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(回答先: 「すべての実存」と「自然」との関係 (「単一実存」の問題)[愚民党さんへ、如往さんへ] 投稿者 乃依 日時 2004 年 6 月 04 日 09:12:52)
乃依さん、こんにちは。
宮台論に入る前に、「実存」談義に因み、少しお尋ねしたいことがあります。
直ぐ下のスレッドでたけ(tk)さんがご懸念されてもいますように、「実存」の理解に纏わることで齟齬がある場合には、先々決定的な食違いとなって表出するのではと想われるのです。
>前にお話しした意欲の問題と密接に関連するのですが、人間の精神的実存の問題です。
>私は、実存を強く持つということは、正義であると考えています。肝要なことであると考えております。
この「精神的実存」とは何を指示するのでしょうか。さらに、「実存を強く持つということは、正義であると考えています。」について詳述していただけないでしょうか。
サルトル流にハイデガーの現象学的存在論を敷衍すれば、『「実存」は本質に先立つ、すなわち存在様態は空虚(Nihil)である。故に、Sein(存在)はDasein(現存在)において回復されなければならない。それは被投性から投性(企投)へのプロセスである。』になり、サルトル流実存主義の本義は即自的存在から対自的存在に至る「自由」のプロセスにあるでしょう。「実存」に関して概ねそのように理解しているのは、私が基本的には無神論を採っているからです。個=人間存在を神的存在から自立する本源的な「実存」と捉えるか否かによって、キルケゴールを系譜とするヤスパース等の有神論的実存哲学が捉える「実存」の意味とは、大きな隔たりを生じさることになるかも知れません。
乃依さんが何らかの有神論的実存哲学を世界認識の中心に据えられているとしたら、元々かなり噛み合わない議論になると推測されるのですが、如何でしょうか。アナロジーの一つをとってみても起点が全く違いますから、若かりし頃に宗教者(特にキリスト教者)や天皇制信奉論者との間で交わされる論議の出発点の擦り合せに大いに苦慮した記憶が蘇って来ます。
そんな苦い過去の当惑を圧して上記の質問をしたのですが、応答していただければ大へん嬉しく思います。
また、会いましょう。