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EU加盟国が高校レベルの共通歴史教科書としている『ヨーロッパの歴史 第2版』(フレディック・ドルーシュ総合編集:木村尚三郎監修:村上克己訳:東京書籍:7000円)の序論部分に当たる「3 ヨーロッパ文明か、ヨーロッパ文化か?」に、新約聖書から引用したコラムがある。
14ページにある「2 キリスト教と個人の責任」とタイトルが付けられたそのコラムを紹介する。
「以下のたとえ話は、キリスト教の選択の自由と自由にともなう責任を見事に示したものである。同様の話が、「マタイによる福音書」では「タラントのたとえ」(25.14−30)という題で知られている。
《(略) イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。 (略)
さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』 (略)
また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』》
『ルカによる福音書』「ムナ」のたとえ、19.12−24
(新共同訳『聖書』(日本聖書協会)所載)」
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ヨーロッパ文化の一つの基礎と位置づけている新約聖書から選りに選ってこの部分を引用しただけでも凄いことだが、このたとえを「キリスト教の選択の自由と自由にともなう責任を見事に示したもの」と説明する“彼ら”の知的欺瞞ぶりには驚かされる。
編著者は、「キリスト教の選択の自由と自由にともなう責任を見事に示したもの」と言いながら、どうしてそう言えるかについてまったく説明していない。
引用文を要約しようとしても、「お金儲けがうまい下僕が主人からいい評価を得、いい目にもあう話」を超えるものはなかなか導き出せない。
確かに、商売をしろと言われて主人から預かったお金を何人かの下僕が様々に扱った(使った)のだから、“選択の自由”と言えなくもないし、その結果主人から異なる評価を受けるのだから“自由にともなう責任”を取ったと言えないこともない。
「商売をしろ」と言って渡され預かったお金なのだから、“選択の自由”といった大げさな話ではないことは明白である。(自分のために使うとか、貧乏人に喜捨するという選択肢はないし、実際にもそのようなことをした下僕はいない)
“自由にともなう責任”については、『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』と言っても、元々主人のお金だから、罰や損失を受けたわけではないので責任をとらされたとは言い難い。
評価された他の下僕も、王になった主人の余禄として町の支配権をもらったのだから、責任という大げさな話ではない。
(いい目にあわなかった人といい目にあった人の違いでしかない)
このような“瑣末な”文句はさておき、『ルカによる福音書』の第19章を引用したように切り貼りしたことを問題にしたい。
引用文のなかに(略)が3つほどある。
このたとえの直前は、「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」という文章がある。
そして、その前には次のようなたとえがある。
「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 」(「ルカによる福音書」第19章の先頭より)
福音書全体のトーンを踏まえ、福音書の引用で高校生にキリスト教の精神を示すのなら、イエスによって強欲な人が悔い改めることになったこちらの話のほうがよりふさわしいものだと判断する。
EU共通教科書『ヨーロッパの歴史』の編著者は、たとえ話が自分たちの狙い通りに受け止められないことを危惧して、たとえ話から肝心なところを削り落としている。
EU教科書:「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。 (略)
さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。」
(略)のところには、「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。」という文章がある。
編著者は、主人である彼が、国民から憎まれていたことを隠したのである。
このため、このたとえの結末も隠している。
EU教科書は、「そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』」で終わっている。
しかし、引用元の「ルカによる福音書」は、その後に、「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」
福音書からわざわざ該当部分を巧妙に抜き出して引用し、それを「キリスト教の選択の自由と自由にともなう責任を見事に示したもの」と強引にしかも根拠レスで高校生に教え込もうとする“彼ら”がどれほど腐った連中か、ご理解いただけると思う。