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貨幣や共同体についてあれこれ
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投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 09 日 00:03:36:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 「市場を司るものは神になる」のつづき >あっしらさんへ 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 08 日 20:51:21)


バルタン星人さん、どうもです。
刺激的な投稿ありがとうございます。


【バルタン星人さん】
「さすがにマルクスも当時のイギリスや世界を見ていたわけだしそこまで牧歌的だったかは保留しますが
「生産共同組合の連合」と言っていますし、自然的条件も含めてやっぱり差異は残る、社会的必要労働に平準化されてもどうしても「余剰」が残る、その余剰がまさに自然=人間だという意識がマルクスにあったんじゃないか。あと、なにせポスト・ヘーゲルの人だしサン・シモン主義者の設計主義も当然知っていたし、そういうのではダメだというのは判っていたと思います。「人間の歴史を自然史的過程としてとらえる」と言っているのは吉本隆明が言っているような「科学と取り扱うという立場」ではなく、自然成長性にまかせるというかドゥルーズ=ガタリ言う「機械」のイメージではないかと勝手に解釈しています。ご指摘の件ですが、逆に言えば近代概念で考えないとマルクスをいまさら読む意味などないわけです。(そこまでして読む必要があるか と言われると...とりあえず「脱・構築」と言うしかないですが)」


自然条件の差異もあるし、どんな生存様式であっても「余剰」もあれば「不足」もあるものです。
「余剰」がほんとうに余剰であるのなら、腐敗するものは腐敗し、溶かしたり変容させることで再利用することもできるというもので、「不足」がほんとうに不足なら、我慢しなければならない人が出たり、深刻な食糧不足であれば餓死者も出るというものです。

これは、貨幣経済であろうが、自給自足経済であろうが、物々交換経済であろうが普遍的なことです。

ですから、この部分で説明されていることが、貨幣を媒介とした交換の“普遍性”とどう関わるかがイマイチ不明です。

貨幣を媒介とした交換であれば、「余剰」をどううまく調整できるとお考えですか?


バルタン星人さんに今一度考えていただきたいのは、現在の「近代経済システム」が本当に貨幣経済と言えるのかという問題です。
金本位制のみならず純然たる貨幣に対してもそう言えるのですが、ペーパーマネーを超えて数値化された貨幣単位の増減で交換もできる現在の貨幣経済が、果たして貨幣経済なのかという問いです。

雑駁に言えば、「貨幣経済だ」と多くの識者が錯誤しているだけで、ほんとうはある人たちの“人為的采配経済”ではないかということです。
貨幣に存在性はなく、概念の記号化として、すなわち、生き物として欲を持つ人々をある舞台装置の上で踊らせるための仕掛けとしてあるだけではないかということです。
(法や宗教と同等の観念的存在ではないかという提起です)

ある人たちが、“人為的采配経済”として悟られないために、過去の遺物となった貨幣が今でも生きているかのように見せているだけという見方です。

それは、貨幣の本源的な機能の一つである価値尺度機能や価値保存性が喪失している現実を手掛かりに考えれば見えてくると思っています。

【バルタン星人さん】
「マルクスも「人間の解剖は猿の解剖に役立つ」とかいっています。
それまでは英雄、豪傑の物語やポランニーの「社会に埋め込まれた経済」であったわけですから。
しかしそれは「関係の論理」であって例えば交換の現象形態まで全て説き起こせる「生成の論理」ではないわけです。つまりデカルトの分析的方法ですよね。絶え間なく細分化(数値化)してモジュールの動作原理は説明できるが、それを寄せ集めても全体の有機的連関は判らない。フッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で言っている「危機」とはそういうことなんじゃないかと。」


経済学の成立基礎に関するものですが、バルタン星人さんの「それを寄せ集めても全体の有機的連関は判らない」は、認識が転倒しているように思われます。

「人間の解剖」は、有機的連関存在である人の動作原理を少しでも知ろうという営為です。
つまり、解剖は連関的部分の動作原理を概念思考として知り得るのみで、全体の有機的連関は生身の人を見てわかろうとするしかありません。
それでも、解剖して知った部分の動作原理を知っていることで、生身の人が示す諸事象(動き方や不全状態)の原因を推測することができます。

マルクスは、有機的連関活動の総和としてある国民経済を対象に、それを「資本論」というかたちで解剖して見せたわけです。
「資本論」に限らず経済学の要点は、個々の経済主体(企業)がバラバラの存在ではなく、有機的連関性のなかにあることを見抜き、その有機的連関活動がどのような動作原理に規定されているかを説明することです。

