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フェミニズムはマルクス主義と同じで「危ない思想」だと思っています(笑)
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/468.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 30 日 03:37:20:Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: Re: 重複になる部分がありますが。 投稿者 律 日時 2004 年 6 月 30 日 00:33:38)


律さん、こんばんは。

>私は、親密な他者もやはり「他者」だと思っています。「他人」ではありませんが。
>親、パートナー、子どもも、基本的に「他者」である(惚れた相手を特に区別する見
>解はいまのところもっていません)。
>同時に、私は自分自身も一番身近な「他者」であるという風にも思っています(離人
>症?)。


他者性が消えたところに性愛の極みがあるのではと思っています。
相手の存在性に惚れている時期から、自分の内なる相手に惚れるようになったときに充足と安寧を得たように思います。
むろん、これは馴れ合いとかぞんざいに扱うといったような話ではなく、相手の感性的(外見的)存在性が徐々に重み(意味)を持たなくなり、自分の内なる相手のイメージが大きな意味を持つようになるこということです。

このようなことで、「他者」意識はほとんど持っていません。

>家族は私的な『プライバシー』領域であり、むやみに国家権力等が介入するのは望ま
>しくなく、ある程度の自律性が確保されているべきであろうと思います。
>しかし、同時に、間違いなく家族は社会の中で公的な機関の一部をなしており、決し
>て単なる私的空間ではない。その意味では常に家族以外のものからの介入、侵入が
>あって当然の、それを見越して経営されるべき集団であるとも思っています。

お気持ちはわかりますが、受け容れない論です。

家族(個人家族を含む)の連合が社会であり国家だと考えています。
それぞれの家族がそこそこのレベルで安全に生きていけるように相互依存的関係を形成するのが国家社会であり、社会や国家という得体の知れない存在性のなかに息づいている家族が位置づけられるという考え方は“倒錯した危険思想”だと思っています。

刑法や民法の規定は家族内にも及ぶものですが、それは、どういうものであるかが明示されるとともに誰にでも平等に適用されるものであることでなんとか許容できます。
しかし、個別家族の具体的な問題に、求められもしないまま、公権力や他人が立ち入ることは認めることはできません。

あることだったらら一歩踏み込んでもいいとなれば、べき論や「善」で理屈付けてあれやこれにも立ち入るようになるはずです。

>子どもの問題については、私の考えでは家族というか子どもを生んだ夫婦だけがその
>子どもを養育する責任があるという発想に無理があろうと思っています。いまや伝統
>的な意味での共同体的つながり(もちろんしがらみであり、良い面ばかりではないも
>の)が崩壊し、家族がむき出しの孤立した状態にあるのがそもそも不安定なのであっ
>て、安定して子どもを生み、育てていくためには、かつてとは異なる形での家族への
>他者(国家権力ではなく、基本的には地縁的な集団が望ましい。あるいは民間企業で
>も)の介入を無理なくおこなえるような何らかのシステムが必要だろうと考えていま
>す(しかし、困難ではある)。
>もちろん、最終的な責任が子を生み出した男女双方に帰結することは十分に確認され
>るべきですが。

産休・育児休暇付与の法的義務化や幼児医療施設・託児所(ベビーシッター)・○○相談所といった機能を公費(みんなの負担)で相当部分負担すべき(できる)段階にあると思っていますし、ご近所のおばさん、おじさん、子供たちも支えてくれるかたちが望ましいと思っています。

家族から求められる外的サポートを整備することと、家族の内に入り込むというのは次元が違う話です。(この違いを曖昧にしてしまうと家族が政治支配層の管理下に入ることも善だとなってしまいます)

ご近所の方々も、相手(ある家族)が望んでいる“境界線”を気にしながら、お付き合いをしなければならないと思っています。

>しかし、同時に、社会的に恵まれない形で生まれてきた子どもをみすみす死なせてし
>まったのは、同じ社会にいる私たちの責任であるということも確かであるとおもいま
>す。勝手に始末をつけなさいでは済まない。ある程度介入する余地があると思います。
社会的に恵まれない形で生まれてきた子どもをみすみす死なせてしまうような国家制度にはなっていないはずです。(生活扶助もあれば、両親をなくした子供たちの面倒をみる仕組みもあります。これらは私たちの責任(負担)で行われています)

問題になっている幼児虐待は、それとは異質のものです。
病院にやってきた子どもの様子や身体がおかしいということで介入することは認めますが、それも慎重になされるべきだと思っています。(叩いた痕があったら、すぐ警察や児童相談所というのは異常だということです)
一軒一軒の家庭に虐待監視カメラを設置することは望まないでしょ?

>生まれてしまった生命には、人生をまっとうするまで生き続ける義務があります。不
>本意ながら私がいまだに生き続けているのも、病気や怪我で死ぬ機会がないからであ
>り、それが訪れるまでは何らかの手段で生きつづけねばならないのだろうと考えてい
>ます。

人生をまっとうするというのがどのようなことを意味するか不明ですが、生きたいと願う人はできるだけその願いを現実にして欲しいと思っていますし、生きているのならできるだけ楽しく生きて欲しいとも思っています。
生きる死ぬの判断をあまりしない幼児や子どもは、第一義的には家族が育てる責務があり、家族にそれができないのなら公的機関が面倒をみる責務があると思っています。


>ちなみに、私は、どなたかがうっかり生んでしまったけれども、育てられない子を、
>自分のもとで育てることを引き受けることも悪くないと思っています。

里親制度や養子縁組で、明示された生んだ親が育てられない子を引き取ることはできます。
しかし、幼児虐待問題は、それとは異質です。(虐待をしている親の多くは我が子をひとの手に渡したくないと思っているはずです)


>男性と女性の不均衡な社会的配置がすでに存在しているので、単に離婚すれば解決す
>る問題ではないですよね。それに子どもにとっては離婚したところでどちらも親であ
>るにはかわりないわけですしね。

配偶者による暴力問題は離婚すればいちおう解決します。

「男性と女性の不均衡な社会的配置がすでに存在している」なら、将来の話はともかく現実論としては、離婚で失うものと暴力の痛みを秤にかけて判断するしかありません。

虐待する親から離すために一方の親が離婚したのなら、虐待されていた子どもにも意味があるのではないですか?

律さんは、だからどうすればいいと考えておられるのですか?


>これが減るには社会的性差のありかたの改変がある程度必要であろうとおもうわけです。

人としての生き様のあり方が大きく関係していると思っているので、性差のあり方でドメスティック・バイオレンスが大きく減少するとは考えていません。

今後増えるのは、女性が行使する言葉を含む暴力だと思っています。

カスの女性を増やしたのがフェミニズムや「家庭における男女平等キャンペーン」だと思っています。

性差なぞ男と女の関係のときだけ気にすればいいのです。
政治や社会構造に関しては、性差を捨象した“人”として「支配−被支配関係」を中心に問題を提示すべきです。

念のため、言いたいことはご理解いただけますよね?
政治的社会構造的問題は、女性だ男性だと性差を持ち込まなくとも、説明できるし解決もできることがほとんど(産休など生殖絡みのみ性差)です。
それをなんでも性差に結びける連中は、支配層の分断・対立による効率的な支配に貢献しているだけです。


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