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3.日本の原子力政策の軍事的側面 藤田祐幸(慶応大)
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投稿者 ネオファイト 日時 2004 年 6 月 21 日 11:33:38:ihQQ4EJsQUa/w
 

(回答先: 2004年日本物理学会第59回年次大会 社会的責任シンポジウム 現代の戦争と物理学者の倫理とは 投稿者 ネオファイト 日時 2004 年 6 月 21 日 11:20:17)

日本の原子力政策の軍事的側面 藤田祐幸(慶応大)

1.学術会議の二つの声明
日本学術会議は1949年1月22日に設立第一回総会を開催し、冒頭羽仁五郎の発議により、発足に当たっての声明が採択された。「(前略)われわれは、これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であると言う確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである。(後略)」。

さらに学術会議は50年4月、第6階総会において「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」を採択した。「日本学術会議は、1949年1月、その創立に当たってこれまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに科学を文化国家、世界平和の基礎たらしめようとする固い決意を内外に表明した。われわれは、文化国家の建設者として、はたまた世界平和の使徒として、ふたたび戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、先の声明を実現し、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないと言うわれわれの固い決意を表明する」。

敗戦直後の科学者の戦争に対する反省と、平和主義の姿勢が率直にここに表明されているが、『これまでわが国の科学者がとりきたった態度』とは何か、『戦争を目的とする科学の研究に絶対に従わない』ために何をすべきか、明らかにされないままの、精神規定に終わっていた。

[投稿者注:精神規定ってのは要するに一億総懺悔のポーズ。]

2.茅・伏見提案と三村演説
1952年10月24日、茅・伏見は学術会議に「原子力委員会を政府に設置すること」を提案した。いわゆる『茅・伏見提案』である。これに対し、広島大の理論物理学研究所三村剛昴会員が反対の演説を行った。三村は広島の惨状を話したあとで、「だからわれわれ日本人は、この残虐なものは使うべきものでない。この残虐なものを使った相手は、相手を人間と思っておらぬ。相手を人間と思っておらぬから初めて落し得るのでありまして、相手を人間と思っておるなら、落し得るものではないと私は思うのであります。ただ普通に考えると、二十万人の人が死んだ、量的に大きかったかと思うが、量ではなしに質が非常に違うのであります。しかも原子力の研究は、ひとたび間違うとすぐそこに持って行く。しかも発電する―さっきも伏見会員が発電々々と盛んに言われましたが、相当発電するものがありますと一夜にしてそれが原爆に化するのであります。それが原爆に化するのは最も危険なことでありましていけない。」と述べて原子力の研究に取り組むのは米ソの緊張が解けるまで待つべきであると主張した。会場は静まり返り、伏見は提案そのものを撤回せざるを得なかった。

しかし、「一夜にしてそれが原爆に化する」とはどういうことなのか、そうさせないためにはどうすれば良いのか、そのような議論は行われないまま、三村議員の素朴な、あまりにも素朴な反対意見の前に学術会議は沈黙した。

3.科学技術庁構想
茅伏見提案の半年前、講和発効と前後して、吉田茂率いる自由党に不穏な動きがあった。1952年4月20日の読売新聞に「(政府は)再軍備兵器生産に備えて科学技術庁を新設するよう具体案の作成を指令した」と報じ、日本産業協議会月報五月号には提案者である前田正男の論文を掲載している。

前田論文は冒頭「敗戦直後鈴木総理大臣は『今次戦争は科学によって敗れた。今度こそ科学を振興して日本の再建を図らねばならぬ』と力説せられたことを記憶している。その後約七年も経過したが、国民はこの科学振興に如何程の努力を拂い、その結果科学の振興が、如何程実行されたか、深く反省する必要がある」と書き出し、前田が51年に米国の科学技術の立法行政の視察した折の経験を披瀝している。「従来米国においても陸海軍関係の研究機関と民間研究機関(大学を含む)との連絡不十分であった。そのため、互いに研究成果を秘密にし、研究の連絡をしなかったため多額の国費を無駄に使用し、かつ充分の成果を短時間に得ることが出来なかった。そこで1947年陸海空の三省を併合して国防省とした際、国防省の内に科学技術振興院を設置し、軍事研究に関して政府所属機関の研究及び委託研究の大綱を統制し、各所における有効利用をはかっている」ことを紹介した上で、「このことは単に米国の軍事研究のみの問題でなく、広く自由主義諸国の間にも推し進めて行きたい」との米国側の要望を伝えたうえで、日本にも科学技術庁の新設が、科学の研究費不足と研究、連絡の不能率を克服するため必要であることを論じている。

