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ポパーは「批判」の重要性を強調してやまない。なにものをも権威として受け取らず、あらゆるものを批判的検討にかけようとする態度を採用することを勧める*1。
(立花希一「ポパーの批判的方法について」、ポパー哲学研究会編『批判的合理主義──第1巻:基本的諸問題』、未來社、2001年、p. 35)
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それでは、真理探究における批判的方法の正しいありかたとはどういうものであろうか。ポパーは次のように述べている*14。
〔批判は〕科学理論の〔真なることの〕証明や正当化をしたりするものに対する攻撃ではなく、理論自体への攻撃である。理論が真であることを示しうるという主張に対する攻撃ではなく、理論自体が語っているもの──その内容あるいはその帰結──に対する攻撃である。
すなわち、理論の帰結を批判的にテストし、誤謬を排除しながら、段階的により誤謬の少ない、したがってより真理に近づく理論を探す試みである。理論の真理はそもそも立証できない〔引用者註1〕から、誰にも正当化を要求しない。そしてどんな理論もさらなる改善の余地があることを認めつつ、現時点での批判的検討の結果、批判に耐えているとして暫定的にその理論を受け容れるのである。これがポパー流の「批判的合理主義者」の批判的探求法であり、理論の受容、拒否の仕方である。
(同上、pp. 40-41)
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ポパーの批判的方法の卓見は、正当化と批判を切り離したことにある〔引用者註2〕。バートリーは次のように述べている*15。
ほとんどすべての伝統的哲学および現代哲学では……批判の観念は正当化の観念と融合していた。……ポパーの立場の主要な独創性は、哲学史上最初の非正当化主義的な批判哲学であるという事実に存する。
(同上、p. 41)
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非正当化主義的な批判的方法では、ある理論を批判するさい、その理論の正当化の試みが成功していないという形の批判は排除される。また、批判するさいに用いる理論が妥当であることを正当化できなければ、それは批判の役目を果たさないという批判も、正当化主義的批判だ、として排除されるのである。
ある理論を批判するとき、われわれが行うことは、その理論から導出される帰結が偽であるかどうかをテストすることである。そのテストに用いられるテスト言明を真だと仮定する必要はない。原理的に、批判から免れる究極的な言明は存在しない。したがって、テスト言明も批判的検討を受けなければならない。テスト言明を批判するさいも、テスト言明から導出される帰結が偽であるかどうかテストする。テスト言明の場合には、帰結が限られているから、たちまち反証に成功するか、あるいは反証の試みが底をつくであろう。反証に失敗した場合には、現在のところ偽とみなすことはできないとして、暫定的に受け容れる。そして、テスト言明を受け容れれば、それと衝突している理論は反証されたものとみなすことができる。しかし、テスト言明が偽の可能性はつねに残っている。したがって、もし別の反証の方法が見つかった場合には、それを用いてテストすればよい。すべての批判は反証の試みである。その批判はひょっとしたら間違っているかもしれない。その場合には、その批判を反証しようとすればよい。したがって、批判の過程には、反証の試みの連続のみが存在する。そうした批判の過程では、反証の試みに成功しなかった結果として受け容れられた言明が残るであろう。例えば、「今、ここに、一つの机がある」という言明は、真であることを証明することはできないが──証明を要求し、できないとして批判するという方法は誤った批判の方法であり、その方法をとらないわれわれには、証明できないとしても問題は生じない──、反証の試みは失敗するであろう。したがって、もしかしたら真ではないかもしれないが、この言明を受け容れてもかまわない。
批判をするさいにも、なんらかの言明が真でなければならないと考えるひとは、すでに正当化主義的な思考様式に汚染されているのである。
(同上、p. 42)
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ポパーは、合理性=証明という図式を捨て、合理性=反証、批判の図式に取り替える。反証とは、結論から前提への偽の逆転送である〔引用者註3〕。ポパーの批判的方法は、真理所有の正当化の道具ではなく、真理探究の道具であり、偽を発見し、それを排除することによって真理に接近しようとするものである。
(同上、p. 44)
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〔02.07.05 引用者註〕
(1) 「理論の真理はそもそも立証できない」ということについては、ハンス・アルバートの「ほらふき男爵のトリレンマ」論が参考になります(小河原誠『討論的理性批判の冒険─ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 14-18 を参照されて下さい)。
(2) ポパーは以下のように言っています。
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しかし自然科学においておこなわれている種類の討論は、われわれ哲学者に別の種類の合理的討論が存在することを教えてくれたと言えるかもしれない。それは批判的討論であり、そこでは、とりわけなんらかの高次の前提から導出することによって、ある理論を証明したり正当化したり確立したりしようとすることはなく、議論の対象である理論を、その論理的帰結がすべて受け入れることのできるものかどうかを、あるいは望ましからぬ帰結が生じないかどうかを調べることによって、テストしようとするものなのである。
それゆえわれわれは、批判の誤った方法と正しい方法とを論理的に区別することができる。誤った方法は、われわれがどうすればテーゼや理論を確立あるいは正当化できるかという問いから始める。これによって、独断論か無限背進、あるいは合理的には共約不可能なフレームワークという相対主義的教義のいずれかに導かれるのである。これと対照的に、批判的討論の正しい方法は、テーゼや理論の帰結は何か、そしてその帰結は受け入れることができるものかどうかという問いから始めるのである。
(カール・R・ポパー「フレームワークの神話」、M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、pp. 116-117)
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(3) 「結論から前提への偽の逆転送」というのは、〈ある結論が偽であるということが明らかになったならば、前提からその結論を導きだした論理的推論が妥当であったかぎりにおいて、その結論を導くのに用いられた前提の中に、少なくとも一つは偽である命題が含まれていたことになる〉ということです。「非正当化主義の原理」は「批判の逆推移」ですが、これはこの「偽の逆転送(逆推移)」の拡張です(小河原誠『討論的理性批判の冒険―ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 79-84、及び、pp. 236-241 を参照)。
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(…)非正当化主義の原理は批判の逆推移性である。非正当化主義においては、思考の方向は、帰結から「基礎」へと進む。つまり、非正当化主義においては、もし帰結のうちに欠陥があるならば、論理的推論が妥当であったかぎりで、基礎(前提)のうちにも欠陥があると推論される。それゆえ、非正当化主義者は、このような非正当化主義的合理性を通じて、「基礎」のうちにおける欠陥の除去を試みる。
(小河原誠『討論的理性批判の冒険―ポパー哲学の新展開』、未來社、1993年、pp. 239-240)
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〔02.07.05 引用者付記〕
註(*印)は、引用を省略いたしました。
http://page.freett.com/Libra0000/114.html#1