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政治的な判断力を得るための『大学』の方法
(1)事物の本質に迫る認識を得ること(格物:物にいたる認識)。
(2)世界における事物の存在の認識、事物の法則性、因果関係の認識を得ること(致知)。
(3)心をあるがままに感じる状態にすること(誠意)。
これは、悪臭を臭いと感じ、美しいものを美しいと感じるように素直な気持ちになることである(如悪悪臭、如好好色)。
* 日本語の誠意とは意味が異なる。
(4)判断力を冷静に保つこと(正心)。
怒りや、怖れ、好ききらい、心配事によって判断が狂うことを知り(憤怒、恐懼、好楽、憂患)、
それらの影響を受けないように冷静さを保つことである。
(5)個人的な生活において、偏り(譬)のない判断をすること(修身)。
(6)身近な共同体において、公平な判断をすること(斉家)。斉=公平。
(7)大きな共同体において、公平な判断をすること(治国、平天下)。
参考:
http://member.nifty.ne.jp/take_tk/honyaku/daigaku1.html
たけ(tk)訳『大学』コメントなし版
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ここで特徴的なのは「(3)誠意:心をあるがままに感じる状態にすること」である。
客観的な事実認識、法則性の認識(1、2)からは、価値判断の根底になるべきものが出てこない。
近代科学が産み出した客観的な認識からは、価値判断に必要な「心」を見いだすことができないということである。
価値判断の本になるのは「心」である。
心をあるがままに感じる状態にする、という訓練なしには、価値判断など出来ないのである。
心をあるがままの状態にしたとき、
「かんながらの道」の自然への畏敬が出てくるのか、
人々への思いやり「仁」が出てくるのかは、
人によって異なるのかもしれない。
人によっては、心をあるがままの状態にしたときに、奴隷主の人格を持った絶対神を感じてしまうのかもしれない。
こういう心の持ち主では困ったことになる。
しかし『大学』はどういう心を持てとは言っていない。
心を自由にせよという方法論であって、理念ではない。
というか、2000年前の現実で感じた理念では、役に立たない。
今の我々が、心をあるがままに感じる状態にすることによって、今の世界の中で感じることが必要であろう。