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黄金文化が栄えた史跡の町・岩手県西磐井郡平泉町の航空写真。平成元年撮影。
現在、高館バイパス工事が進行しているため高館周辺の景観に相違がある。
松尾芭蕉・おくのほそ道文学館 資料展示室 平泉町の航空写真_川島印刷株式会社所蔵 掲載協力:平泉郷土館
★洪水を恵みとしてきた日本人の知恵★
世界中の川を釣り歩く女流太公望にして社会運動家の天野礼子さんからファックスが届いた。
曰く、「その後、平泉バイパス工事は、どんな風になっていますか?」
そこで、私もファックスで答えた。
「いよいよ、夏草の跡の前の工事を終えて、芭蕉さんの感慨を偲べる景色は消え去りました。不気味とさえ思える巨大なバイパスが、平泉の町と川をこれでもか・これでもか、というほど隔ててしまい世界遺産どころの騒ぎではないですよ。国交省の力がよほど強いと見えて、町で表向きこれに反対する人は、居なくなってしまいました。文化庁や環境省も巨大省庁国交省の威厳(?!)の前に余り口出しはしないようですね。
国会では景観法案や屋外広告物法改正法案、さらに都市緑地保全法改正案などが審議されているようですが、いったい現実に、平泉というような、これから世界遺産に登録されようとしている地域が、平気で悪しき開発工事によって、その景観や環境、歴史的文化的景観が台無しになろうというのは、ちょっと理解できないですね。事実、平泉には景観条例も未整備なため、金鶏山の真向かいに温泉付住宅が隙を突いて売り出される有様ですよ。」
「何とかしなくちゃー。手遅れになるわよ。佐藤さん。今度、こんなの書いたから、」と送って来たのが、彼女の新しい原稿だった。平泉という町を川から見た彼女独特の鋭い感性が、そこには見えた。
そこで許可を得て、掲載させていただくことにした。(2004.2.17 佐藤記)
(本論は、2004年3月25日に東京書籍から発刊される単行本「ダム撤去への道」(サブタイトル ダムの功罪)の冒頭部分である。)
▼ 川と日本人 ダムの功罪 天野礼子著
「夏草や兵どもが夢の跡」と芭蕉が『奥の細道』で詠んだ北上川の中流域にある高館(源義経がいたとされる高台の住居)からの風景。
平泉を造った藤原三代(清衡・基衡・秀衡)は、この北上川の流れをひき込む地を極楽と見たて、中尊寺などを極楽の大池に浮かぶ花とする水上都市を形成した。
鈴沢池や猫間が淵は、西の山際から降雨の折りに出る沢水を市街地に急激に流入させないための水溜めとしての機能と、北上川が氾濫した時には流水を受け止める遊水地としての両方の機能を持っていた。
川を歩く時、私は必ず舟を出してもらい、川から大地を見てみることにしている。平泉を訪うた2002年夏。舟上かた両岸を見て私は、この平泉の地が確かに水上の楽園であったことを確かめた。そしてまた、おそらく日本人はその血の中に、いや日本中の集落が少なくとも明治維新を迎えるまでは、平泉と同じように、「洪水を水害にしない知恵」を持ち得ていたのだとあらためて確信したのであった。
川岸は人工的な護岸がなく、水際は自然堤防で、川から洪水時に養分がひき入れられるように、すぐ水際に田んぼが作られている。両岸には、川と平行する道路は一本しかなく、その道は主要幹線ではない。つまりいつ水に浸ってもようというわけだ。これがこの地の昔からの知恵だろう。
中尊寺などの対岸になる東岸は、川からはるか離れた山際まで広大な田んぼ群で、集落はずっとむこうの森の手前の小高い所に集合している。雪解け時の北上川がどれほどの川であるかがこれでわかる。そしてまた、西岸の都市を洪水から守るために、東岸が大洪水時の遊水地とされ、それゆえ広大な田んぼが開発されたこともわかる。洪水後は田に、上流からの養分が来ることも昔の人は知っていたことだろう。
近代になって造られた鉄脚や鉄道は川に近く低く造られたりしているため、毎年洪水の度に不通となる大さわぎをするが、昔の人はさぞ草葉の陰で笑っていることだろう。
(後略)