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戦後日本の高度成長期の日本は、庶民にとってはインフレが悩みの種だった。
デフレの今からは想像しにくいことだが、世論調査でトップを飾る問題は「物価高」だったのである。
高度成長期の日本は、実質成長率が9%でインフレ率が15%といった感じで推移し、給料のアップは、インフレ率+αというのが通例だった。
春闘で給料アップが決まるのだが、ベースアップの恩恵は、インフレのために半年ほどで打ち消される状況だったと考えればいいだろう。
インフレは、物価水準が持続的に上がっていく経済事象である。
このような経済事象が起きる基本要因は、通貨が金本位制から管理通貨制に移行したことにある。
1万円札は、日本で強制力をもって通用する通貨で10,000という値を持つもの以外の何ものでもなくなった。
1万円札でいかほどの財やサービスが買えるかは使ってみなければわからないし、使って確認したとしても、明日もそうであるという保証はなにもない。
なんでも買える万能のお金、誰もが欲しがるお金が、それ自体としては価値性を有さなくなったのが管理通貨性の特徴である。
(金本位制であれば、10円は金1gという価値実体に結び付けられており、紙幣に不安を感じるときは金に兌換することができた)
日本のみならず先進諸国が戦後に経済成長を遂げた大きな要因の一つが、管理通貨制を活用したインフレーション政策である。
インフレは、自然現象ではなく人為的な事象だから、インフレにしたくなければインフレを抑えることができるというものである。
現在の日本の問題に引きつけると、インフレは金融政策で容易に起こせるが、デフレを金融政策で解消するのは至難という経済論理がある。(「大恐慌」後の米国の苦悩を思い起こせばわかる。当時は既に管理通貨制である)
物価は、「貨幣供給量×流通速度/財の供給量」で決まると一般的に言われている。
ある期間の財を買おうとする通貨量と財の供給量の関係で物価水準が決まるという説明である。
これは、大枠として直観的にも受け容れられる考え方である。財を欲しいと思っている人たちがいっぱいお金を持っていて、財の供給量がそれほどなければ、財の価格は高くなるというのは自然である。
(現実には、そんなシンプルな論理で価格が決まるわけではないが、大枠としてそう理解しても誤りではない)
インフレは、明示的ではない「増税」であり、法的な責任を問われない「債務切り捨て」である。
「増税」だというのは、所得諸税であれ物品諸税であれ資産諸税であれ、同じ税率が維持されていれば、インフレによって徴税額が増えるからである。とりわけ、累進課税になっている個人所得税は、インフレによって名目所得が増えることで適用税率が高くなり、実質所得は逆に目減りするという事態にもなる。(このため、高度成長期の日本では所得税減税が数年おきに実施された)
「債務切り捨て」だというのは、ある時点で10年返済で10億円借りて機械を購入したとしたとき、3年後にインフレにより同じ機械が12億円になったという事態を思い浮かべてもらえばわかりやすい。利息を含めて総額で20億円返済したときに機械が21億円していたら1億円は“得”したことになる。
※ 勘がいい人は、「財政危機を叫んでいる日本政府はインフレにすればいいじゃん」と思われただろう。税収不足と膨大な債務で喘いでいる日本政府は、庶民にそのツケを回すのではなく、インフレという経済事象を利用して財政を立て直さなければならないのである。それは、国民経済主義への転換によって可能でもある。現在のような政策を採り続ければ、国民生活のみならず財政もさらに悪化すると断言する。
インフレという経済事象は、立法措置なしで増税ができる政府部門の利益はともかく、借り入れで事業を拡大しようとする企業にもっとも有利なもので、その恩恵を受ける産業勤労者や農民が次に有利で、金利生活者が損をするというものである。
(農民は米価政策が変更されたのでインフレで有利だとは言えない面もある)
蓄えていた預金で老後の生活をする人は、預金金利はインフレ率よりも低いものだから、インフレで過酷な状況に追い込まれて行く。(最初は利息200万円で生活できていたのに、5年後の200万円では10ヶ月分にしかならないという状況)
しかし、同じ金利生活者であっても、銀行は、貸し出し金利が預金金利よりも高く、「信用創造」という“詐欺”もできるので損を被ることはない。
(「信用創造」とは、同じ1億円で5億円の貸し出しを行うような国家公認の“詐欺”である。バブル崩壊の傷が深いのも、この“詐欺”でおかげである)
インフレは、財の生産活動に従事している人には有利で、利息取得活動に従事している人には不利だと考えればわかりやすい。
