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階級闘争の論理の復権こそ求められている
二月十日、小泉政権は年金大改悪案を閣議決定した。今国会での成立をねらっている。それは、労働者人民が長い歴史の中で闘いとってきた、老後の最低限の生活を維持する権利としての年金制度を、全面的に堀り崩そうとするものである。資本主義が改良の余地がなくなったことを表現するこの大改悪案に、「年金の合理的な制度設計」を対置しても意味はない。問われているのは階級闘争の復権である。
どんな大改悪案が提出されたのか
二月十日、小泉政権は国民年金と厚生年金の保険料負担を大幅に引き上げ、給付を大幅に減らすなどの大改悪案を閣議決定し、国会に提出した。
改悪案の大要は、厚生年金保険料については現行の一三・五八%から毎年〇・三五四%ずつ引き上げ、二〇一七年度以降は一八・三〇%(労使折半で負担)で固定される。坂口厚生労働相の国会答弁では、労働者の負担は一人平均一年で一万円ぐらいずつ毎年増え、最終的には年間十二万円もの負担増ということになる。
国民年金保険料負担は、現行の月額一万三千三百円(年間十五万九千六百円)が毎月二百八十円(年間三千三百六十円)ずつ引き上げられ、二〇一七年には月額一万六千九百円(年間二十万二千八百円)に引き上げられる。負担増は年間四万三千二百円にもなる。
これに対して給付の方は「マクロ経済スライド」なる方式の導入によって大幅減少となる。「少子化」とリストラで公的年金の加入者が減少すれば自動的に給付額を引き下げ、「高齢化」で年金受給期間が伸びると自動的に給付額を引き下げるのである。厚生労働省の試算では、二〇二三年度にはマクロ経済スライドを導入しない場合と比べて実質一五%の給付減となる。デフレで物価が下がり、賃下げが押しつけられて賃金水準が下がった場合も自動的に給付額が引き下げられる。
厚生年金では、「モデル世帯」(夫は四十年間サラリーマンで可処分所得月額四十万一千円、ボーナス込み。妻は専業主婦)の場合、給付水準は現役平均所得の五九・四%(二十三万八千円)の現行水準から、五〇・二%への引き下げとなる。現行の給付水準からの削減額は、夫婦で四万五千円程度という。
あらゆるところで指摘されているように、年功賃金の夫と専業主婦で二人とも四十年間加入したことになるような所帯は、むしろ少数派である。四十年間厚生年金に加入する人は、全体の二割程度に過ぎない。政府が強調する現役世代の「五〇%」水準の年金を受け取れる人は、ごく一部に過ぎないのだ。そして四十年間加入していても、夫婦共働きや男性単身者所帯では、厚労省の試算でも給付水準は現役世代の三〇%台に落ち込む。
女性の厚生年金は、差別的低賃金や出産・育児・介護などの家事労働の負担による加入期間の短さなどによって、男性労働者に比べて極めて低い。平均で月十二万五千円で、二七・四%が月十万円以下という低い水準である。この女性の極めて低い厚生年金も、「マクロ経済スライド」で自動的に切り下げられ続けることになる。
国民年金は、現在でも毎月一万三千三百円を四十年間払い終えて、ようやく満額の月六万六千四百円(たったの!)を受け取ることができる。しかも、保険料を払い続けてきた期間が二十五年間に一カ月でも足りなければ、「受給資格」を得られず一円も年金を受け取れないという、世界でもほとんど例がないほど受給資格が厳しく受け取れる額も少ない、基礎年金というには極めて不十分な制度である。平均の受給額は月にわずかに四万六千円である。
収入が年金だけという所帯は、年金を受給している高齢者所帯の五九・六%を占めている。国民年金だけしか受給していない人は〇一年末で約八百九十万人、そのうち四六%もの人々の受給額が月三万円台の極度に低い水準にとどまっている。
この、最低限度の生活もとうてい維持できない国民年金の給付水準からも、「マクロ経済スライド」で自動的に実質一五%もカットされる。しかも、国民の基礎年金に対する政府の責任を強化するために国庫負担の比率を現在の「三分の一」から「二分の一」に引き上げるという、十年前に国会で決まってとっくに実行されていなければならないはずの約束を、〇九年度までさらに先送りしてしまった。
そしてその実行の前提として、必要とされる二兆七千億円の財源を確保するために、消費税大増税を意味する「抜本的税制改革の実現」がうたわれている。年金収入だけに頼る貧困な高齢者所帯の生計に最も大きな打撃を与える消費税大増税による「年金基盤の強化」! 高齢者は「タコ足食い」を強制されるのである。その上、介護保険の負担増、高齢者医療の負担増など、「小泉構造改革」にもとづくあらゆる大衆収奪政策がのしかかっている。
「女性の年金権確立」?
