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デカルト方法論序説
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投稿者 愚民党 日時 2004 年 6 月 07 日 23:17:24:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: Re: 精神的実存と自我 [愚民党さんへ] 投稿者 如往 日時 2004 年 6 月 07 日 02:13:23)

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『世界は破粋された鏡や廃虚や残骸の構造のあいだからしかみえてこない』

70年代冒頭、「5月」の残像は消えず、「制度」はショック状態から完全には
回復せず、時間は完全に停止していた。

歴史と演劇の双方を解読する格子の役割を負わさたモリエールは、まるでなんと
いうか――下半身を「民衆」の場所にどっぷり浸していたがゆえに、上昇を開始
したとたんに苦悶し、苦悶のなかでおのれの出身階級の限界に挑戦した男である。

天上の「言語」を握るものは歴史の《意味》をわがものにする。

   「20世紀演劇」の精神史 著 佐伯隆幸 1982-7-30 初版発行 晶文社
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17世紀のモリエールよ
デカルトが方法論序説を読む
モリエールが貴族社会を
笑い飛ばす
あなたはゆっくりと
フランス太陽劇団の
ムヌュシュキンの存在に
接近することができるだろうか?
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如往さん。こんばんわ。

フランスの太陽劇団の女性演出家であるムヌュシュキンがつくった映画は
モリエルールの生涯でした。
その映画のシーンにデカルトがおのれのテキストである方法論序説を読むシーンがありました。

如往さんの文章を読みながら、その映画を思い出しました。

如往さんには、おれの深いところをみてくださって
感謝しております。

おれの場合、妹の葬式やかたづけが終えて
アパートに帰ってきてから、急に仕事が忙しくなってきてしまいました。
それも妹の「しっかり仕事をしろ」という伝言であると思っております。

演出家は近代になってから誕生いたしました。
おれは現在、そこに興味があります。

ある世界観を観客に提出しないと
近代から現代への舞台表現はやっていけなくなってしまったのかもしれません。
近代から現代文学に批評家が誕生したように
演劇批評の位置は重要でした。

舞台の観客とは文学とか思想書の読者でもあります。
舞台の観客とは読み取る人々です。
それゆえに観客の予測性をあざやかに裏切る演出家は登場したのであると思います。

方法意識がないと現代性に挑戦する舞台は成立しません。

表現とは、また競争でもありまして
おのれが独自的に貨幣を発行するオリジナリティの世界によって
商品価値が評価されます。

芸術本流である美術の世界は、オリジナリティが根幹です。
そして現代美術とは現代思想でした。

議論版でQ太郎さんが転載いたしました記事にも
柄谷行人がつまらなくなったという言説がありました。
おれも『探求』以後の柄谷行人はつまらなくなったと感じております。

現代日本において、いま、批評は何処に存在しているのでしょうか・・・
そのような思いがあります。

如往さんの文章は魅力的です。
ニヒリズムと日本の関連における言説もみごとであると感じました。

主観であれ客観であれ、観念と思想が・・・・その抽象への思索が
個人がもたなくても生存できるのが、日本の世間様であるのかもしれません。

それは議論版で如往さんがサラリーマンの給料、自動源泉徴収への疑問もわかぬ
風土に存立しているのかもしれません。
厳密な言語意味からすれば、日本には自覚化された労働者階級は存在していないのかも
しれません。
戦前治安弾圧完成までには、マルクス主義翻訳書の数は、日本が世界一であったという
説もあります。

個人の抽象思想がなくても生きていける自然生成世間様の問題は
たしか柄谷も「母性系と父性系の二重」として書いておりました。

もしかしたら、
近代の完成なき内容的終焉から
日本世間様の個人としての近代が、いま、この「21世紀異化する時間」進行において
開始されているのかもしれません。

ゆえにデカルト方法論序説を、日本においてはあなどっては、ならないと思います。

そういうおれは、デカルトを読んでいないのです。
如往さん。申し訳ありません。

おれにとっての近代とは
地獄めぐりとしてのダンテ『神曲』でした。

おれはフランスよりもイタリアが似合っている男です。

10年前、ニクソンの本を読んだとき
国家の力量をおしはかる内容として経済力とともに
イデオロギー力があることをニクソンは開示しておりました。

日本ではイデオロギーとは無力であるとされておりますが
イデオロギーとは力である、これがアングロサクソンです。

ゆえに、概念、実存、精神を問うことは
けして無駄ではないと思います。

世間様である日本市民社会にようやく
個人を前提とした近代が開始されたのかもしれません・・・

如往さん。ありがとうございました。

また、つきあってください。

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