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「「産業資本主義」の終焉:戦後日本の「農業(漁業)→産業→商業・サービス業→金融業」発展形態:「労働の交換」を理解するため」( 本文:http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/757.html )の補足的な内容です。
「「右翼思想」やフェミニズムについて:「女性の社会進出」は“女工哀史”の普遍化状況を生み出した。」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/743.html )にも関連する内容なので、それもご一読いただければ幸いです。
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■ 商業利潤の考察
農漁業や産業が供給する財を消費者に販売する経済活動を行なっているのが商業である。
最近は農産物の直接販売も増えてきたが、近代的財は、生産者が直接消費者に販売するかたちではなく、商業が生産者から購入した(仕入れた)財を消費者に販売するという媒介的な過程を経て、経済システムから離脱して財から物になる。
そのような商業過程を通ったからといって、財の価値や使用価値が増えるわけでもなければ姿形が変わるわけでもないのだから、商業が利益を上げるというのは不思議な経済事象である。
(商業に伴う輸送は、生産者と消費者の地理的隔絶を埋める活動だから、原材料の輸送と同じように供給(生産)活動の一部を形成している)
「バブル崩壊」で大きな打撃を受けた業種として大規模商業がリストアップされている。そごうやダイエーに代表されるバブル期の大型店舗への投資(借り入れ)のツケが、消費の縮小(見込み通りではない増加)やデフレ状況で噴出したものである。
「「産業資本主義」の終焉」シリーズの前回の書き込みで書いたように、日本で大都市に従来から存在したデパートは別として、都市部でスーパーなどの大型商業施設が林立するようになったのは高度成長期の中期以降である。それまでは、地域で立地条件に恵まれた地に済む家族が自宅兼商店での商業活動が中心だった。
そのような状況は、大型の建物でひとを雇用して商業を営んで採算が合ったり利益が上がるほどの消費活動が人口が集積している都市部でもなかったことを示唆する。
(ある時期までのデパートは、富裕層を主たる対象とした商売であり、庶民は“晴れ着”を求めたり“眼の保養”をしにいく場所だった。富裕層がお金を気にせず買い物をしてくれることで利益を上げていたのがデパートなのである。端的には、貨幣(所得)の偏在がデパートを支えていたのである)
商業が財の価値や使用価値を増やすわけでもなければ姿形を変わるわけでもないながら採算を取っているとしたら、天から利益(粗利益:売値−仕入値)が降ってくるわけではないのだから、どこか他のところから“分け前”を得ていなければつじつまが合わない。
かつてのデパートは富裕層の見栄的満足感に頼って高値で商品を売って利益を上げていたが、余裕のお金を持たない庶民相手の商業ではそういうわけにはいかない。
どこかの商業資本がそのようなことをすれば、そこは見限られるか、産業連関が崩れることになる。
結論を言えば、商業の粗利益は、農業や産業からの“分け前”である。
農業や産業が自分たちでやれば非効率な最終消費者への販売を商業が肩代わりしているから、粗利益を得られるのである。
個々の商業資本の品揃えや店舗デザインの優劣そして価格設定は、“分け前”をどの商業資本が手に入れるかという問題だけであって、商業総体が得られる粗利益の性格が変わるわけではない。
そうであるなら、産業や農業の生産性が低く産業や農業の粗利益が小さいときは、商業に与えることができる“分け前”も小さく(率として低く)なるはずである。
そして、産業や農業から貰える“分け前”が小さいのなら、自前の建物で家族が生活するためにつつましやかに営む商業でなければやっていけないのも当然であり、店舗を買ったり借りたりしてさらには給料を支払わなければならないような商業活動は、富裕層相手のデパートという限定的なものになる。
スーパーに代表される庶民向けの大型商業資本の隆盛は、産業や農業が商業に引き渡す“分け前”が大きくなり、“分け前”を量的にも確保できるために庶民の可処分所得が増加することが条件となる。
この条件を満たす条件は、唯一、産業や農業の生産性上昇である。
(日本の農業は自営農民によって担われているから、年間に投入できる農業活動量と投資により収穫した農産物を販売して得られる純収入の増加が生産性の上昇となる。活動できる空き時間があり、追加農産物を販売して手取りが増えるなら、“買い叩かれても”供給を続ける意味はある。米作農家が、農閑期にナスを栽培して収入が増えるのなら、安値でも続ける。自営農民の論理はこのようなものなので、以降は生産性の上昇については産業のみを取り上げる)