言いたいことは、モジュールの動作原理は説明しそれを寄せ集めても全体の有機的連関は判らないが、全体が有機的連関に位置付けられているのら、モジュールの動作不全が全体の有機的連関活動にどのような影響を与えるかは説明できるということです。
それがうまく説明できないとしたら、モジュールの動作原理をよく知らないか誤って知っているか、解剖の仕方が悪かったためにモジュールの抽出に失敗しているか、有機的連関性の全体を誤って見ているかということになります。
(マルクス「資本論」のみならず、すべての経済学が、それらすべてにおいて誤りを犯しているか、わざと隠匿していると見ています)

「社会に埋め込まれた経済」だから経済学が成立しないのではなく、埋め込まれていようが露出していようが、経済活動(生存活動)が個々独立したバラバラのものであれば、経済学は無意味であると同時に成立もしないのです。(せいぜいが経済史的考察になる)

【バルタン星人さん】
「岩井の話に少し触れると、あっしらさんが慧眼にも見破ったように、「資本論」の価値形態論と交換過程論の循環を確信犯的に「労働価値」を抜くことによって理論的に完結させようとしたわけです。商品の体系が貨幣を支え、貨幣が商品の体系を支える「宙吊り構造」という仮象を導入して貨幣=金(きん)=「金の発掘に要する社会的労働」というマルクスの実体論を葬り去ろうということです。「超歴史的な貨幣表象」というグライダーは動力なしに滑空できるわけですが、しかし
グライダーを引いて浮力をつける「最初の一撃」は始源の奇跡になるわけで柄谷が「経済学者としてしゃべっていないだろう」というのはそういうことです。(これについては新田滋が『恐慌と秩序』でほぼ完璧な「批判」を展開しています、どうでもいい事ですが。)」


「貨幣=金(きん)=「金の発掘に要する社会的労働」というマルクスの実体論」は、それが利得にとって邪魔だと判断した“彼ら”によって、ほんとうに葬り去られました(笑)

それでも、リカードや「資本論」の「労働価値」は葬り去られていません。

社会的分業(有機的連関活動)の高密度化は、貨幣を貨幣ならざるもので置き換えることを許しても、社会的分業である限り「労働価値」を捨て去ることを許さないのです。

【バルタン星人さん】
「しかし逆に言えば贈与−互酬が成立する範囲が「共同体」なのではないでしょうか?共同体を集合概念で考えれば部落、講、無尽とか様々なクラスがありメンバーは重なったり、ずれていたりするでしょうし、空間的にしきられた実体的なものではないのではと思います。
西原理恵子の「毎日かあさん」じゃないけど「子どもが寝静まった夜中に蟹を貪り食う」贈与が成立する「家族」の中で抜け駆けと経済主体としての「市民」が集まる社会−市場でのエンロンみたいな抜け駆けとは同列ではないと思うわけです。社会、市場というのは共同体と共同体の間にあるものだと思っていますから。(サイバラは子どもに「オカシャン、ずるい」とか言われも「カニはわたしのもの、ミソは私のもの」と贈与しないのですが、これは「私有」というより親の裁量の範囲ですから。)」


まず、「市民」は、近代経済システムにおける経済主体ではありません。その市民が自営業者であれば経済主体と言えますが、そうでなければ、「所有されない奴隷」であり、消費主体としてのみ経済の連関に位置付けられるものです。
近代経済システムにおける経済主体は、資本の生産(増殖)活動を主体的に行なっている組織(経営者)や個人です。
労働者が、労働を喪失した生存様式が「近代」です。労働をしない人は経済主体とは言えません。(国家もその意味でいくら財政支出をしようとも経済主体ではありません)


贈与−互酬が成立する範囲が「共同体」だと思っています。

「共同体」は、概念的には地球という空間によって最大規模の仕切りができます。それは、概念的には地球規模で贈与−互酬が成立することを意味します。
それが不可能でないことは、“彼ら”が、500年以上の年月をかけたグローバリズムがいよいよ終局に入ったことを手掛かりに推論できます。

“彼ら”は、地球規模で抹殺をする一方で交換のみならず贈与−互酬も行わせています。

「近代」は、共同体性を家族(極端に言えば個人)レベルにまで細分化しました。
それを基礎にして、“彼ら”は、自分たちが差配できる共同体性を地球規模まで拡大したのです。

【バルタン星人さん】
「広松は「共同主観性」とかムツカシイことを言うけど様は顔見知りで言葉が通じる範囲です、見も蓋もなく言えば。そういう自然的条件と密着し自足した共同体は前レスの「コンビナート」と同じで変わりようがない、藤沢周平の「たそがれ清兵衛」の世界です。何百年たっても変わらない。これ以上ない「設計思想」ですから。そういう共同体(部族)間で略奪し合っても「交通」にはなりません。
別に「進歩」が良いなどと言いたいのではありません。今でも「未開人」たちは数百年変わらない生活をしていますが彼らが劣っているとか、知恵がないのではないわけです。彼らには完結した「世界観」や宗教がありますが「外部=交通」がない。むしろ「情報」として農業を知っていたのかもしれない。
しかし「あんな隷属的な労働までして生きても意味がない」と積極的に「外部」を遮断したのではないか、奥地に「逃亡」する事を選んだと思っているわけです。それは「伝承」や「宗教的禁忌」として痕跡を止めるけど、本来の意味は未開人たちにもたどれないのかもしれません。」