それによれば、科学技術庁の任務は、1.科学技術の基本的セ施策の統合企画立案、2.関係行政機関の間の事務の総合調整、3.科学技術研究費の査定、調整、4.科学技術情報の収集周知宣伝、5.特に必要な総合研究及び連絡調整、であり、性格は総理府の外局で、長官には国務大臣を当て、付属機関として科学技術情報所と中央科学技術特別研究所を持つ。

前田は6月にこの案を学術会議に持ち込み、そのとき、中央科学技術特別研究所の目的は「原子力兵器を含む科学兵器の研究、原子動力の研究、航空機の研究」にあるという「部外秘」情報をもらしたと伝えられている(日本の原子力問題、民主主義科学者協会物理部会監修、理論社刊、1953年4月25日、p21)。もちろんこのことは伏せられた。

[投稿者注:物理学会では軍事機関との共同研究や軍事目的研究は禁止されており、化学会や応用物理学会も同様の規定があるだろう。レーガンの時代にスターウォーズ関連で高強度固体レーザーの研究をしていた研究者は猛烈な批判も浴びていた。しかし、その成果が現在のテラワット(10の12乗W毎平方cm)レーザーとして超短パルスレーザーや核融合実験として利用されている(それも核拡散だな)。アメリカでは、爆薬の研究に使えると軍の予算を取ってきて趣味の有機化学合成をしていた学者もいるくらい、学者と軍事機関はオープンに持ちつ持たれつの関係である。]

3.中曽根予算
中曽根康弘は1945年8月6日、高松で広島のきのこ雲を遠望した。「私が戦争中海軍に動員されて高松にいた時、広島の原爆雲を見た。この時私は、次の時代は原子力の時代になると直感した」(中曽根康弘「政治と人生―中曽根康弘回顧録」講談社(1922)p75)と述べている。高松から広島の爆心地までは150キロほどの距離がある。原子雲のかなたに原子力発電の未来を見たということに、筆者は懐疑的である。このとき彼の目に見えていたのはやはり原子爆弾だったのではなかろうか。

1953年、復員後政治家になった中曽根に、マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属していたコールトンが接近し、ハーバード大学で開催されたキッシンジャーの主催するセミナーに招聘された。セミナーの帰路、中曽根は、コロンビア大学に留学していた旭硝子ニューヨーク駐在員の山本英雄に会って原子力の情報を仕入れた。山本は、「彼はとりわけ原子力兵器、しかも小型の核兵器開発に興味を持っていました。中曽根氏は再軍備論者でしたから、将来、日本も核兵器が必要になると考えていたのかも知れません」と語った。

帰国後中曽根は、川崎秀二、椎熊三郎、桜内義雄、稲葉修、際等憲三などと諮り、原子力予算の準備を始めた。当時中曽根は改進党に属していたが、自由党派過半数を割り、改進党などの同意無く予算審議を進めることはできなかった。改進党の修正予算規模は五十億円、そのうち原子力関係として3億円を提示し、3月1日の三党折衝であっさりと承認された。ことが簡単に妥結したのは、提案者を除く折衝議員の原子力に対する理解不足がその原因であった(原子力十年史)。3月2日の両院議員総会で、科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金2億3500万円、ウラニウム資源調査費1500万円、計2億500万円の予算案提出の合意に達し、予算の名称は「原子炉築造のための基礎研究費及び調査費」と決定した。翌3月3日の衆議院予算委員会に、全く突如として自由党・改進党・日本自由党の三党共同修正案として提出され、4日の衆議院本会議で提案趣旨説明が行われ、予算案は修正案も含めて一括採択された。まさに切迫した審議日程を読み込んで周到に準備された提案であった。

予想外の事態に学術会議の科学者たちは驚愕し抗議し、マスコミも一斉にこれを批判したが、そのことは第五福竜丸が焼津に帰還した3月14日までだれも知らなかった。

4.原子力挙国体制の成立
55年8月8日から20日まで、スイスのジュネーブで国連が主催する原子力平和利用国際が意義が開催され、中曽根康弘(民主)、志村茂治(左社)、前田正男(自由)、松前重義(右社)の四人の衆議院議員が派遣された。ジュネーブの国際会議は米・素・英・仏・加などの原子力研究についての精神国が従来ほとんど機密にしていた原子炉計画、発電炉計画などを公開し、各国から170名あまりの参加者が集まり、次々と原子力の開発計画について発言した。日本の代表団は何も発表する材料もなくただ圧倒されただけであった。

四党議員団は会議終了後、フランス、イギリス、アメリカ、カナダの原子力施設を見て回り、9月12日に帰国した。この視察旅行の間に保革4党の議員は一致して原子力推進の方策を協議した。帰国後の記者会見で、4人は声明を発し『1.超党派的に長期的年次計画を確立し、これを推進して本問題は政争の圏外におくこと、2.綜合的基本法たる原子力法を至急制定し、平和利用及び日本学術会議の所謂三原則の基本線を厳守するとともに、資源、燃料、技術の国家管理、安全保障、教育及び技術者養成、国際協力等の事項を規定すること』など5項目の大綱を明らかにし、直ちに原子力基本法などの策定に着手した。原子力基本法は保革全議員の署名を得て1955年12月に議員立法として成立し、初代委員長に正力松太郎が就任した。