今回の年金改悪にあたって、「女性の年金権確立」をうたい文句にした、パート労働者への厚生年金適用も焦点の一つになっていた。
厚生労働省で検討されていた案では、現在のパートなど短時間労働者の厚生年金加入基準を、現行の「通常労働者の労働時間・日数の四分の三以上」から、「労働時間が週二十時間以上、または年収六十五万円以上」に変更するというものだった。厚生労働省はこれで厚生年金加入者(保険料負担者)を四百万人増やせると見込んでいた。
この案にもとづく厚生労働省の試算では、月七万円のパート収入で保険料労働者負担は月六千五百円ということになる。そして二〇一七年まで毎年上がり続ける年金保険料を、今後四十年間も支払い続けて、受け取れるのは月額一万五千円。加入期間が十年間だと月額五千円程度にしかならない。
現在、夫の扶養家族の範囲でパート労働に従事している中高年女性に適用されれば、当然にも加入期間は短くならざるを得ない。そのため、毎月支払った保険料よりはるかに少ない年金しか受け取れず、しかも被扶養者からはずれるために健康保険の保険料もとられ、四十歳以上なら介護保険料もとられ、夫の家族手当や税の控除もなくなってしまうのだ。それは、四百万人から各種保険料を取り立てついでに増税もしてしまおうという、とんでもない改悪案だった。
このパート労働への厚生年金適用は、低賃金のパート労働搾取に依拠する流通業界などが、新たに発生する保険料負担を恐れて猛烈に抵抗したために、週労働時間が二十時間以上の労働者も加入対象とするなどの適用拡大の「五年後実施を検討する」ところにとどまった。しかし、あらゆる低賃金労働からも保険料を取り立てようとする姿勢は堅持されている。これが小泉政権の年金大改悪なのだ。
「構造改革」、グローバル化と年金制度の危機
〇一年から〇二年の一年間だけで、社員五百人以上の大企業の雇用総数は百十八万人も減少した。あらゆる業種で大リストラが進行している。正規雇用をパートや派遣などの無権利・低賃金雇用に替える動きが進行し、グローバル化で生産の海外移転が雪崩を打って進んでいる。
多数の労働者が職場から放り出され、残った労働者は違法な「サービス残業」と過労死労働を強制されている。小泉政権が押し進めた各種の企業法制改悪や労働法制改悪が、大リストラを支援し促進した。当然のことながら、厚生年金の加入者は大幅に減り続ける。
厚生労働省は九九年の年金改悪の際、〇一年度の厚生年金被保険者の数は三千四百四十万人、保険料収入は二十三兆四千億円になると予測していた。ところが実績は、被保険者数はわずか二年で予測より二百八十二万人も少ない三千百五十八万人となり、保険料収入も一兆八千億円も少ない二十一兆六千億円になって、財政収支も赤字に転落した。
国家公務員、地方公務員を問わず、公務員のリストラもすさまじい。埼玉県志木市は今後二十年間、原則として正職員の新規採用を一切せず、毎年退職者の一・五倍の「行政パートナー」を時給七百円で雇うことで代替していき、いずれは市民病院の医師などの専門職と管理職以外のすべての市職員を「パートナー」にしてしまう計画である。
群馬県大田市では、時給五百八十円(県の最低賃金六百四十四円以下!)の「行政サポーターズ」が、すでに市役所や福祉・文化施設で百六十二人働いている(朝日新聞03年5月13日)。全国で続くこのような公務員大リストラは、共済年金加入者を大幅に減らし続けている。
その一方で国民年金加入者(一号被保険者)数は、〇一年には九九年に厚労省が予測した千八百万人を四百万人も上回る大幅な増加となり、二千二百七万人に膨れ上がっていた。このうち自営業者は九百七十三万人で全体の四四%に過ぎず、残り千二百三十四万人は無業者やフリーター、学生など自営業者以外の人々である。加入義務があるにもかかわらず、保険料負担を嫌って厚生年金から脱退する企業が増加しているため、国民年金に移る労働者も増えている。
そしてこのように激増した国民年金加入者のなかで、〇二年度に保険料を払わなかった人の率(未納率)は三七・二%に達している。この「未納率」は免除者などが除かれており、実際には四割以上の人が保険料を納めていないのである。沖縄の未納率はなんと六一・三%、三分の二もの人々が国民年金保険料を納めていない。。二十〜二十四歳の青年層の未納率は全国で五二・六%という状態になっている。