「近代」は、抽象的なものでありながらも生存様式という最も重要な観念の「共同主観性」を世界化しました。(武力行使という生存自体を抹殺する脅かしを伴いながらという歴史過程性はおくとして)

それは、アマゾンの現状を見てもわかるように、「遮断」を許さず「逃亡」さえ見逃さない勢いで行われています。


このような現実は、“彼ら”が注入した世界レベルでの「共同主観性」を別の内容に変えない限り、“彼ら”への隷属から脱することができないことを意味します。

必要のない概念思考や労働をしない“未開人”も、新しい「共同主観性」が世界を覆わなければ「遮断」も「逃亡」もできないのです。


【バルタン星人さん】
「当然あっしらさんのおっしゃるように「商人」が媒介したというのが実証的には正しいとは思っています。
この話を持ってきたのは冒頭の「共同組合」の話ですが、こういう外部性、偶然性=交通を持ってこないと共同体というのは自閉する、必ず腐ると思っているからです。原始共産制でもエデンの園でもいいですが
太古に理想状態があり、堕落して失ったものをレコンキスタ(失地回復)するという物語は左翼思想や宗教を問わず、すごく根深い。」


情報の「交通」という面では、軍隊・宗教家・学者が果たした役割が大きいと考えています。

「腐る」ということがどのような事象を指しているのか不明ですが、他者との「交通」と「閉鎖」のいずれがよる「腐る」ことにつながるかはなんとも言えないと思っています。
移動を通じて他者(外部共同体)に何かを求める人たちがいる限り、そして、その人たちが力を持っていれば、受け身としてだけであっても「交通」は遮断できません。
これが、現在に至るまでの世界史(国際交流史)の基本だと思っています。


「自然社会」や「太古の理想状態」への回帰志向ではなく、「「所与の条件」の批判としてしか「ありうべき社会像」はない」ということには強く同意します。

【バルタン星人さん】
「「価値形態論」では、異なる「使用価値」例えばコーヒーが10円、鉄が20円と貨幣を媒介にして自明のごとく数値に還元されますけど、分配の問題では「労働力の担い手」の差異がもう一回問われるのではないかと思うのです。「共同性の復権」とか簡単に言うと地獄に落ちそうだし。」


「コーヒーが10円、鉄が20円と貨幣を媒介にして自明のごとく数値に還元」されるのなら、それよって既に分配の問題も解かれているということになります。

交換は、現象としては「物の交換」ですが、実体は「労働の交換」です。


「分配の問題では「労働力の担い手」の差異がもう一回問われる」のなら、コーヒーや鉄の価格は“未定”のままということになります。

これは、「近代経済システム」論理の根幹に関わる問題ですから、少しこだわって考えてみていただきたい、と思っています。


【バルタン星人さん】
「はい、不均等性はありますが変化傾向として了解します。しかし全てをテクノロジーで解決不能なわけですから真の意味での「労働力の担い手」の流動性、例えば籤引きとかジャンケンで仕事を決めるような、具体的有用労働の差異が「けばけばしい隠喩」(ソンタグ)に取り憑かれないことが必要だと思うわけです。」


「労働力の担い手」問題は、多くの人が忌避する労働をどのような方法で実現するか(遺体の焼却は遺族が基本的に行うとか、忌避される労働に従事する人は忌避した人から報償を受けるとか)ということに集約されると思っています。

労働技能も、「近代」の歴史過程を通じて、熟練職人→単純労働者→装置操作者(「シンボルや観念の操作」)という方向性で変容しており、具体的有用労働の差異性は減少しています。

「開かれた地域共同体」は農工一体を基礎としてイメージしており、極端に言えば、共同体維持のための負担分を供出するなら、家族として自給自給の殻に閉じ篭ることも可能です。
産業活動も、お金になるからといって誰かわからない人のために何かをつくるということはなくなりますから、現在のように週40時間も働く必要はありません。(現在の物質的生活条件であれば、週25時間も働けば十分です)

このあたりの問題は、現段階であれこれ論じても意味はなく、ぎくしゃくしながらもそこに生きる人たちが問題を解決していくと確信しています。

「資本の増殖」のための奴隷から解放されるだけで、とりあえずは、今とそれほど変わらないことが出発点でもまったくかまわないと思っています。


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