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『レオ・シュトラウスとカール・ポパーの対話』 ― その2 ―
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投稿者 小魚骨 日時 2004 年 6 月 01 日 20:13:55:5fM4yUMte5cr2
 


ポパー「“価値”ないし“価値判断”について少し話をしたいと思っています。私たちの少年期に社会科学で大きな影響をもっていたのはマックス・ウェーバーで、彼は、科学性の維持が「価値自由」にあると考え、実際の論述もその立場から行ないました。あなたのウェーバー批判の根幹は「価値自由」批判ですよね」

シュトラウス「そうです。ウェーバーの業績は否定しませんが、価値判断を放棄することが科学的な方法であるという考え方がもたらした限界性や悪影響は大きなものがあると思っています」

ポパー「価値判断にこだわる言説は、学問世界だけではなく、社会で広く誤解される可能性もありますよね」

シュトラウス「文化人類学や政治的リベラリズムに支えられた価値相対主義的考え方は広く浸透しています。野蛮と文明はどちらが善いとは言えない、同性愛や人殺しがなぜ悪いかを論証することはできない、といった考え方がその代表です」

ポパー「確かに、今の世で善悪や道徳を語ることは、権威主義の復興や反動主義であるかのように思われたり、日常感覚的に言えばカッコ悪いことのように見られているようです。普遍的な善悪ではなく、好き嫌いや損得さらに言えば党派的価値観が判断の基準であるかのような風潮が主流になっています」

シュトラウス「誤解を避けるために言っておきますが、価値判断で物事を裁断しろと言っているわけでありません。科学性を盾に価値判断を避けるな、ひとが創り出したものである限り価値判断が潜んでいるはずだから、それを俎上に乗せる必要があると言いたいのです。その価値に与するかどうかは別として、どのような価値に基づくものであるかを明瞭にする必要はあるという立場です」

ポパー「言われることはわかります。私も、自然科学でさえ「価値自由」ではあり得ないと思っています。仮説なしで科学的探究はできません。仮説は、それまでに獲得した科学的知識や自然観に基づく価値判断から出てくるものです。主観なのか間主観なのかはともかく、価値判断が科学的探究の出発点です。純粋客観的な科学的探究は、自然的事象に対してさえ不能なのです。数限りなくある事象のどれを切り出すかということも価値判断のなせるワザです」

シュトラウス「その一方で、「価値自由」すなわち客観的科学を唱える人たちは真理認識や決定論を受け容れています。社会科学や政治においても、善悪は問わない代わりに、進歩や反動といった観念は生き残っています。進歩は、変化でしかないのかもしれないとか、ひょっとしたら悪なのかもしれないといったことさえ思い至らない。あることを進歩だと考えること自体が価値判断であるという最低限の知的態度さえ抜け落ちているのです」

ポパー「真理は存在するだろうが、ひとは真理を認識できるわけではない。到達することはできない真理にほんの少しでも近づこうとするのが知的活動だと思っています。そして、少しでも真理に近づくための方法論が批判的合理主義だと考えています。ところが、真理を掴んだとか、歴史を決定する法則を知ったという人たちは、ある意味で当然なのかもしれませんが、批判を受け付けない態度を見せます。私は、そのような考え方が二十世紀前半の悲劇をもたらしたと思っています」

シュトラウス「あなたの親友でもあるハイエクの「反合理主義」も、合理主義の限界を知悉しているということで、ある種の批判的合理主義と言えますね」

ポパー「方法論としての合理主義とイデオロギーとしての合理主義は似て非なるものです。合理主義的観念から生み出された真理と称するものや決定論が情念と結びつくと批判不能の行動を生み出し、真理や法則に異を唱える人たちは異端者や反動として断罪されることになります」

シュトラウス「創造論や神の啓示すなわち預言を科学的論証で否定することはできません。奇跡というものがあるのなら、地球物理学や考古学をいかに駆使してもそれらを否定することはできないのです。また、全体を知ることができていないのですから、ある事象がどういう部分であるかどうかも本当のところはわからないということになります」

ポパー「それでも、理性によって物事を判断しなければならない。その一方で、価値の影響を受けない理性的活動はありえない。この自己矛盾性をどうやって乗り越えるのかが大きな問題ですね」

シュトラウス「やっかいなのは、価値は情念に結びつく優れてエロス的なものである一方で、理性は生身性からの離脱を求められるという意味でタナトス的なものであるということです。この意味で、理性は情念化した価値には勝てないという押さえは必要です。だから、あなたの批判的合理主義も大勢にはならなかった」

ポパー「率直に言わせてもらえば、あなたの政治哲学は全体主義に向かわせるものだと思っています。そのような理解は間違いではありませんよね?」

シュトラウス「全体主義の定義が問題になりますが、個人的自由主義の総和ではなく、善なる秩序に制御されて国家社会が動いていくことが好ましいと考えていることをもって全体主義とするのなら否定しません。しかし、それをナチズムやボルシェビズムと同一視されるのなら心外だとは言っておきます」

ポパー「しかし、ナチスやボルシェビキも、自分たちが掲げた秩序を善なるものと考えていたはずです」

シュトラウス「どういう秩序が善であるかを探究するのが哲学者の任務だという答えでは承服してもらえませんか(笑)」

ポパー「とうてい認めることはできませんね(笑)哲人王を自認する権力者が哲人であるとは言えませんよね。ギリシア哲学や儒教で示されている徳目自体が曖昧なものです。寛容は怯懦の言い訳かもしれないし、仁は余計なお世話になるかもしれないし、勇気は蛮行をもたらすかもしれない。あなたの政治哲学は、権力を握った愚者が哲人王を名乗ることを誘発しかねないものだと思っています」

シュトラウス「逃げるわけではありませんが、そうかもしれないという思いもあって、「真の世界社会の到来を期待できるのは、我々が東洋から、とりわけ中国から学ぶことができるようになった時だけである」と述べ、「西洋の思想家は、西洋の最深の根底にまで降りていくことによってこの出会いに備えることができる」とも示唆したのです」

ポパー「そのような先送り的提示が救いになるとは思えません。私は、批判的合理主義と権力者を国民が引き摺り下ろせる制度こそが、救いとは言いませんが、悪しき全体主義への道を塞ぐと思っています」

シュトラウス「しかし、阿修羅を見ても批判的合理主義が根づく様子はないし、権力者に隷属したり、強力な権力者を待望する情況も見えます。あなたの政治哲学も、結局のところ、ないものねだりや現実を軽んじた先送り的提示なのかもしれませんよ」


(続く)

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