内閣府が発表した「国民生活白書」(〇三年度版)では、働く意思があっても正社員としての職を得られない三十四歳までの若年フリーターが、〇一年には四百十七万人に達したと報告されていた。このような若年フリーターの六割余りが年収五十万〜二百万円とされている。年収五十万では、年額十五万九千六百円の国民年金保険料を払うのは困難である。
先の社会保険庁の調査では、未納者に理由をたずねたところ、「保険料が高く経済的に支払うのが困難」が最多で六四・五%、「国民年金をあてにしていない、あてにできない」が一五・〇%、「支払う保険料に比べて受け取る年金額が少ない」が四・五%と続いた。広がり続ける貧困と年金制度への不信が、国民年金を空洞化させているのである。
「年金危機」はなぜ激化したか
「年金制度の危機」が激化した理由ははっきりしている。
第一に前項で詳しく述べたように、資本のグローバル化に対応する小泉「構造改革」が促進した大企業と公務員の大リストラによる失業者の増大と不安定雇用化の進行、小泉の「不良債権処理加速」政策が「加速」した「貸しはがし」で激増した中小企業の倒産が、厚生年金の加入者を減らし、共済年金の加入者を減らし、国民年金の保険料も払えない低所得者層を大幅に増大させたからである。
第二に、改悪につぐ制度改悪のなかで「年金不信」が激化しているからである。六十歳だった支給開始年齢は、すでに六十五歳に先送りされている。昨年九月の自民党総裁選直後、小泉は坂口厚労相に支給開始年齢を六十七歳にすることを検討するよう指示している。理由はなんと、「平均寿命が延びたから」だという。小泉政権にとって、「長生きは罪」なのだ。
まさに「逃げ水」である。「年金を受け取れるまで自分は生きていられるのだろうか。たとえ受け取れても、それで生活できるはずがない」。若い世代ほど、このような不安と不信は強い。小泉政権とブルジョアマスコミが、年金改悪促進のために「世代間対立」をあおり、高齢者ほど得をして若い世代ほどますます損をさせられるかのようにキャンペーンしたことによって、若い世代の「年金不信」はさらに徹底的に増幅された。
第三に、政府が行ってきた年金積立金を投入する株価操作(PKO)や、年金資金を投入して全国十三カ所に建設した大規模保養施設グリーンピアに象徴される乱脈なゼネコン政治が、年金財政に打撃を与え続けてきたからである。
政府が行った株式などによる年金積立金の運用は、〇二年度だけで三兆円もの赤字を出した。三十兆円も投入した株式の運用などによる損失は累積で六兆円を超えている。しかし株式運用を委託されている金融機関には、年金資金にいくら損失を出させても巨額の手数料収入がガッポリ入るのだ。そして政府は、〇八年までに百何十兆円もの積立金すべてを「自主運用」とし、金融機関に投機資金として提供しようとしているのである。たとえ投機に失敗して年金資金に取り返しのつかない大穴を開けてしまっても、金融機関には何百億円から一千億円を超えるという手数料収入が転がり込む。
グリーンピアの建設と運営をはじめとする「副業」には、累積で三兆三千億円もの年金積立金が注ぎ込まれた。そしてこれらの「副業」施設や機関には、多数の厚生官僚が天下ってきた。社会保険庁によれば、〇二年には施設の九七%が事実上、赤字だという。政府与党はこれら二百六十五の施設の大半を二束三文で処分する方針である。最悪の場合、二兆九千億円が焦げつくという試算もされている。
このように年金制度は、小泉政権と財界によって掘り崩され、食い物にされたことによって危機を深めてきた。小泉と財界は自ら激化させた口実に、より一層の大改悪を押しつけ、労働者人民の老後の最低限の生活を保障する制度としての年金を、根本から破壊しようとしているのである。
社会保障、年金制度、階級闘争
資本主義社会における今日の公的年金とは、労働者人民が「自己責任」で支払った保険料を政府や企業に運用してもらい、高齢になってから負担に見合った分を返してもらうなどという制度ではない。それは、年寄りが若者に養ってもらう「世代間扶養」とか「世代間連帯」などのシステムでもなく、老後の生活を「国民みんなで負担し合う」システムでもない。
