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勤労者家族も家を持ち自動車を手に入れ家電製品を揃えるという「大衆消費社会」を最初につくり出したのは20世紀初期の米国である。
戦後日本の高度成長期のような社会状況が50年ほど先行していたと考えればいいだろう。
米国の「大衆消費社会」を準備したのは、高い実質成長率と長期デフレ不況が同居した19世紀後期の異様な米国経済である。
南北戦争後の米国経済は、慢性的なデフレ不況のなかで実質的な高成長を続けていた。(現在の日本よりもデフレ率が高いのに実質成長率は高いという状態)
高度成長を支えたのは、産業の生産性上昇であり、領土・人口(移民)の拡大である。
デフレ不況は、生産性上昇や耕作地拡大がもたらした財の増加に較べて少ない貨幣供給量の増加に起因する物価下落がもたらす低収益や破綻続発である。
ブームに沸いた鉄道事業も破産と再編の波に洗われ、技術革新が進む近代産業は、需要増加を超える供給量増加のために苛烈な価格競争に引きずり込まれて低収益に喘ぎ、低生産性企業は破綻に追い込まれていた。(当時の産業は個人事業で、必要な資金は自己資本か借り入れで賄われていた)
当時の米国は「フロンティアの時代」であり、移民も急増し、穀物生産は、価格が半分に下がりながらも量としては10倍も伸びた。
概括すれば、近代的産業が競争と淘汰を繰り返しながら発展していった時代であり、人々は所得金額を減らしながらもそれで購入できる財の量は増加するという時代だったと言える。
産業の経済主体の経営構造で区分すれば、自己資金で後から参入した人は恵まれ、借り入れで先行して参入した人はより厳しい目に会い倒産するという構図である。(農民も、借り入れに依存する率が高いほど破綻した)
このような経済社会状況のなか19世紀末から20世紀初頭にかけて起きたのが、「第一次産業合同運動」(M&A旋風)である。
それまでは、生産性の上昇と過当競争が引き起こす財価格の下落が企業収益を悪化させる状況に対して、企業間にカルテルやトラストの動きが生まれていた。
しかし、数も多く固定資本の債務を抱えている企業が、なんとか生き残ろうと“カルテル破り”に動くため、価格競争を解消することはできなかった。
(このような米国の産業状況は、生産性の上昇を輸出の増加でカバーしきれなかったことを意味する)
カルテルの無効性が寡占的な“メガ株式会社”の成立を促し、「第一次産業合同運動」を引き起こしたのである。
“メガ株式会社”は、合併や買収で抱え込んだ古い固定資本(設備)を廃棄して供給量を抑制し、収益性を上昇させた。
しかし、そのような経営では、利益は確保できるとしても、事業規模(利益額)の拡大は望めない。
そのため、当時の米国企業は、国際競争力を高めるなかで輸出を増加させていくとともに、国内向けには供給量管理で価格を管理して得た利益を広告やセールスマンなどの販売促進費に大金を投入するモダンな経営で事業を拡大していった、とされている。
(「マーケティングの時代」の始まりである:米国企業が膨大な利潤を上げ、米国経済が資金余剰になったのは第一次世界大戦(欧州大戦)の“恩恵”である)
20世紀初頭の米国では、それまで限定的な数だった非生産的“使用人”=ホワイトカラーが急速な勢いで増加した。現在のような「ホワイトカラー社会」も、20世紀初頭の米国で成立したものである。
確かに、広告宣伝が行われセールスマンが活動すれば、そのような製品の存在を知らない人々の購買意欲や仕入れ意欲を刺激する。
余裕のお金を持っている人はすぐに「じゃあ、買おう」となるだろうし、貯蓄を取り崩したり借金してでも買う人までいるだろう。
しかし、「無い袖は振れない」のだから、お金に余裕のない人たちはいくら宣伝されても欲しいだけで買うことはできず、「大衆消費社会」という様相にはならない。
企業経営者は自社の利益拡大のみを考えがちだから、広告会社の「宣伝の威力は凄いでしょ。もっと宣伝すればもっと売れますよ!」という言葉を信じ、セールスマンが売上を拡大していくのを見てセールスマンの力も凄いと思ったはずである。
(宣伝してもセールスマンを増やしても売上が伸びない企業は、宣伝のやり方がまずいとか、セールスマンの能力が悪いといった判断をしたであろう)