インフレがどれほど財の生産活動に従事している人に有利なのかを考えるためには、インフレではない経済状況がどうなるかを考えるのがいちばんである。
そう、この間の日本経済を考えるといちばんわかりやすい。
産業の生産性上昇は、固定資本(機械設備)の増加によって達成される。そして、その償却は10年といった長い期間で行われる。
しかし、「産業主義近代」の終焉:“自然の恵み”ではなく“人々の恵み”が産業を発展させ生活も向上させてきた。」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/692.html )で説明したように、減価償却費を生産する個々の財に上乗せして販売することはできない。
(その理由は、ある企業が機械設備に投じたお金は、その時点の需要(GDP)に貢献するものであって、償却期間中に使われる(需要になる)ものではないこと)
固定資本を増加させて達成した生産性の上昇は、同じ労働者の数で生産を続けた場合、生産する財の量を増加させる。
これは、上述の物価が決まる一般式に照らせば、物価を押し下げる変化である。
機械導入の是非は、それで生産性が上昇し、生産する財が従来の価格で販売できるというという見通しのもとで判断されたはずである。
インフレでない限り、それを現実のものにするためには、生産増加分の財を輸出するしかない。(産業全体で考えれば、輸出で稼いだ貿易収支黒字が減価償却費や利益の原資となる)
輸出が増加しなければ、生産性の上昇は物価下落(デフレ)という悪夢に変わる。
デフレになれば、固定資本の減価償却が理屈通りにはいかなくなり、下手をすると経常利益が赤字になる。
それを解決する手段として首切りで生産調整することを選択しがちだが、それはせっかく導入した機械設備の稼働率を下げることであり、それでも財の価格が思うように上がらなければ、より収益が悪化する。
個々の企業経営者はなかなか気づかないようだが、生産調整のための首切りが横行すれば、失業による所得減少のために国内総需要が減少するのだから、財の価格が思うように上がらないのは当然である。
(米国経済史で説明したように、生産調整はするとしても、営業職でも草刈りでもいいから、産業全体が“賛助行為”として雇用を続けるのみならず拡大したほうが合理的なのである)
ここまでの固定資本問題はそれを無借金で増加した例であり、それを借り入れで行った場合は債務履行問題が追加される。
無借金でも困難な状況に追い込まれるのに、利息を支払い元本を返済していかなければならないのである。
利息は利益が出ていれば損金として計上し課税を逃れられるので少しは緩和されるが、損失でも支払わなければならない。それができなければ、資産を売却して対応するか、金融庁の沙汰で破綻することになる。
元本も売上から支払われるが、これは損金ではないので、損益計算表上は利益が出ているのにお金がないという状況を生みかねないものである。(利益が出ていれば、利益の全額を元本返済に使っていたとしても課税される)
このような固定資本問題は、そのときだけの問題ではなく、固定資本の増加(生産性の上昇)を忌避させる動きを醸成させることで中長期的な産業力の劣化につながっていく。
(機械設備に投資した後の苦悩がわかっている状況で、それをやろうとしないのはごく自然である)
もう一歩進んで説明すれば、デフレであれば、お金を財に変え何か手を加えてから販売する事業そのものを忌避させるようになる。
それは、1億円で買ったものが翌年には9900万円になる状況で、手持ちのお金を財に変えるひとはあまりいないことを考えればわかる。
産業とは、お金(資本)を機械設備に変え原材料に変え活動力(人件費)に変えて生産した財を販売し利益を上げようというものである。
7千万円で機械を買い、残りの3千万円で原材料を買い人を雇い生産した財を売って3千百万円の売上があったとしても、機械が6700万円でしか売却できなければ、差し引き200万円の損失である。それなら、1億円をそのまま預金しているほうが低金利であっても得である。
デフレ状況のなかでいくら“起業”を叫んでも、固定資本が要らずデフレの影響をあまり受けない口八丁手八丁の事業には参入があっても、産業分野では新しい企業が起きないのはこの論理による。(今の状況で「起業家精神」を口にする政治家は、口先だけのいいカッコしか詐欺師である)
インフレは、財の生産活動に従事している人には有利で、利息取得活動に従事している人には不利だと説明したが、デフレはその逆事象だから、利息取得活動に従事している人には有利で、財の生産活動に従事している人には不利となる。