「本問題は政争の圏外におくこと」で原子力は超党派で推し進めることとなり、平和利用三原則を基本法に取り込むこと、原子力委員には労働代表を加えることで、もはや異議を差し挟む者はいなくなった。

5.科学者の武装解除
原子力推進が挙国一致体制で取り組まれた背景には、正力松太郎の野心と読売新聞による世論捜査(ママ、操作の誤りだろう)があった。ビキニ被爆事件が原水爆禁止運動へと波及し、それが次第に反米の色彩を帯びた頃、読売新聞社主であった正力松太郎の片腕であった柴田秀利の前にD.S.ワトソンと言うアメリカ人が現れた。ワトソンの素性は判然としないが、ホワイトハウスと直結する機関から派遣され、ビキニ被爆により日米関係に決定的な亀裂が入ることを回避する任務を帯びていた柴田はワトソンに、「原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない」と告げた。早速アメリカからは原子力平和利用使節団が派遣され、日比谷公園で大規模な博覧会などが開催された。読売新聞と読売テレビはこれを大々的に取り上げ、原子力の夢を撒き散らした。自由民主党は、1955年11月15日の「自由民主党立党宣言」とともにはっぴょうされた「党の政綱」において、「原子力の平和利用を中軸とする産業構造の変革に備え、科学技術の振興の格段の措置を講ずる」ことを、憲法改定などとともに党の基本原則として位置付けた。

正力は、原子力による産業革命をスローガンに総選挙に出馬し、一年生議員であるにもかかわらず、保守合同後の自民党鳩山政権の国務大臣に抜擢された。ここに中曽根・正力連合が成立し、1956年に正力は原子力委員長と科技庁長官のポストを手にして、原子力推進の権限を独占した。

正力は科学者たちの自主技術開発路線を無視して、コールダーホール型原子炉の導入に突き進んだ。高純度プロトニウム生産可能な黒鉛炉の導入に対し、科学者たちは軍事転用の可能性を指摘することも無く、正力の豪腕に屈することになる。ここに平和利用(軍事転用反対)路線は破綻し、科学者たちの武装は解除された。この後の科学者の運動は核兵器廃絶運動を専らとするようになり、原子力の問題は軍事的な警戒感を失い、安全性論争へと収斂していくことになった。

[投稿者注:正力が原子力推進に燃えたのはこの事業を成功させた実績を引っさげることで総理大臣を目指していたからで、彼自身は核武装を目標としていたわけではない。正力の人となりを知ったらこんな権力亡者のA級戦犯の名前を冠した賞なんて野球選手も貰いたくなくなるだろうな。読売と正力については木村さんの読売新聞・歴史検証も見て頂くと良いだろう。原子炉の型には何種かあったようだが、正力はコールダーホールが出来たときに合わせて大々的にキャンペーンを張ったとのこと。]

6.岸信介の核兵器合憲論と国家意思論
初期自民党の政権は、短期の間に鳩山から石橋湛山に移り、さらに1957年2月に岸信介内閣が誕生した。首相着任の直後の4月26日に政府は「攻撃的核兵器の保有は違憲」であるとの統一見解をまとめたが、5月7日に岸首相は「自衛のためであれば核保有は合憲」であると発言し、これはその後の日本政府の統一見解として確定した。

翌58年正月に岸は念頭最初の行動として、伊勢神宮でも靖国神社でもなく、東海村の原研を視察した。岸は回顧録の中でこのときの心境を「原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての使用もともに可能であるどちらに用いるかは政策であり国家意思の問題である。日本は国家・国民の意思として原子力を兵器として利用しないことを決めているので、平和利用一本槍であるが、平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。日本は核兵器は持たないが、潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を強めることが出来る」と書いている。

政治家のこの冷徹な見識に比較して、科学者あるいは市民運動側の認識は、あまりにも貧弱であったといわざるを得ない。政策や国会意思の変化にかかわらず、軍事転用を不可能とするような技術的論議がなおざりにされてきた。

[投稿者注:トリウム熔融塩核分裂型原子炉が軍事転用されない放射性廃棄物の無い原子炉として提案されている。軽水炉もそうなんですか。]