しかし、そのような判断は、「無い袖は振れない」原理に照らせば、“大いなる錯誤”である。錯誤でないのは、輸出の増加がもたらす利益の増加だけである。
それが“大いなる錯誤”であることは、「無料の宣伝」と「無償のセールスマン」を考えてみればわかる。
どの企業も、同じように宣伝活動もセールス活動を行うが、その費用は払わないというモデルである。宣伝手法やセールス活動能力は有償のときとそのまま同じとする。
但し、無償で働く広告会社に勤務する人やセールスマンの生活費を他の誰かが補填しなければならないというイジワルは挿入しない(笑)。
このモデルの結末は、宣伝もセールスマンも売上の増加にほとんど貢献しないというものである。
そう、宣伝もセールス活動も、売上の増加に貢献しないのである。
というより、個々の企業の売上には大きな影響を与えるが、産業全体の売上には貢献しないと言ったほうが正確である。
(宣伝のやり方がまずかったりセールスマンの能力が悪い企業の売上は落ち込み、その分他の企業の売上が伸びるという変動はある)
宣伝やセールス活動で産業が成長するのは、宣伝やセールス活動そのもののおかげではなく、産業が宣伝やセールス活動に大金を投じているからなのである。
ずばり言えば、産業の各企業が“賞金”を出し合い、各企業は、その“賞金”をビジネス能力で奪う合うだけのものである。
(いちばんうまいビジネス手法は、拠出する“賞金”はできるだけ少なくし、競争で奪う“賞金”を大きくするというものだが、そのためには、欲しがられている物を高品質・低価格で販売し、そのことを無料記事や口コミで広く知ってもらわなければならない)
広告宣伝活動とセールス活動が、なぜ、産業の各企業が“賞金”を出し合い、各企業はその“賞金”をビジネス能力で奪う合うだけのものなのかを簡単に説明する。
セールスマンは、貰った給料で食糧から自動車までの様々な消費財を購入する。自社の製品も買うだろうが、ほとんどは他の企業や農民が生産した消費財を買う。
だから、企業が雇用するセールスマンの数が増えれば増えるほど、他の企業や農民そして商店の売上が増えることになる。
企業同士は、A社がセールスマンに支払った給料がB社・C社・D社・・・の製品への需要に、B社が払った給料がA社・C社・D社・・の製品への需要に、といった“相互扶助”だと考えればいい。
それまで産業が生産する製品を欲しいと思っていながらお金がなくて買えなかった商店主や農民も、産業のセールスマンが自分たちが売っている財にお金を支払ってくれることで所得が増え、欲しかった製品を買えるようになる。
広告宣伝活動は、広告会社の企画や制作に支払われたお金が給料となりセールスマンの給料と同じように産業・商業・農業に流れ、新聞社・雑誌社・ラジオ(今ならTV)に支払った媒体料金も、広告局の新規採用職員の給料や社員の給料アップとなって産業・商業・農業に流れる。
商業や農業に流れたお金は、食糧支出を少しは増加させるとしても、ほとんどが産業(商業の粗利益を含めて)に還流することになる。
産業が広告宣伝やセールスマンに支払ったお金は、人々の必需品需要が満たされているのなら、回り回ってという連関的なかたちではあるが、その多くが産業に戻ってくるのである。
そのようにして増加した需要をどこが手に入れるかが、宣伝とセールス活動の唯一の現実的な力なのである。
輸出を別にすれば、国内需要は、このような産業連関的“供給”の増加でのみ拡大するのである。そして、そのような“供給”増加を続ける原資は輸出で稼いだお金である。
産業(企業)が発展する原動力は生産性の上昇である
もしも、広告宣伝やセールスマンに支出する大金は、結局のところ、「産業の各企業が“賞金”を出し合い、各企業はその“賞金”をビジネス能力で奪う合うだけのもの」と悟って、それをやめたらどうなるだろう。
それは、19世紀後期に経験した「長期デフレ不況」であり企業倒産の続発という経済状況である。
各企業が利益を退蔵しないで“賞金”を出す経済行為は、上昇させた生産性を円滑に活かすための“賛助行為”なのである。
お気づきになった方も多いと思うが、広告宣伝活動もセールス活動も、生産した財をなんとか販売するための行為であって、財の生産量を増やすわけではない。
もしも、同じお金で生産現場の労働者の雇用を増やせば、財の生産量も増加する。それは、「デフレ不況」の再現につながる経済行為になる。
