夜、十
七夜、十九夜、二十三夜なとの月待がある。なかでも盛んなのは二十三夜待で、三夜侍とも三夜供養
ともいわれ、それに参加する人々の集團は二十三夜講とよばれている。正、五、九、十一月、また正、
六、九月、また正、十一月と月の組合せは異なるが、いずれも二十三日の夜におこなわれ、隔年ごと
に大祝いをする所もある。
村中が議員になっている所、また女性のみの講もある。あるいは勢至菩薩をまつるのだともいう。
三夜様にみごもると不具の兒ができるなとという俗信もある。今日でも村の四辻には多くの二十三夜
塔が建てられている。その大部分は江戸時代のもので、近世におけるこの信仰の盛大さを物語ってい
る。」と柳田国男氏監修の民俗学辞典には見えている。
この様な信仰がいつ頃からおこったかについては、同氏の「二十三夜塔」によれば「石に年号月日
を刻したのは三百年より古いものは稀なようだが、これは一つには字の読める人が少なかったのと、
又一つには石工が無く、石を切り出す者が村に居らず、石塔の代りにたゞ土の塚を築いて居たから
で、起りは決してその様に新しいものではなかったようである。」とあり。又川勝政太郎氏の「石造美術
辞典」によれば、『室町時代中ごろに月待供養の民間信仰が起った。十六夜や十九夜など、特に二十
三夜に講衆が集り日の出を待って、「帰命月天子本地大勢至」を念誦してその功徳を願うものである。
近世には二十三夜供養の石碑や石仏などが多く立てられた。自待の本尊は月天子で、月官の天子で
あり、その本地が大勢至菩薩であるとして、勢至の姿を彫刻した埼玉県浦和市立郷土博物館の文明
十七年(一四八五)三室月待板碑があるが、一方弥陀三尊を本尊とする同大里郡川本村畠山、満福寺
の文明十三年(一四八一)月待板碑もある。』とあって、十五世紀後半には月待の信仰があったことが
うかがわれる。
祭 神
祭神については桜井徳太郎氏の「民間信仰辞典」によると、「二十三夜講は男の集まる場合もある
が、多くは女性の講だとしている。…中略… 行事の時に掲げる画像などから、祭神を勢至菩薩、阿
弥陀三尊、月天子、月光菩薩、月続尊などと考えていることがわかる。しかし神仏名は宗教者の影響
によるもので、月そのものを拝むことが大切だったのだろう。」
又柳田国男氏の「二十三夜塔」によると、「拝む人々が神の御名を口にしなかった為に、次第に祭
神が不明になって来たことも、庚申と二十三夜とはよく似て居る。そう言う中でも二十三夜の方は、仏
教の人たちもあまり口を出さず、青面金剛のようなかわった掛軸も、作って売る者がなかったから、こ
の点が今でもはっきりとせず、石塔の表にも文字ばかりを彫ったものが多く、人はたゞ二十三夜様とゆ
う神様があって、この晩は村々を御巡回なされ、信心の深い人々には徳を施し、恵みを垂れたまうも
のと思って居るだけであった。
それが月天子である。又は月読尊と云う神様であるということは、誰しも考えやすく又物知りの言い
そうなことであったが、夜毎に出ては照らす空の月が、この二十三日の祭の夜ばかり、そういう神にな
り給うと言うことは、却って単純な少年少女なとには、受け難い話であった。」
更に岩崎敏夫氏の「東北民間信仰の研究」上巻によれば、「安産信仰の例としては、福島県浜通り
では、十九夜講はいわき地方に、二十三夜講は相馬地方に多い。
昔は医療設備が乏しく、わずかに村の産婆に取上げてもらう程度であった。私が訪ねた阿武隈山
中の村での話であるが、田で草取りをしているうちに腹が痛くなってきたので急いで家に戻り、夫に産
婆の家に行ってもらったが産婆は里に出かけて不在であった。医者も居ない村であるから、あきらめて
夫に湯をわかしてもらっているうちに生まれたので、這いずりまわって臍の緒も自分で切ってやった、
など今の若い娘が聞いたら失神しそうなことを話すのである。この老婆は七人の子供のうち四人まで
自分で取上げたといっている。しかし自分はいずれも自家で生んだからよかったが、隣の誰とかは、田
圃からの帰り途、間に合わなくなって途中の一本松の所で生んだなどの話もあった。それぐらいだから
難産で死ぬ人も多く、女だけで講をつくり、講の日には宿に集って豆腐のでんがくぐらいで、結構楽しん
だものであった。共に月待ちの信仰で、十九夜は観音様の、二十三夜は勢至様の掛軸をかけて拝
み、月の出を拝んで解散した。」
信仰を同じくするものが寄り集まってできている信仰集團には、村落の地域集團単位にできている
地縁性の濃いものや、神社、寺院または宗派の教祖たちがみずからの数團拡張のため、檀徒、氏子
などを以て組織しているものなどがあって、二十三夜講の祭神は何様ときまったものではないようであ
り、又信仰の目的も色々とあったようである。
勢至菩薩像の掛軸
神田の二十三夜講
その起りはいつ頃かは定かでないが、講の当番に伝えられているうす黒くて虫の喰った木箱(長さ
四十二cm巾深さ約七cm)の蓋の裏に、神田村十九名、広垣内村十七名、雀部村四名、室河原村二
名、計四十二名の男性の名を連記し、「願主秀英誌什物」と書かれている。この記録にある願主秀英と
は、寛政年代に工を起こし文化元年三月(一八〇四)上棟した現在の西光寺本堂建立者法印秀英上
人であって、この上人の住職としての期間は不詳であるが、寛政から文化年間であることは確実で、
