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(回答先: 「産業主義近代」の終焉は、マルクスではなく、ケネーの正しさを実証する:重農主義者は「産業主義近代」の終焉を予感していた。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 27 日 15:05:19)
あっしらさん、こんにちわ。
いつも面白く、拝見させていただいています。
重農主義の視点は、現況から考えれば、視点の必要条件であると思います。
ただし、気になるのは、人間が生存を維持するために必要なものは、
食べ物(農作物)と塩と水です。
水はなんだかんだいって、割と手に入りやすいですし、
作物の中にも入っているので、置いといて、
塩が重要になるんじゃないでしょうか。
塩は、エネルギーにはなりませんが、人間の生理的な物質循環のための
必要条件です。生産エネルギーとは異なる触媒としての役割の重要性は、
サラリーの語源が、サルー(ソルト)であり、ローマ軍の兵士の給与が
塩で払われたことからも伺われます。
日本では、宮本常一の「塩の道」に塩の役割などがつづられています。
土地生産力の不均衡による生産格差などの、問題もありますが、
純粋に考えて土地生産力に応じた人口の配置ができたとしても、
「食べる」と言う行為の時点で塩の流通の条件を欠くことができません。
このように、同時に起きる「塩の流通」の条件をクリアできなければ、
重農的概念は視点としては重要だとしても、理論的展開の初期条件を
満たしていないと思いますが、どうなのでしょう?
不躾ながら、ROMってたまにちゃちゃを入れる程度で、まともな対話も
できませんが、疑問点として提示させていただきました。
失礼します。