広告宣伝活動やセールス活動は、“不生産勤労者”への大金支出だからこそ意味があるのである。
ここまでの説明をまとめると、「デフレ不況」は、財の供給量を増加させないかたちの「“供給”増加→“需要”増加」を通じてのみ、回避したり脱却できるということである。
そして、そのような“賛助行為”は、貿易収支が黒字を前提条件として、利益を上げている企業が取り組むしかない。
さらに言えば、それ以外の方法で「デフレ不況」を脱却しようとしても、赤字財政支出のように将来の歪みにつながるだけなのである。
戦前の米国経済は、第一次世界大戦の恩恵=利益を“賛助行為”に投入して繁栄を謳歌したが、余裕のお金を持っている人に当時の産業力ではもう欲しいという製品はなく、1920年代中頃になると、そういう人々の余裕資金が株式市場に流れ込むようになった。この活況で生まれたにわか成金がサービス業にお金を使い、産業の支えになったが、お金があれば産業が生産した製品を欲しいと言う人は当時も無数にいた。
(株式ブームに先行して不動産投機が活発に行われていた)
そのような「バブル」のあげくが、ニューヨーク株式市場の崩壊に端を発したあの「世界大恐慌」である。
ルーズヴェルト政権は、赤字財政支出による公共投資や富裕税などで深刻なデフレ不況を克服しようとしたがそれでは脱却できず、結局は6000万人以上が死ぬという人類史上未曾有の大虐殺戦争=第二次世界大戦の“特需”でようやくにして脱却したのである。
「長期デフレ不況」に喘いでいる日本(人)は、このような経済論理と米国の歴史を貴重な糧とし、現在の恵まれた条件(貿易収支黒字)を活かして苦境から脱却しなければならない。
何より、最強産業国家日本は、経済論理を活かせば「長期デフレ不況」から脱却できることを理解しなければならない。
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★ 参照投稿
「米国支配層(世界支配層)は「産業主義近代」の終焉が近いことを知っていて、その後の世界に向けて動いている。」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/395.html
「「産業主義近代」の終焉で最大の打撃を受けるのは、世界で最も成功した産業主義国家日本である。」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/419.html
「「産業主義近代」の終焉:戦後日本が豊かになったのはただ単に「より多く働くようになった」から!?」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/490.html
「「産業資本主義」の終焉:戦後日本の「農業(漁業)→産業→商業・サービス業→金融業」発展形態:「労働の交換」を理解するため」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/757.html
「「産業資本主義」の終焉:商業の利潤(粗利益)とは何か?:「供給→需要原理」を理解するために」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/762.html
「「産業主義近代」の終焉:産業資本家と労働者は本当に対立(敵対)関係にあるのか?」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/690.html
「「産業資本主義」の終焉:「共産主義国家」の人々はなぜ豊かになれなかったのか?」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/771.html
「「産業主義近代」の終焉は、マルクスではなく、ケネーの正しさを実証する:重農主義者は「産業主義近代」の終焉を予感していた。」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/430.html
「「産業資本主義の終焉」=「停止状態」を悲観せず「始まり」として待望した“平等私有財産制共産主義者”J・S・ミル」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/454.html