★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用9 > 650.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
「理性ではなく愛が支配すべきだと説教するものは、憎悪によって支配するような者のために通路を開いているのだ」:カール・ポパ
http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/650.html
投稿者 小魚骨 日時 2004 年 5 月 29 日 03:13:50:5fM4yUMte5cr2
 


『開かれた社会とその敵 第二部予言の大潮 ヘーゲル、マルクスとその余波』

(カール・R・ポパー著:小河原誠―内田詔夫訳:未来社刊:4200円+税)

「第二四章 神託的哲学と理性への反逆」より:


「 人類を愛する非合理主義者が存在するという事実、ならびに、あらゆる形態の非合理主義が犯罪を惹き起こすわけではないという事実、私はこれらの事実を看過してはいない。しかし、理性ではなく愛が支配すべきだと説教するものは、憎悪によって支配するような者のために通路を開いているのだ、と私は主張する(私の信じるところ、ソクラテスは、論証への不信あるいは憎悪は人間への不信あるいは憎悪と相結んでいる、と示唆したとき、このような事情を知っていたのだ)。この関連を一目で見てとれない者、感情的愛の直接支配を信じている者には、愛そのものが確実に公平さを促進するのではないという点を考慮に入れてもらいたい。愛は闘争を片付けうるものでもない。愛そのものは闘争を解決しえないであろうということ、このことを、いっそう重大な事例の代表例として適合するのだが、たわいのないテストケースを考察することによって示すことができる。トムは演劇を好み、ディックはダンスを好む。トムは愛情からダンスに行くことを主張するのに対して、ディックはトムのために演劇を見に行こうとする。この悶着は愛によっては解決できないのであり、むしろ、愛が大きければ大きいほど、両者の悶着は激しくなるであろう。二つの解決策があるのみである。一つは感情そして窮極的には暴力の使用であり、他は、理性、公平性、合理的な妥協の使用である。以上の事例を挙げたのは、私が愛と憎悪との相違を評価していないこと、あるいは、私が人生を愛なくしても生きるに値するであろうと考えていること、これらのことを示すためにではない(私は進んで、キリスト教的な愛の観念は感情むきだしで語られたのではないということを承認する)。だが、私は、感情、そして愛でさえ、理性によって統御される制度の支配に、とってかわりうるものではない、と主張する。」(P.217)

 次へ  前へ

雑談専用9掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。