現在地 HOME > 掲示板 > 国家破産35 > 305.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
【ニューデリー=林英彰】インド総選挙(下院、定数545)で第1党となった国民会議派のマンモハン・シン元財務相は22日夕、ニューデリーの大統領官邸で宣誓し、首相に就任した。同時に閣僚・準閣僚約67人も宣誓し、シン内閣が誕生した。
シン氏はシーク教徒で、ヒンズー教徒以外の首相は、インド独立後初めて。
新政権を担う与党連合「統一進歩連合」(UPA)には、閣外協力を表明した共産党勢力を含め20政党が参加。ほかに3政党が支持を表明している。
シン氏は経済自由化を進める意向だが、改革に慎重な共産党勢力と、いかに折り合いをつけるかが課題となる。
[5月22日22時45分更新]
日経アジア賞<経済発展部門> マンモハン・シン元インド蔵相
[1997年5月14日]
「インドが進めているのは人類史に残るユニークな試みだ」。インドのマンモハン・シン元蔵相(上院議員、64)は経済自由化政策をこう表現する。
「9億人の国民が自由で民主的な政治制度を享受している。その中で大掛かりな経済改革が始まり、成長をもたらした。これがインド流の持ち味だ」――。
同じアジアの大国・中国は79年から同政策に着手、成果を収めた。インドでは91年にシン氏が蔵相に就任して自由化政策が本格化した。中国より10年以上遅れたが、同氏には中国へのライバル意識もある。
91年6月の蔵相就任まで政界歴はない。だが、大学教授や大蔵次官、中央銀行総裁などを歴任、インド経済を熟知していた。そんな“プロ”としての知識に当時のナラシマ・ラオ首相が着目、入閣を求めた。
当時のインドは、湾岸戦争で原油が高騰、ソ連崩壊で主要な貿易先も失うなど逆風に見舞われ、破たん寸前だった。インフレは二ケタ台に高進。外貨準備は輸入の二週間分の11億ドルへと落ち込んでいった。
蔵相就任には厳しい時期だった。官僚出身の閣僚は独立以来2人目で、与党内からも蔵相起用に反対の声が上がった。だが「経済危機を逆手に取れば(改革の)大手術も可能なはず」と就任要請を受諾した。
就任後、ラオ氏の信頼を背に矢継ぎ早に荒療治に踏み切る。外資規制緩和、産業許認可制の撤廃、財政支出削減、通貨切り下げ、国営企業の民営化――などによってぬるま湯体質の経済に大なたを振るった。
その結果、輸出や外資進出が急増するなど経済は息を吹き返し、国内総生産(GDP)の伸び率は91年度の0.9%から95年度には7%へ上昇。インフレは鎮静化し、外貨準備高は170億ドルになった。
95年、国会での経済報告でシン氏は「インドは危機を克服した」と宣言。そのらつ腕ぶりから「改革の設計師」(英エコノミスト誌)とまで称賛された。
インドは独立以来、閉鎖的・統制的な経済政策にこだわった。英植民地時代の苦い経験から外資を嫌う面もあった。だが80年代のアジアの経済興隆を見て、シン氏は「インドも方針転換すべきだ」と決意した。
与党・国民会議派は96年春の総選挙で敗北し、同氏は蔵相を辞した。だが先べんをつけた自由化路線は今も受け継がれている。「時計の針は戻せない」と話す表情に“設計師”としての自負も垣間見える。
敬けんなシーク教徒。飾らぬ清廉な人柄に国民の人気も高い。ニューデリーの執務室では訪問者の上着をハンガーに掛ける気配りも見せる。
「1歳未満の乳児が数多く死んでいった」。少年時代から周囲の貧困に頭を悩ませた。「貧困解決の道筋を提示し、故郷に貢献したかった」。経済学を志した理由である。
蔵相時代の成果には決して甘んじていない。マクロ指標は好転、国民生活も全般に豊かになったが、インドには3億人以上の貧困層が存在するといわれる。
今後の目標は、全国民が繁栄を享受できる公正な社会を実現すること。「現代の政治家にはプロの知識と分析力が欠かせない」と話すあたり、次の“出番”を静かに待っているようにも見える。(アジア部 牛山隆一)
<略歴>
1932年パンジャブ生まれ。54年パンジャブ大学で経済学修士号、62年英オックスフォード大学で経済学博士号をそれぞれ取得。国連勤務、デリー大学教授などを経て、76年から80年まで大蔵次官。82年インド準備銀行総裁、90年首相経済顧問。91年から96年まで蔵相。現在は上院議員。「インドの輸出動向と自立成長の展望」(64年)など著書多数。