資本主義社会における年金制度は、失業保険(保障)、労災保険(保障)、医療保険(保障)などと同様に、労働者人民が労働運動を軸にした長い闘いの歴史のなかで獲得してきたものであり、高齢になってリタイアした後の生活を政府と資本に保障させる制度として闘い取られ、充実化されてきたのである。
資本主義社会において労働者階級は、商品としての労働力を売る以外に生活手段を獲得することができない。解雇されて失業すれば、病気や労働災害で労働不能の状態になれば、高齢になって働き続けることができなくなれば、生活する手段を失ってしまうのだ。
しかし形成期の資本主義においては、職を得ることができずに極貧状態に陥った労働者は、「自由競争社会」のなかで「自助努力」をしなかった「災いとなる余計者」「犯罪者」として扱われた。
最初に資本主義が形作られたイギリスでは、支配体制を確立したブルジョアジーが一八三四年に新救貧法を制定し、生活手段を失った極貧の労働者階級を、各所に建設した「救貧院」に有無を言わせずたたき込んだ。新救貧法は、それ以前の「貧者への施し」を軸にした救貧法とは異なって、「自助努力」を怠ったものとして貧者を懲罰するという性格を持ち、「救貧院」の処遇は監獄よりはるかに過酷なものだった。
若きエンゲルスは、『イギリスにおける労働者階級の状態』のなかで、あるいは餓死させられ、あるいは病気になって治療もされずにトイレもない部屋で放置されて死んでいくなどの「救貧院」の悲惨な状況を詳しく描き、「すべての人を恐怖させずにはおかないほどのもの」だとして、新救貧法とブルジョアジーを厳しく告発している。救貧法廃止を求める闘いは、労働運動が広がる大きな契機の一つとなった。
ブルジョアジーは、さまざまな理由で仕事につくことができず極貧にあえぐ労働者を救貧法で「処罰」的に取り扱う一方で、上層の労働者が病気やけがや老齢化などで収入を絶たれる場合に備えて、賃金の一部を拠出しあって相互扶助を行う保険組織としての「友愛組合」制度を保護し、奨励した。まさにそれが、労働者階級を生存の危機に追い込む資本と資本家政府の責任を問うこともなく、負担を求めることもない、労働者が「自己責任」「自助努力」で運営するシステムであったからである。
しかし景気過熱と恐慌を繰り返す資本主義社会のなかで、労働力を売ることしかできない労働者階級が、さまざまな理由で労働不能の状態に陥り、生活手段を得ることができないという危機がいつ訪れてもおかしくない。このような生存の危機に、労働者階級が「自己責任」「自助努力」だけで対処することはそもそも不可能であった。
十九世紀中盤から二十世紀にかけて世界に大きく広がっていった労働運動は、労働時間の短縮や児童労働の禁止や労働組合運動の権利の確立などとともに、労災や病気や高齢化などで労働能力を失ったり失業した場合に備えた、労災保険、失業保険、疾病保険、老齢年金などの社会保険制度を獲得していった。
その特徴は、ビスマルク時代のドイツで始まった労災保険が全額雇用者負担であったように、労働者の「自己責任」「自助努力」によるものではなく、全部であれ一部であれ、国庫負担や雇用者の保険料負担が必ず含まれていたことである。政府と雇用者には当然にも労働者の最低限の生活を保障する責任があるという考え方と、そのような考え方にもとづく制度が、しだいに確立していったのである。
「世界で初めて『社会保障』という用語が公式に用いられたのは、ロシア革命直後の一九一八年十月三十一日にソビエト政府が勤労者を対象に制定した『社会保障規則』においてであった。その考え方の基礎をすえたのはレーニンの『労働者保険綱領』である」(工藤恒夫『資本制社会保障の一般理論』新日本出版社)。
レーニンが、一九一七年の第七回全国協議会で「労働者保険綱領」の基礎として再確認した、一九一二年の「国営労働者保険に関する国会法案に対する態度について」(別掲)は、今日でもわれわれの社会保障政策の出発点である。
ロシア革命の勝利と国際階級闘争の発展のなかで、労働者階級と人民の権利としての社会保障制度は広がり、充実化されていく。ヨーロッパの「福祉国家」政策が、労働運動を軸にした闘いの成果であると同時に、社会主義革命運動に対抗するために各国政府が取らざるを得なかった政策であることは、常に指摘されてきた(このような社会保障制度の歴史については、工藤前掲書に詳しい)。
