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しかしもしこれが本当なら、合理性と非合理性の区別はどうなるでしょうか。精神の健全さと病気の違いはどうなるのでしょうか。
これは重大な問いです。そのおもな区別は、わたくしが言っているように、健全な人の信念は訂正不可能ではないということです。健全な人は、自分の信条を訂正する準備ができています。もっとも、しぶしぶ訂正するかもしれませんが、それでもかれは出来事の圧力のもとで、ほかの人が支持する意見の圧力のもとで、批判的討論の圧力のもとで自分の見解を訂正する準備ができています。
もしこれが本当なら、決定的に固定した見方をもつ人や「コミットした」人の精神は、狂人の精神に近いと言えます。こういう人の固定した意見のすべてが、そのときの利用できる最良の意見とたまたま一致しているという意味で「適切」だということがあるかもしれません。しかしコミットしているかぎり、こういう人は合理的ではありません。かれはいかなる変化にも抵抗するでしょうし、いかなる訂正にも抵抗するでしょう。そして、正確な真理を所有できない(だ( ,)れ( ,)も( ,)所( ,)有( ,)で( ,)き( ,)な( ,)い( ,))のだから、野蛮なまでに誤っている信念を合理的に訂正することにも抵抗するでしょう。たとえそうした訂正がかれの生涯のあいだに広く受け入れられるようになったとしても、それに抵抗するでしょう。
このように、コミットと非合理的信仰を称賛する人が自分たちを非合理主義者(あるいはポスト合理主義者)とするならば、わたくしはかれらに同意します。たとえ推論ができたとしても、か( ,)れ( ,)ら( ,)は( ,)非( ,)合( ,)理( ,)主( ,)義( ,)者( ,)で( ,)す( ,)。なぜならかれらは、自分たちの殻を打ち破れなくすることを誇りに思い、自らの偏執狂の囚人となることを誇りに思っているからです。かれらは、行為によって自らを精神的に不自由にしています。そしてかれらがそうした行為をとったことは、(精神分析学者にしたがえば)合理的に理解可能なものとして説明できます。それはたとえば、恐れ──自分たちの全生活の基礎にしている(あるいは基礎にしていると信じている)ために、あえて放棄しようとはしない見方を、批判によって放棄することを強いられるのではないかという恐れ──からコミットしている行為として理解可能だということです。(「自由なコミット」と狂信──これらは、われわれが知っているように、狂気と境を接しています──は、もっとも危険な仕方で関係しています。)
(カール・R・ポパー「モデル、道具、真理」、M・A・ナッターノ編『フレームワークの神話──科学と合理性の擁護』〔ポパー哲学研究会訳〕、未來社、1998年、pp. 312-313)
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個人的態度としての合理性は、信念を訂正する準備ができている態度のことです。これが知的に最高度に発達したかたちでは、合理性とは、自分の信念を批判的に論じ、ほかの人との批判的討論に照らして自分の信念を訂正する準備ができていることです。
(同上、p. 313)
http://page.freett.com/Libra0000/112.html