7.佐藤栄作のトリレンマ
岸信介の実弟の佐藤栄作は、1963年7月に池田内閣の科学技術庁長官に任命された。原子力船「むつ」の騒動の最中であった。砂糖はこの時期から高速炉に関心を示し、フランスなどへの調査団を派遣している。65年11月に病気を理由に退陣した池田勇人を継いで首班指名を受けた佐藤は、沖縄返還に政治生命をかけることを公言した。66年1月に渡米した佐藤はジョンソン大頭領の前で、中国の核実験に対し日本も核武装すべきと考えると述べ、核カードを外交の手段として使った。帰国後直ちに核武装の可能性の調査を各方面に命じたことは後に述べる。

ベトナム戦争を巡る情勢が混迷する中で、沖縄返還を政治の俎上に載せることは困難を極めることであった。米大統領はジョンソンからニクソンへと引き継がれ、米軍のベトナムからの撤収が現実化する中で、ようやく交渉の前途にめどがついたのは1970年になってからであった。

沖縄問題は米軍基地の問題であり、基地問題は沖縄の核の問題でもあった。沖縄の施政権が日本に移れば米軍基地は本土並みに扱わねばならず、当然核は撤去せざるを得ない。米国がこれを受け入れることは困難であった。おりしも新大統領のニクソンドクトリンは、世界に展開する米軍基地の縮小・撤退を謳っていた。米軍が日本から撤退することになれば、日本は独自の核武装に踏み切らざるを得ないと佐藤は考えていた。佐藤栄作のトリレンマである。

当時の米国は日本の核武装は容認しない方針であった。日米関係のジレンマは密使若泉敬を介した密約によって解決した。表向きは核抜き本土内の返還を実現し、密約で米軍の沖縄基地自由使用を保障した。米国は核の傘を日本に提供することで、日本の核武装を無意味化し、佐藤は非核三原則を国策とすることで米国を安堵させ、ノーベル賞を受賞した。

しかし、ニクソンドクトリンの洗礼を受けた佐藤は、米国の外交政策の不変性に疑念を抱いており、独自の核武装政策をひそかに追及していた。

8.日本核武装計画
佐藤政権時代に、防衛庁、外務省、内閣調査室などがそれぞれ、日本の核武装の技術的可能性や、日本が核武装した場合の外交的情勢分析の調査などを行っていた。

最初に著されたのは、1968年7月15日に朝雲新聞社から出版された「日本の安全保障」1968年版であった。これは安全保障調査会によって出版され、1966年から年次報告として9年間続いた。「調査会」の中心人物は国防会議事務局長・海原治で、防衛庁内外の人材を集めた私的な政策研究グループであった。

67年の秋深い頃、読売新聞科学部記者石井恂は、上司の指示を受けて、民間の各施設を使って核兵器が製造できるかの調査を行った。そこには、ウラン爆弾ではなくプルトニウム爆弾が、東海村原電1号炉の使用済燃料の再処理を行うことで生産可能である、運搬手段のロケット開発に遅れがある、など具体的に述べられている。この文書はその後大幅に加筆され「わが国における自主防衛とその潜在能力について」としてまとめられ、政府部内で読まれていたようである。

外務省は1969年に「わが国の外交政策大綱」をまとめたが、その中に「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、1.当面核兵器は保有しない政策を採るが、2.核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、3.これに対する掣肘を受けないよう配慮する。また核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの主旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持込に際し無用の国内的混乱を避けるよう配慮する」と記されている。

内閣調査室の報告では、現在核保有を推し進めることによる国際世論、とりわけアジアの世論の悪化が懸念されることを指摘している。

この一連の調査報告は1967年から70年ごろまでの間に集中している。その後の佐藤政権は、動燃と宇宙開発事業団を科技庁傘下の特殊法人として立ち上げ、高速炉開発と人工衛星打ち上げのための技術開発に当たらせることになる。あくまでもこれらの開発は平和目的のものであり、掣肘を受けないよう配慮して行われたことは、いうまでも無い。

動燃による核燃料サイクル計画は、東海再処理工場の運転に対してカーター政権の介入を受けしばらく停滞したが、80年代には高速炉「もんじゅ」の建設に着手し、そのブランケット燃料の再処理のための施設「RETF」の建設も行われ、青森県六ヶ所村には巨大な再処理工場の建設が行われるにいたった。た。(ママ)しかし、95年の「もんじゅ」におけるナトリウム炎上事故により、佐藤栄作の広壮な計画は頓挫したと言うことが出来よう。

政府は核燃料サイクル計画の頓挫を受けて、軽水炉でプルトニウム燃料を燃やすプルサーマル計画へと重心を移しながらも、再処理工場の建設工事を継続し、「もんじゅ」の再開の機会を測りつつある。技術的にも経済的にも成り立ち得ないこれらの計画を、国策として推し進めるその背後には、一貫した各政策が背後にあることを見逃すことは出来ない。

核燃料サイクル計画に対し、軍事転用の技術的可能性を論ずることが、反原発運動や反核兵器運動の内部において、タブー視される傾向があったことも、指摘しておかねばなる

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