現在地 HOME > 掲示板 > 国家破産35 > 429.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 完全雇用のあとに何がくるか ジェ−ムス・ロバ−トソン(英国/経済学者) 投稿者 hou 日時 2004 年 6 月 06 日 11:18:25)
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/039.htm
第5編 資本主義経済を基礎とする西欧民族国家の世界制覇と東洋的専制主義の変容
39 産業革命=資本主義経済の世界制覇
[1]はじめに
ナポレオンがその主要な敵としたのはイギリスであった。しかし、彼はイギリスを屈服させることなく、ロシア遠征に倒れた。ナポレオンはなぜイギリスを主敵としたか。それは当時イギリスが産業革命を推進し、ヨーロッパにおける最強の勢力として成長しつつあったからである。18世紀後半、イギリスにおいて展開した産業革命は、資本主義経済を本格的に確立し、世界経済はイギリスを主軸として編成されつつあったのである。
[2]産業革命とはなにか
現代の世界は、経済的には資本主義が支配的となっている。資本主義の否定として構想された社会主義ないし共産主義は、今日、崩壊の過程をたどりつつある。かつて社会主義の立場からその命脈は尽きたかのように言われていた資本主義は、今日なお健在である。その資本主義を本格的に確立したものこそ、産業革命に他ならない。
封建社会の胎内にも、資本主義的経営の萌芽は存在していた。すなわち、問屋制家内工業やマニュファクチャー(工場制手工業)がそれである。問屋制家内工業とは、問屋が各家庭に生産手段を供与して賃労働をさせるものであって、一種の資本主義的経営である。しかし、それは工場をともなうものではなかった。マニュファクチャーは、資本家が工場に労働者を集め、「分業にもとづく協業」を行なうものであって、資本主義的経営ではあるが、生産は手工業によるものであって、大規模な生産力を実現するにはいたらなかったし、それによって資本主義が社会の支配的な生産様式となることもなかった。
だが、産業革命は、マニュファクチャーにとってかわる機械制大工業を実現し、ここに資本主義的生産様式を社会の支配的な生産様式としたのである。すなわち、主要な生産手段の道具から機械への転換と、それにともなうマニュファクチャーから機械制大工業への経営形態の転換が産業革命の基軸的な内容をなす。
[3]イギリスの産業革命
スペイン・ポルトガル海上帝国をオランダと協力して駆逐し、さらにオランダを追い落とし、海上の覇者となったイギリスであるが、当時イギリスのマニュファクチャーの主要な製品は毛織物であった。イギリス人自身の衣類は毛織物が中心であったから、それは当然であった。しかし、イギリスが主要な貿易相手国としたアフリカやアメリカでは毛織物は売れず、インド産のキャラコ(綿織物)に人気が集中した。はじめイギリスはインド産のキャラコの販売を行なっていたが、徐々にインド産のキャラコから、自前の綿製品の生産に力を入れるようになっていった。イギリスは、アフリカから奴隷を西インド、アメリカに輸出し、そこから原料綿花を輸入し、これを綿製品に加工してアフリカやアメリカに輸出した。こうしてイギリスは綿製品の生産において、インドと競争関係にたつことになったのである。綿製品の輸出が好調なことから、インド製品に対抗しうる安価な綿製品の大量生産がイギリスの課題となった。
ジョン・ケイが「飛び梭(ひ)」という織布作業機を発明し、これが1750−60年頃普及するようになると、糸の不足を生じ、紡績機械の発明が要請されるにいたった。1760年代に、ハーグリーブスがジェニー紡績機、アークライトが紡績機(ウォーターフレーム)をあいついで発明したが、1779年には、クロンプトンが両者の長所をとりいれてミュール紡績機を開発した。さらにこれが改良されて1825年には自動ミュールが生まれた。一方、紡績の生産力が上昇すれば、織布機械の改良が必要となり、1785年にカートライトが力織機を発明した。これらの機械が、ワットによって改良された蒸気機関と結合することにより、綿糸紡績業、綿織物業における機械制大工業が成立することになる。イングランド北西部のランカシャー地方には綿工業を中心とする工業都市マンチェスターが発展し、また綿花の輸入、綿製品の輸出港としてリバプールが繁栄することになる。ランカシャーが産業革命の発生地と言われる所以である。
産業革命の進行期には、農村では穀物需要の増大から地主による耕地、共有地の囲い込み(エンクロージャー)が行なわれ、土地を失った農民が工場労働者になっていった。この時のエンクロージャーを第二次エンクロージャーと言う(第一次エンクロージャーは、15−16世紀に、羊毛生産のため牧羊地として土地が囲い込まれ、社会問題となったものをさす)。産業革命期にイギリスの農業人口は急速に減少した。また、当時の工場労働者は、低賃金、長時間労働に苦しめられていた。
綿工業に起った産業革命はその後関連産業に波及し、製鉄業や石炭産業を発展させ、機械工業を発達させた。19世紀前半には、「石炭と鉄の総括」である鉄道業がブームとなった。
[4]イギリス綿業資本による世界経済の再編成
産業革命は、産業部門としては「綿工業」に起ったものであることが、注意されねばならない。イギリス国民の衣料品が元来毛織物中心であったことを考えれば、綿工業はもともと海外市場をあてにして発展したものである。しかも、原料綿花はそもそも熱帯ないし亜熱帯の産物であって、イギリス本土ではこれを収穫することができないものである。したがって、産業革命によって確立したイギリス資本主義とは、そもそも一国的に成立したものではなく、世界市場を基礎として成立したのであり、資本主義経済はその誕生のときから世界性を持ったものであったのである。
イギリスの産業革命はインドの手工業にもとづく綿工業を壊滅させ、インドをイギリスへの原料綿花の供給地の地位に転落させた。また、アメリカ合衆国南部の奴隷制プランテーションも、イギリスへの原料綿花の供給地であった。世界各地から輸入された原料綿花は「世界の工場」としてのイギリスにおいて綿製品に加工され、また、世界各地に輸出されていった。その場合、イギリスの旗印は「自由貿易」であり、自由貿易を認めない国に対しては、アヘン戦争に見られるように、武力で開国を強制することも辞さなかった。
こうして、イギリスに確立した資本主義経済は、古い共同体的秩序のなかにあった国々を外部から解体し、自己の市場に組み入れていったのである。このようにイギリスを中心とする世界経済が編成されていったが、そのなかでイギリスの植民地、あるいは従属国の地位に転落していく国々が多かった。もしそれを望まないならば、自ら産業革命を推進しイギリスに対抗しうる工業力の建設に努めなければならなかった。そしてそれに成功した国々がいわゆる資本主義列強として、その後の帝国主義時代の主役として登場してくるのである。
(参考文献)河野健二、飯沼二郎編「世界資本主義の形成」、同「世界資本主義の歴史構造」、他。