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善悪論を考えることの意義について
あっしらさんの提案されている個々の事象の善悪についての皆の反応を見て、思ったことを書きます。(否定的なことではありません)
まず「善悪」というものは、すべての事象においてすべての側面で「善悪」ということを断定することは難しいと思われます。
例えば、「援助交際における善悪」については、
「少女にとっての善悪なのか」「世の男性にとっての善悪なのか」「夫婦にとっての善悪なのか」「社会にとっての善悪なのか」「倫理に照らしての善悪なのか」「芸術性に照らしての善悪なのか」「経済に照らしての善悪なのか」「宗教に照らしての善悪なのか」「人間の意義に照らしての善悪なのか」「少子化についての善悪なのか」「健康についての善悪なのか」・・・・。
つまり「善悪」というものは多角的に無数に存在しており、場所・時間等に流動的な概念だと思いますので、漠然と「善悪」を共有しようとすることは難しい問題なのではないかと思われました。
では「善悪」を共有しようという今回の様な試みは無意味かと言われると、逆に有意義だと思っております。その意義についての私見です。
@「善悪」というものの「多角的・無数的・流動的・程度的」な概念を理解してもらうことによって主観的な善悪の意味を考えてもらうこと。
A個々の人間にとっての「善悪」を考える上でどこの基準(側面)をより重要視するべきかを考えてもらう事。
B人間が物事を「善悪」と決断する上での訓練となり、速断という人間にとってはより理想的な動作を容易にできる等のキッカケしてもらうこと。
C(隠れた意義として)最終的極論的には「人間とは何か?」という問題に結びつき、それを考えてもらうこと。
ではないかと考えました。
「善悪」を考える問題は多くの主観的立場における「善悪」の基準となる側面が存在し、故にそのバランスを計ることの難しさが表れることだと思います。
人が「善悪」と決断するときはそのバランスをいかに調整していくかという問題が重要であり、どこに判断の基準の重きを置くかといったことも重要になると思われます。故にこの問題の複雑さを示しているのではないのでしょうか。
ちなみに私が考える「善悪」とは、この世の事象の「善悪」は究極的極論的にはすべて善であるとする立場ですが、ただ私が人間として生きていく上での日々「善悪」を判断することにおいては簡単に言いますと「地球について善なのか悪なのか」と考え、次は「人間にとって善なのか悪なのか」を考え、次は「日本にとって善なのか悪なのか」、次は「会社にとって善なのか悪なのか」、次は「家族にとって善なのか悪なのか」と考えるという段階で重きの順番を下ろしてくる考え方です。自分の考えにおけるこの「善悪」の判断方法は、現在の社会においては全く一般的ではなく、どちらかと言うと逆と思っております。ですから、それも含めてすべてはバランスと考えて決断するようにと思っております。
対人との共同作業における善悪の判断をしていく場面においては、最終的にはこのバランスを重要視しているつもりです。(夫婦においては妻の考え方とのバランス等・・・)
そしてそのバランスがどうしても計れないと感じたときは、「究極的極論的にはすべて善」とした私の考え方に立ち戻り、相手の考えに同調する道を選ぶのだと思います。
(但し、同調するということが常に同じ行動を生み出すことではないと思っております)