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通勤の電車のなかで今読んでいるのが『私は、経済学をどう読んできたか』(ロバート・L・ハイルブローナー著:中村達也/阿部司訳:ちくま学芸文庫:1500円)である。
聖書から始まりアリストテレス、スミス、マルクス、ワルラス、ケインズ、シュンペーターまで経済に関する考察をそれぞれの著作物から引用し、簡単な解説を付加するというスタイルを採っている。
今日読んだなかにアダム・スミスの項があり、さすがに東インド会社のエージェントだとも言われる人だと思わせてくれたので紹介したい。
「“彼ら”の冷酷は寄生性とエリート思想に拠る:貨幣の害の最悪は保存性:貨幣の怖さは「主−客意識」をも破壊する超越性」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/411.html )で書いた「このため、“彼ら”も宗教や思想に依存することになります。それは、安定的な支配の道具として被支配層に刷り込む宗教や思想とは別種のものです。インサイダーではないのでたぶんですが、基本は、エリート思想ないし選民思想です。それによって、自分たちは被支配層とは別の存在であると素直に考えられるようになり、エリートや選民ではない愚かな被支配者たちを支配するのは当然であるを超えて義務だと信じられるようになります」に該当するものである。
スミスの出世作『道徳感情論』より:(頁数は『私は、経済学をどう読んできたか』のもの)
「かれら(引用者注:地位のある富裕者)が消費するのは、貧乏な人びとよりもほとんど多くないし、そして、かれらの生まれつきの利己性と貪欲にもかかわらず、かれらは自分のたちのすべての労働によってねらう唯一の目的が、かれら自身の空虚であくことを知らない諸欲求の充足であるとしても、そのなのである。かれらは、見えない手に導かれて、大地がそのすべての住民のあいだで平等な部分に分割されていた場合になされたであろうのとほぼ同一の、生活必需品の分配を行うのであり、こうしてそれを意図することなく、それを知ることなしに、社会の利益をおしすすめ、種の増殖にたいする手段を提供するのである。神慮が大地を、少数の領主的な持主に分割したときに、それは、この分配において除外されていたように思われる人びとを、忘れたのでも見捨てたのでもない。これらの最後の人びともまた、大地が生産するすべてにたいする、かれらの分け前を享受するのである。人間生活の真の幸福をなすものにおいては、かれらはいかなる点でも、かれらよりもあのようにずっと上だと思われるであろう人びとに、劣らないのである。肉体の安全と精神の平和において、生活上のさまざまな身分は、すべてほぼおなじ水準にあり、そして、公道の傍で日なたぼっこをしている乞食は、国王たちがそれをえるために戦っている安全性を、所有しているのである。
―前掲書(下巻 一六―一八 二〇―二一、二二―二五ページ)」(P.126)
[領主や金持ちを妬んだり恨んだり憎悪してはなりません。かれらがどんなに横暴で利己的であっても、かれらが贅沢をすることで、自然の摂理(見えない手)に導かれて、人々を平等にちゃんと生きていけるようになるのです。乞食だって国王とまったく別世界の人間ではないのですよ。...ということだそうです(笑)]
スミスの代表作『国富論』より:
「第一章
分業について
労働の生産力における最大の改善と、どの方向にであれ労働をふりむけたり用いたりする場合の熟練、技能、判断力の大部分は分業の結果であったように思われる。・・<中略>・・
第一に、職人の技能の改善により、かれが果たすことのできる仕事の量は必然的に増大する。そして分業により、あらゆる人の仕事は単純な作業に還元され、またこの作業がその人のただひとつの仕事になってしまうので、必然的に職人の技能は大いに増進する。・・<中略>・・
第三に、そして最後に、適切な機械設備を用いるとどんなに労働が容易となり、また短縮されるかは、だれにでもよくわかることであって、なにも例をあげるまでもない。そこで私は、労働をこれほど容易にし短縮させるすべてのこうした機械類の発明が、じつは分業の結果生じている思われるということを、ここで述べておくだけにしよう。人は、その精神の全注意を単一の目的に向けているときのほうが、さまざまな事物に分散させておくときよりも、目的達成上、いっそう容易で手っ取り早い方法を発見する見込みがずっと大きい。」(P.129〜135)
[分業(企業内協業)のメリットを述べたものである。このようなことを書いているアダム・スミスが第5編の国家の記述に移ると...]
「 分業の発達とともに、労働で生活する人々の圧倒的部分、つまり国民大衆の就く仕事は、少数の、しばしば一つか二つのごく単純な作業に限定されてしまうようになる。ところで、おおかたの人間の理解力というものは、かれらが従っている日常の仕事によって必然的に形成される。その全生涯を、少数の単純な作業、しかも作業の結果もまた、おそらくいつも同じか、ほとんど同じといった作業をやることに費やす人は、さまざまの困難を取り除く手だてを見つけようと、努めて理解力を働かせたり工夫を凝らしたりする機会がない。そもそも、そういう困難が決して起こらないからである。こういうわけで、かれは自然にこうした努力をする習慣を失い、たいていは神の創り給うた人間としてなり下がれるかぎり愚かになり、無知になる。その精神がマフしてしまうため、理性的な会話を味わったり、その仲間に加わったりすることができなくなるばかりか、寛大で高尚な、あるいはやさしい感情をなに一つ抱くこともできなくなり、結局、私生活のうえでの日常の義務についてさえ、多くの場合、なにもまともな判断が下せなくなってしまう。自分の国の重大で広範な利害についても、まったく判断が立たない。」(P.173〜174)
[一つ前のものと較べたとき、分業について同じ人が書いたと思えるだろうか。生産活動の効率性として分業を考えたときは、人(労働者)を手段として見ている。そして、国家の統治に関わる考察では、分業が人の精神的に及ぼす壊滅的とも言える害毒を述べている。スミスを弁護すると、さすが道徳哲学者らしく、分業がもたらす害悪に続き、国家の事業として少年少女で働きに出る労働者の子弟にも読み書き、計算は教えるべきだと説いている]
このような、そして、神の見えざる手を持ち出した自由主義者アダム・スミスでも、経済学者ハーバート・シュタインによると、
「スミスは明白に、政府に以下のような権限を認めているのである。
● 海運業を保護し、防衛関係の製造業者に補助金を与える
● 他の国から互恵的関税率引き下げを勝ち取るために関税をかける
● 詐欺や暴力、不正に対抗する措置をとる
● たとえばスターリング・シルバーのマークなど、品質を表示するものを設ける
● 雇用主は賃金を物品よりも現金で払うことを義務づける
● 銀行業を規制する
● 幹線道路や運河など、公共財を供給する
● 郵便事業を行う
● 特許や著作権を与える
● 新規の、またはリスクの多い分野で商売を始める企業に一時的な独占権を与える
● 子供が一定水準の教育を受けることを義務づける
● 伝染病の予防措置をとる
● 街路をきれいにするなど、公衆衛生を義務づける
● 分不相応な、または贅沢な行為防止のために課税を行う
● 金利に上限を設ける
レーガン政権の象徴としてスミスが使われたことに触れて、シュタインはこう述べている。
「アダム・スミスは、スミス・ネクタイなんぞ締めていなかった」」(P177〜178)
[金融自由化や郵政民営化・道路公団民営化を行おうといている小泉政権がどれほど“過激”な自由主義かがわかるはずだ。]