これまで何度も説明してきたように、生産性の上昇を達成すると、増加した産出量を売りさばく圧力に晒されるのが産業の宿命である。それが輸出でカバーできなければ、国内でなんとしても売りさばかなければならない。
そのための必須条件は、産業勤労者の給与を引き上げることである。(商業に“分け前”を多くあげても、商業は消費者ではなく販売者なので“分け前”は現実のものにはならない)
関西にいた中内さんというひとが、米国でスーパーを見て「これだ!日本だってこういうところでみなが買い物をするようになる!」と考えて日本型スーパー(主婦の店ダイエー)を始めた。
初期の小規模ダイエーは、近隣の商業の“分け前”を吸収することで採算をとり利益を上げたはずである。(近隣の商店が売上の低迷で打撃を受けた)
その手法は、そこだけで買い物が済むような品揃えと他より安い価格設定、そして、安く仕入れた商品を目玉にしてチラシでお客を呼び込むものである。
店舗も増えダイエーの販売量が増加すれば、メーカーや卸商社も大量に売ってもらうためにダイエーの仕入れ値を安くするようになる。(その支えの基本は生産性の上昇である。あるときはデッドストックになった財を少しでもお金に代えるために持ち込まれるバッタモノである)
その一方で、家電メーカーなど利益を確保したいために小売価格を統制したい産業資本は、客寄せの目玉にするダイエーへの納品をやめさせようとした。
大型商業資本の特性は、家族経営ではなく給料を支払う人を雇用して事業を行うことにある。
家族経営であれば、食っていければいいという程度の粗利益でも商売を続けることができるが、人件費だけではなく店舗施設までもを借り入れで保有したり家賃を払って確保している行う事業は、率はともかく膨大な粗利益額を必要とする。
購入した不動産は「土地神話」が生きていた時代は、新たな借り入れの有力な担保となり、“含み資産”としても評価されていたから、店舗施設は経営上の支障(重石)とは考えられなかった。
もう一つの重石である人件費は、「女性の社会的進出」ブームにも支えられた低時間給の主婦をパートタイマーとして採用することで軽減を図った。
商業の粗利益は産業や農業からの“分け前”なのだから、スーパーで働く女性のコストは産業や農業が負担することを意味する。
スーパーが産業や農業の存続にとって不可欠の存在であるなら、スーパーで働く女性の所得増加は、産業が生産性上昇の成果をスーパーに“分け前”として渡すことで購わなければならない。
低時間給の主婦パートが潤沢に存在するということは、産業がスーパーに渡さなければならない“分け前”を低く抑えられる条件になる。逆に、主婦パートが限定的な存在であったなら、その時間給は当然のように高くなったはずである。
産業資本も参加した80年代後半のバブル時期に主婦パートの時間給を法的手段を行使してでも引き上げていれば、産業の余剰貨幣が抑えられることでバブルも抑えられ、主婦パートが稼いだお金が産業が生産する財にも向けられもっとまっとうな産業連関(資金循環)になったはずである。
政治的手段ではなくても、スーパーやデパートなどの大型商業資本が揃って、従業員やパートタイマーの給与アップの原資を求めて、産業からの仕入れ値を下げさせていれば、商業資本が揃って大打撃を被ることになった「バブル崩壊」→「長期デフレ不況」を避けれたかも知れないのである(笑)
現在の大型商業資本は、バブル期の店舗拡張(設備投資)に伴う債務の履行や長期不況で低迷を続ける売上に喘いでいる。そして、それぞれが生き残りを賭けて、店舗削減・人減らし・給与引き下げ・価格競争に励んでいる。
その過程で生じたのが、家族経営商店の店じまいの増加であり、大型商業資本のさらなる苦悩であり、総可処分所得の減少が招く産業の低迷である。(産業は出荷価格の引き下げ圧力も受ける)
個々ではなく商業資本総体がある時点の規模を維持して利益を上げるためには、産業勤労者の可処分所得が増加するなかで、産業と農業がもたらしてくれる“分け前”を増加させるしかない。
これ以外の生き残り法は、商業資本同士の食い合いでしかなく、国民経済的産業連関をもおかしくする。
そして、産業が商業への“分け前”を増やしてもなお利益を計上するためには、貿易収支の黒字を維持しなければならない。
(赤字財政支出もそれを実現させるが、既に現状でも露呈しているように後にツケを回すものだからイレギュラーな手法である。消費者の貯蓄取り崩しも一時的な延命策でしかない)
他者関係性(産業連関)を考慮しないで、個別経済主体(企業)が自分の利益を追求しても、その目的が達成できる企業は限定的なもので終わる。
「長期デフレ不況」から脱却し国民のほとんどが安らかな生活をおくれるようにするための処方箋を書くためには、このような経済論理を理解することが大前提なのである。