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☆遺したいメッセージのページ
以下は、オギュスタン・ベルク氏が1986年10月13日、(社)生活文化総合研究所のランチョンミーティングにおいて行った講演の要旨である。
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空間としての日本文化
オギュスタン・ベルク (日仏会館フランス学長)
1 風土という言葉
最近の先進国の社会の変化や問題を考える時、社会と空間(自然を含む)の関係が重大な問題になっている。戦前の和辻哲郎の「風土」には、非常に現代的な問題が含まれているが、これは、社会、空間、自然が一体化しているということである。風土という言葉では、自然と文化、自然と作為、社会と環境というようなものが全部一緒になっており、こういう両義的(アンビバレント)な要素を持っている言葉はフランス語にはない。
今の西洋哲学の一つの大きな特徴は「主体の危機」である。西洋では伝統的に主体と客体の区別がはっきりしていて、主体が上におかれていたが、今はその関係を再検討しなければならなくなっている。
日本の社会、空間、自然の三角の関係から生まれる風土性を研究することはその役に立つが、その一般的な特徴は、次の通りである。
2 主体よりも環境、行動よりも自然
日本では主体よりも環境が大事にされる。日本語の「寒い」という言葉の中には主体と環境の両方が入っており、「私は寒い」と言う場合もあるが、それは特別の場合である。
しかしインド・ヨーロッパ語では常に「それが寒い」 It is cold.と言わなければならない。日本語では、「私はあなたが好き」とも言えるが、ただ「好き」と言ってすますことが多い。この場合、当人は主体が誰で客体が誰かわかっているが、言葉の上だけではわからない。ある環境や雰囲気を前提として初めて何か意味が出て来るので、主語をはっきりする必要がない。
フランスの文化では雰囲気や環境の前にまず主体が何かをハッキリさせる必要があるが、日本では主体より環境や雰囲気が大事なので、こうなるのである。
日本では、作為よりも自然が大事にされる。自然とは、ひとりでに何かが起こるということで、日本語では、尊敬の程度が高くなると主体と行動との関係が曖昧になる。「太郎がきた」と言えば主体と行動の関係がはっきりするが、「先生がおいでになりました」と言うと、主体の行動と関係なく何かが自然発生したという感じになる。
逆に卑下する時には、主体の行動を強調する。私が先生を送る時に「お送り」「致します」というように行動を表す言葉を2回言うのがそれである。
自然を大事にし作為を低くすることと主体の行動を軽視することとは、日本文化によく表れる無我・無私に関連する。
3 「私」中心ではなく「場」が土台
主体の価値が低く、場合によっては主語もなくなるということになると、世界の中心はどこにあるのかという問題が出てくる。
主体を中心におくなら「私」が中心になり、世界は私の周りにあることになるが、主体・主語が曖昧だと、世界の中心はどこにあるのか、世界はどういう風に統合されるのか、その統一性はどこから出てくるのかということが問題になる。
西田幾多郎と時枝誠記のこれについての考えは、「西洋文化は主語の論理を基礎にしているが日本文化は場所の論理を基礎にしている」というものである。
西洋文化の元になっているのは主語であり、主語の面ではAとBは必ず違い、Aが同時にBであることはあり得ないが、述語の場合には、Aが同時にBになる――AがノンAになる――こともあり得る。
テレーズという名前の若い女性が処女である時、聖母マリアも処女なので、テレーズは聖母マリアだと言うような場合である。
「私」が中心である主語の論理ではあり得ないことが、中心がハッキリしない場の論理では起こり得るのである。
4 日本の農業と美的感覚
無我という言葉には、無本質という意味もある。社会、空間、自然の相互依存関係を大事にする社会の中では、本質より関係を大事にするという傾向が生まれ、それが日本の農業の中に現れている。
西洋の農業は(生産の主体である)人間の労働の生産性を重視するが、日本の農業は伝統的に土地の生産性を重視し、自然との関係を大事にする。日本の田舎には数百年前にできた運河がたくさんあるが、それはよく「川」と呼ばれている。
これは人間の労働の結果を自然と同じに見なすということであり、これに対して西洋の農業では、人の労働は自然とは違うと考える。
同じ現象は美的感覚の中にも見られる。日本の庭ではよく借景という表現が使われているが、ここでは大自然が―たとえば山が―庭に入ってくる。人間の作った庭を自然と同じにしてしまうのである。
借景というコンセプトは他の文化にもあるが使い方は逆で、フランスやイギリスの庭の借景は自分がその庭の高いところに立って遠くを見るためにやるので、自然を庭にこさせるためにやるのではない。
5 上からと中から、主観と客観
このように、日本人が景色を見る時は何かの上に立ってそれを見るというよりは、その中に引きこもって内側から見るという傾向がある。専門家はこれを「子宮回帰」――母の中にもどる――と名づけ、「場」の論理を母性の論理と関連させている。
人が景色を見る時にどうやって意味をとるかという問題は、個人的なものではなく社会全体の持っている原風景に関係していると考えると、日本人の持つ原風景は母の胎内だということになる。
日本人が名所というものを考える時、場所ではなくテーマを問題にする。花と言えば吉野と言うときは、問題は吉野ではなく花である。紅葉と言えば竜田というときには、問題は竜田川ではなく紅葉である。
日本人はそのテーマをイメージして、その場所に行ったりそれを作ったりするので、ある有名な場所に見立てて庭を作るというのがそれである。
西洋の実証主義では現実と主観は全然違うという風になっていたが、そうではないという考え方が最近だんだん強くなってきた。主観と客観はある程度混ざっており、主観も客観もある論理上の理想にしか過ぎないことを意識して、もう一つ上の次元に上らなければならないということである。
物理学ではこれはある面では量子論に現れているが、他の色々な分野にも現れており、風土論もその一つである。
6 境界の重視と不完全性
日本の風土性のもう一つの特徴は、自然と空間の関係の中で「境界を大事にする」という傾向である。
たとえば日本家屋にある縁側というものは、外でも内でもない境界的・共有的なもので、日本文化の中では非常に大事にされている。
また、地域の大事なところ――たとえば神社――と町の間には、鎮守の森というような中間的な緩衝地帯がある。
鎮守の森は、ずっと前からあった自然的な森――今でいう照葉樹林の一つ――で、ずっと前の自然が町の真ん中に残っているのである。このようにある種の不完全性を重視することも、絵の中に「間(ま)」を残すなどというように、日本文化の特徴の一つである。
【参考文献】
「風土の日本」オギュスタン・ベルク著、筑摩書房、1988年9月発行