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『開かれた社会とその敵 第二部予言の大潮 ヘーゲル、マルクスとその余波』
(カール・R・ポパー著:小河原誠―内田詔夫訳:未来社刊:4200円+税)
「第二四章 神託的哲学と理性への反逆」より:
「 人類を愛する非合理主義者が存在するという事実、ならびに、あらゆる形態の非合理主義が犯罪を惹き起こすわけではないという事実、私はこれらの事実を看過してはいない。しかし、理性ではなく愛が支配すべきだと説教するものは、憎悪によって支配するような者のために通路を開いているのだ、と私は主張する(私の信じるところ、ソクラテスは、論証への不信あるいは憎悪は人間への不信あるいは憎悪と相結んでいる、と示唆したとき、このような事情を知っていたのだ)。この関連を一目で見てとれない者、感情的愛の直接支配を信じている者には、愛そのものが確実に公平さを促進するのではないという点を考慮に入れてもらいたい。愛は闘争を片付けうるものでもない。愛そのものは闘争を解決しえないであろうということ、このことを、いっそう重大な事例の代表例として適合するのだが、たわいのないテストケースを考察することによって示すことができる。トムは演劇を好み、ディックはダンスを好む。トムは愛情からダンスに行くことを主張するのに対して、ディックはトムのために演劇を見に行こうとする。この悶着は愛によっては解決できないのであり、むしろ、愛が大きければ大きいほど、両者の悶着は激しくなるであろう。二つの解決策があるのみである。一つは感情そして窮極的には暴力の使用であり、他は、理性、公平性、合理的な妥協の使用である。以上の事例を挙げたのは、私が愛と憎悪との相違を評価していないこと、あるいは、私が人生を愛なくしても生きるに値するであろうと考えていること、これらのことを示すためにではない(私は進んで、キリスト教的な愛の観念は感情むきだしで語られたのではないということを承認する)。だが、私は、感情、そして愛でさえ、理性によって統御される制度の支配に、とってかわりうるものではない、と主張する。」(P.217)