現在の日本は、バブル形成に狂奔した利息取得活動者=銀行が陥れた経済苦境のなかで喘いでいる。そうでありながら、その経済苦境が有利なのが銀行であるというのは、盗人に追い銭の典型パターンであろう。(おまけに、国費を10兆円以上も銀行に投入しているのである)
インフレは、「経済成長の効率的な運搬手段」とも言われている。
それは、上述のような非インフレが引き起こす産業の苦悩を解消するからである。
増加させた固定資本は長期に使えるものである。それを債務で賄ったとしても、それはそのときの機械設備の価額である。
インフレが進めば実質債務が減少するのみならず、その債務で生産している財の価格も上昇するから収益性も向上する
生産性の上昇が生じるデフレ圧力を解消する唯一のまともな手段である輸出の増加が見込めないのなら、生産性の上昇に応じたインフレがなければ産業はまともに活動できないのである。
高度成長期の日本のように、実質成長率が9%でインフレ率が15%といった状況は、人為的なインフレ政策を採らなければ、逆に、5%前後のデフレになるような状況だったことを示唆している。
実質成長率は、生産性上昇率と新規就業者分の所得による実質所得増加率の合計と考えるとすっきりする。
インフレに関して忘れてはならない重要なことは、いかにインフレ策を採ろうとも、生産性の上昇や量的な財の増産がなければ、債務者だけが有利になる空回りのインフレになるということである。
生産性の上昇がないまま5%のインフレになれば、あらゆる財の価格が5%高くなるだけで実質成長はない。勤労者の給与はインフレに後追いで上がるものだから、大半の国民生活は苦境に陥る。
現在の日本のようにインフレで生産性の上昇が十全に機能する供給余力がある状況でのインフレ政策は効果的であっても、戦後混乱期のように供給力が不足しているときのインフレ政策は、お金不足=物不足で怒りの声を上げる国民を瞬間的になだめるだけで、現実的にはインフレ期待の物資隠匿を誘発してお金不足=物不足をさらに悪化するものである。
だからこそ、供給余力の象徴である貿易収支黒字の状況で、経済政策の転換が必要なのである。
日本経済がこのまま推移して、貿易収支が赤字になった(国内供給力不足)時点で、お金不足=物不足で怒りの声を上げる国民をなだめるために膨大な赤字財政支出を行えば、戦後混乱期のような空回りのインフレになりハイパーインフレに進む可能性もある。
そのときに輸入で財不足を補おうとしても、インフレで円安が進行するので、さらにインフレを進めるという悪循環になる可能性もある。
生産性上昇率か貸し出し利率を下限に、貸し出し利率+生産性上昇率を上限としたインフレ政策を採らなければ、輸出増加が期待できない現状では、円滑な産業活動も期待できないと見ている。
もちろん、国民のほとんどが安らかに生活できるようにするために、リタイアした人たちのインフレ対応策が必須である。(リタイアした人の購買力を高めることもインフレに資するものだから、それを最初に考慮して政策を立案すれば問題なくクリアでできる)
それ以上に重要なことは、日本という国家社会の将来像を先に描くことである。
産業の無限の成長を目指すことは、産業資本主義が終焉する論理から言って愚かである。産業の量的な成長ではなく、質的成長である生産性の上昇をどう国家社会に活用していくのかという視点が求められる。
端的には、産業が稼ぎ出している余力の増加を、国民生活の全般的向上にどう割り振っていくかという視点である。具体的には、350万人超の失業者を、今後の日本のためにどう活かすなかで解消していくのかという問題である。
今の世界で、このような政策転換をスムーズにできるのは、国民生活が平均的に良好に保ちながら10兆円もの貿易収支黒字を誇っている最強産業国家日本以外にはないと断言する。
このようなことから、デフレの解消を第一義とせず、逆にデフレを深化させる「構造改革」なる虚妄の政策を掲げている小泉政権は、日本経済を破壊する亡国政権である。
金融国家である米国が小泉政権的政策を採っているのならまだ理に適っているとも言えるが、日本は産業国家である。
デフレが純論理的には有利な銀行であっても、日本を主要な基盤としているのなら、産業の成長があってこそ収益を上げられるのである。
銀行の収益は、産業(商業の粗利益も産業の“分け前”)の収益を源泉としているからである。
株式も、企業のフロー収益が低迷し資産価値が減少していくデフレ状況で持続的に上昇すると考えるのは虚妄である。
日本国民だけではなく、日本に拠点を置いている経済主体はどういう業種であっても、デフレは悪なのである。
貿易収支で10兆円の黒字を計上し赤字財政支出を35兆円も行っている産業強国日本が、「デフレ不況」を続け国民生活をじりじりと破壊し人々を不安に陥れているのは、政府の無策・無能のせいであり国家大逆行為以外のなにものでもないと断言する。