すなわち、年金問題に対する政策の出発点は、今日の「少子高齢化」に対応した合理的な「制度設計」をどのように考えるかなどということではない。新自由主義的グローバリゼーションを押し進める政府と資本に対決して、労働者人民の生存権を保障させるという階級闘争の立場から出発しなければならない。
どんな年金制度が必要なのか
日本経団連の奥田会長は、年金を含む社会保障制度の企業負担を全廃し、すべてを労働者の保険料負担と消費税増税でまかなえと主張しており、毎年一%ずつ消費税率を引き上げて一六%にせよと「提言」している。すなわち、労働者の直接的自己負担と、低所得者ほど相対的に負担が重くなる消費税で年金などの社会保障費をまかなえというわけだ。
マスコミは、「これからはもう年金には頼れない。年金に頼らずにどう生きるか」などという特集記事を組んでいる。あらゆる社会保障を民営化しようとする動きが進行し、労災保険まで民営化の目標にすえられている。小泉政権と財界は、生活手段を失った労働者に「自己責任による救済」を要求した十九世紀の「自由主義時代の資本主義」に舞い戻るかのような攻撃を強めている。まさに「新自由主義」そのものである。
「国民年金法」には、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」としての「国民の生存権」と「国の社会保障義務」を定めた憲法二十五条にもとづいていると明記されている。同様に、憲法二十五条にもとづいて生活保護制度が存在する。生活保護費は東京の場合、十八歳・単身で生活扶助と住宅扶助をあわせて十四万一千円、全国平均では約十万円である。これでも「健康で文化的な最低限度の生活」が営めるかは疑問な額である。
最初に指摘したように国民年金の全国平均支給額は約四万六千円、国民年金しか受け取っていない約八百九十万人のうち、その四六%が三万円台の極度に低い受給額にとどまっている。収入が年金だけという所帯は、高齢者所帯の五九・六%にのぼっている。この現実は、政府が責任を放棄することによって、憲法で保障された「国民の生存権」を著しく侵害していることを示すものである。
国民年金の支給額は、ただちに少なくとも東京の生活保護支給額と同水準の十五万円程度に引き上げられ、その後も充実が図られるべきであろう。そして基礎年金としての国民年金は、税制民主主義の「応能負担原則」にもとづいて累進制を強化した所得税と、法人税によってまかなわれるべきであり、一人一人の保険料負担は廃止しなければならない。
基礎年金を実施している国の多くは、保険でなく税で制度を支えている。したがって、その国に一定期間居住し、一定年齢に達すれば受給することができるのである。充実した基礎年金を柱にした制度への根本的転換をめざすことが必要である。
年金のいわゆる「一階部分」である基礎年金が十分に手厚くなり、医療費や介護費用などがヨーロッパ諸国のように無料かそれに近い状態になれば、大多数の労働者にとって「二階部分」としての厚生年金の役割は付随的なものに低下するだろう。それ以上を望む資金的に余裕のある上層労働者や金持ちは、それこそ「自己責任」でまかなえば良い。
新たな年金制度のために何が必要か
憲法の「最低限度の生活の保障」を実現する基礎的年金制度を抜本的に強化する財源を確保するために、必要なのは以下の諸点である。
第一に、金持ち大減税、大企業大減税の流れを逆転させなければならない。八〇年代末まで七〇%であった所得税の最高税率は、いまでは三七%へ引き下げられ、同じく四二%であった法人税率は三〇%に引き下げられている。今よりはるかに高い税率でも、ブルジョアジーは大もうけを続けていたし、高度経済成長も実現したし、八〇年代後半にはバブルにわいて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を謳歌してさえいたのである。