秀英上人が布教活動の一環として檀信徒を集めて月待供養をはじめ、大勢至菩薩の功徳を願ったも
のと思われる。
この木箱の中には古びた勢至菩薩像の軸物が一幅と、簡単な講の規約が入っている。軸物は半
月に上半身をあらわした色彩勢至菩薩像であり、規約は次のとおりであるが、創立から明治二十五
年までの記録は残されていない。
「明治二十五年より
廿参夜待諸規約 旧正月講内連中
一、正、五、九月舊廿三日夜講内順番に相勤候事
一、神酒壹升五合約定事
一、白米参合づゝ持寄之事
一、当番之宿は有合の野菜物に而肴壹種用意可致事
右之通相定め候条講内堅く相守可申候也」
月待の行事は戦前迄は規約に従ってって正月、五月、九月の年三回旧暦二十三日夜に当番の家で行
われていた。参加する者は所によっては水垢離をあぴたり、風呂に入ったりして身体を浄めることもあ
るらしいが、神田では特別そんな話は聞かない。開催当日の二十三日には議員は夕方に当番の家へ
集り、床に勢至菩薩の軸物を掛けて礼拝した後、当番の準備した簡単な料理で神酒をいたゞき、真夜
中を過ぎて出てくるお月さんを拝んで解散するのであった。
江戸時代末期にはじまったこの講は、創立当時四十二名あった講員が、明治維新という大変革期
を経て、明治二十五年には僅か九人に減少し、昭和三年には六人となって、戦時中は一時中止されて
いた。
戦後の混乱も漸くおさまり昭和三十三年一月に月待供養を再開した。以後は毎年一回正月に行う
こととして続けられて来たが、社会情勢の変化につれて、旧暦の二十三日はいつか太陽暦の二十三
日となり、最近では二十三日に近い土曜日の晩とか、或は当番の都合のよい日に行われ、月の出も
待たずに暗夜の空を拝んで散会するなど、全く変った二十三夜講となって続けられている。
この外当区では古くから愛宕信仰が行なわれており、毎年四月の祭日には区民が総まいりをして
いたが、いつの頃からか二軒宛順番に代参するようになった。
荒井神社の境内には古びた愛宕燈篭が一基あって、区民は順番に毎夜献燈を欠かさない。
西田の二十三夜講
町内の二十三夜講
八木町内にも昔は二十三夜講があちこち行われていたようだが、現在残っている所は少く、愛宕三
里と云われている当地方ではすべてが愛宕信仰の三夜講であってその概要は次のとおりである。
氷所の東部、西部、南部、北部等に通称三夜講と呼ばれている愛宕講があって、昔は毎月旧暦二
十三日の夜当番の家に集まり、愛宕さんを礼拝して月待行事が行われていたようだが、現在では続け
られている部もあり、年一回にするとか、二十三日の夜も土曜日の夜に変更したり或は廃止されてい
る部もあるようだ。毎年四月末頃の日曜日には愛宕神社へ総まいりをしている。
西田、一部、二部、三部と三ッの三夜講があって、それぞれ三〇人乃至四〇人の議員があり、正
月、九月の二十三日夜、会場に集まって愛宕権現の掛軸をかけて礼拝し、昔は夜遅くに出てくる月を
拝んで解散したこともあったが、今は簡略化して簡単に神酒をいたゞいて十時頃には解散する。その
都度お洗米を持ち寄り、講の代表者が愛宕神社へ代参して頂いたお札を講員に配るのが例である。
そのほか毎年四月の月末に近い日曜日に愛宕神社へ総まいりをする。区内に三基ある愛宕燈篭
には講員が順番で毎晩献燈を続けている。三基の内一基の燈篭には天明(一七八一−一七八九)
の号がある。
山室新田(戸数十一戸)愛宕さんをまつる三夜講があって、当番は特別の枡で米を集めてまわって
宿をし、簡単な肴で食事をする。昔は旧暦二十三日の夜であったが今は新暦になっている。この地は
昔火事で全焼したことがあって、それ以後愛宕信仰が深くなった。今は故人となった先人の提唱で、呑
み食いだけでは勿体ない、今で云う地域活性化を計ろうと、二反余りの田を手に入れて共同耕作し、
その収入を財源として活躍するようになった。とても入りそうになかった電気を新田に導いたり、喜怒哀
楽を共にしつゝ和気あいあいのうちに生活するよう二十三夜講が運営されているという。在所の道端に
ある自然石の愛宕燈篭には毎夜献燈が焼けられている。
× × ×
京都市北西部海抜九二四mの山頂にある愛宕神社は、もと千歳の國分村に祀られていたが、後に
京都贋ケ峯に移し、更に光仁天皇の天応元年(七八一)現在地に和気清磨が社殿を造ったと伝えら
れ、雷神を祀り防火の守護神として当地方では特に信仰が厚い。月待ちの盛んであった関東、東北地
方には、江戸時代に二十三夜共養の石碑や石仏が多く建てられたようだが当地方では見当らず、至
る所で目につくのはあたごの道しるべや愛宕燈篭であることは、二十三夜講の地域的な特徴なのだろ
う。
数多くの民間信仰が江戸時代に特に盛んであったことは、交通機関もなく娯楽設備も少なかった太
平の世に、信仰を兼ねて呑み食いをし乍ら話し合いを楽しむ場として、時代の要求に適っていたためと
思われる。
江戸時代が終って既に百二十年、お月さんへ人間が着陸して土を持ち帰ったり、居乍らにして世界
の出来事が目の前に写し出される時代となって、民間信仰は次第に衰え、既に姿を消しているものも
多いようである。
http://www.town.yagi.kyoto.jp/gyousei/skyouiku/kyoudosi/kyoudosi3/79.htm