法人税と所得税の税率と累進制のカーブをもとに戻し、それによる税収増を年金に充てなければならない。日本は、社会保障に対する企業の負担が最も少ない国の一つである。本社のタックスヘイブン(租税回避地)への逃避を許さず、雇用への社会的責任を果たさせて工場海外移転などを厳しく規制する法的処置が必要である。
第二に、年間五兆円を超える軍事費と年間一兆円を超える軍人恩給を全面的に削ることが必要である。「健康で文化的な最低限度の生活」を十分に満たし得るほどに基礎年金が抜本的に強化されれば、旧帝国軍隊内階級差別にもとづく反動的な軍人恩給制度を存続させる理由は全くなくなるだろう。
第三に、国と地方を合わせれば年間六兆円にもなる道路特定財源を一般財源化するとともに、有害無益なゼネコン政治による公共事業費の莫大な浪費をやめて年金に振り向けなければならない。人口とGDPが日本の二倍で、面積にいたっては二十五倍もあるアメリカより、日本の公共事業費の方がはるかに多いという異常な事態を続けさせてはならない。
そして第四に、厚生年金百七十五兆円、国と地方の共済年金四十五兆円などの、世界の年金制度に例のない巨額の積立金を計画的に取り崩し、年金制度を抜本的に転換する費用に充てるべきである。東京の生活保護給付と同等の月額十五万円の水準まで、国民年金給付額をただちに引き上げるための財源は十二分にある。
社会保障給付の対国民所得費でみると、厚生労働省のデータでもスウェーデンが四五・九%、フランス四一・二%、ドイツ三七・七%、イギリス二九・七%に対して、日本はそれらの三分の一から半分程度の一七・四%である。新自由主義のリーダーであるはずのアメリカの一九・四%よりも低い。
この数字は、日本の社会保障がいかに低水準か、いかに新自由主義的「自己責任」の論理で社会保障が踏みにじられてきたかを示して余りある。しかも小泉は、この超低水準からさらに引き下げようとしているのだ。それは、日本が世界の主要国で唯一の「社会的影響力のある大衆的ストライキの起きない国」になってしまったという、極めて否定的な状況の反映である。
第二次大戦後に形成された現代資本主義が歴史的発展の可能性を使い果たし、新自由主義が全世界的に吹き荒れている。それは、生命力を枯渇させつつある現代資本主義が、賃下げと「福祉国家」の解体によって利潤率を回復し生き延びようとしていることを示している。
ドイツやフランスやイタリアなどでも医療や失業保障や年金などの社会保障制度に対する攻撃が強まっているが、どこでも反撃の巨大なストライキや街頭デモの波が繰り返されている。それは、危機に陥った資本主義支配体制から、階級闘争の歴史的成果を防衛しようとする闘いである。生存権を保障し得る基礎年金の抜本的強化を求めて、ヨーロッパの労働者のような闘いを作り出そうと訴えなければならない。
多くの人々が、われわれの主張について「空想的で現実的ではない」というだろう。しかし、雑誌『世界』などで良心的経済学者たちが主張している「低所得者に優しい」年金制度をめざすさまざまなプランも、資本主義がこれまでの労働者の闘いの成果を奪い取ることによって延命しようとする今日のような情勢では、十分に空想的である。政府や財界の「善意」は、ますます期待できなくなっているからである。
「空想的」か「現実的」かは、今日のような情勢のもとでは階級闘争の力関係にかかっている。「もし資本主義が、自ら生み出した災難から必然的に起こってくるこれらの諸要求を満たし得ないのであれば、そのとき資本主義はよろしく滅びさるがよかろう。『実現可能』か『実現不可能』かは、現在の場合、力関係の問題であり、この力関係はただ闘争によってのみ決定することができる。その直接的な現実の成功がいかなるものであろうとも、このための闘争によって、労働者は資本主義的奴隷制を清算すべきことを最もよく理解することになるだろう」(トロツキー『過渡的綱領』)。
求められているのは階級闘争の論理の復権である。グローバリゼーションと対決し、巨大なストライキや街頭デモとして展開されているフランスやイタリアやドイツの年金改悪阻止闘争に学び、政府と資本に対して憲法で保障された「国民の生存権、国の社会保障義務」に見合うように基礎年金の抜本的強化を実現するよう、要求しなければならない。
(2月29日 高島義一)
http://www.jrcl.net/web/frame040315c.html